風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

新しい確かな霊を

神よ、
私のうちに清い心を創造し、
新しく確かな霊を授けてください。詩編5112
 
 たとえ話の中で、息子は言った。
「ここをたち、父のところに行こう。」ルカ1518
 
 Ⅰテサロニケ1210
 ルカ11513(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句2/23;木)
 
 民がアモン人(現在のヨルダン)との戦いに出ているとき、ダビデエルサレムの王宮に留まっていたのだそうです。
そして、ある夕方、王宮の屋上を散歩しているとき、ひとりの女がからだを洗っているのが見え、ダビデは、その女、自分の忠実な部下、ウリヤの妻バテ・シェバを召しいれ、関係を持ったのだそうです。
 
 バテ・シェバからみごもったとの連絡を受けたダビデは、夫のウリヤを戦場から呼び戻し、家に帰らせようとしますが、ウリヤは、「神の箱も、イスラエルも、ユダの仮庵に住み、私の主人ヨアブも、私の主人の家来たちも戦場で野営しています。それなのに、私だけが家に帰り、飲み食いして、妻と寝ることができましょうか」と、家には帰りませんでした。
 それで、ダビデは、ウリヤに、将軍ヨアブに宛てた手紙を持たせて戦場に送り返しました。
「ウリヤを激戦の真正面に出して、彼を残してあなたがたは退き、彼が打たれて死ぬようにせよ」との。
 こうして、ウリヤは死に、ダビデはバテ・シェバを妻としたのだそうです。
 
 そのとき、天の神、主は、預言者ナタンをダビデのもとに遣わして告げられました。
「わたしはあなたを王とし、あなたの主人の家をあなたに与え、主人の妻たちをあなたのふところに渡した。それでも少ないというのなら、わたしはあなたにもっと多くのものを増し加えたであろう。
それなのに、どうしてあなたは主のことばをさげすみ、わたしの目の前に悪を行ったのか」と。
 
 その時のダビデの詩なのだそうです。
神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、
あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪を拭い去ってください。
どうか私の咎(とが)を、私から全く洗い去り、
私の罪から、私をきよめてください。
まことに、私は自分のそむきの罪を知っています。
私の罪は、いつも私の目の前にあります。
私はあなたに、ただあなたに、罪を犯し、
あなたの目の前に悪であることを行いました。
御顔を私の罪から隠し、私の咎(とが)をことごとく、拭い去ってください。
 
神よ。私に清い心を造り、
揺るがない霊を私のうちに新しくしてください。
私をあなたの御前から投げ捨てず、
あなたの聖霊を、私から取り去らないでください。
あなたの救いの喜びを、私に返し、
喜んで仕える霊が、私をささえますように」(詩篇5114912新改訳)。
 
 
 イエスが話されたたとえ話の一つですが、
父親にせがみ、財産を生前贈与してもらった弟息子が、財産をお金に換え、遠くの町に行き、放蕩三昧をして金を使い果たし、飢え死にしそうになったときに言った言葉なのだそうです。
家に帰って来て、
「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません」と言う弟息子に、
父親は、しもべたちに言いつけたのだそうです。
「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。
手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから」(ルカ151124)。
 
 さらにイエスは言われます。
「求めなさい。そうすれば与えられます。
捜しなさい。そうすれば見つかります。
(門を)たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであっても、求めるものは受け、
捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」(ルカ11913)と。
 
 私たちも、ダビデのように、〔生まれたときからの私〕という霊は、神に背き、御思いから〔的はずれ〕になっていることを認めるのであれば、それをイエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、処刑されたもの、死んだものとしていただき、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣していただいて霊を新しくし、
この方から来る御思いが心に満ちるようにしていただいて、心を新しくしていただけるのだそうです。
 
 この方は、イエスのたとえ話の弟息子に与えられた〔息子のしるし〕である指輪のように、神の子の身分を与える霊なのだそうですから、この方によって〔神の子〕の身分をいただき、〔父である神〕を「お父さん」と呼ぶ者にもしていただけるのだそうです。
 
 そして、〔父である神〕が私を通してしようと思っておられる御思いの中に、「力と聖霊と強い確信」をもって(Ⅰテサロニケ15)出て行くのだそうです。
今、置かれている場に。
今日も。
 
 
 
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実を変えるには、木から替えなければいけないのだそうです

見よ、わたしは驚くべき業を重ねて、この民を驚かす。

賢者の知恵は滅び、聡明な者の分別は隠される。イザヤ書29:14

 

 天使はヨハネについて言った。

「彼はイスラエルの多くの子らを

その神である主のもとに立ち帰らせる。

彼はエリヤの霊と力で主に先立って行き、

父の心を子に向けさせ、

民を主のために用意する。」ルカ1:16~17

 

 ルカ6:43~49

 ルカ11:1~4(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句2/22;水)

 

 天の神、主は仰せられるのですね。

「この民は口先で近づき、くちびるでわたしをあがめるが、その心はわたしから遠く離れている。彼らがわたしを恐れるのは、人間の命令を教え込まれてのことにすぎない」(イザヤ29:13)と。

 

それで、天の神、主は、ご自分の側で、驚くべき業を行うとおっしゃられるようです。

 

 〔父である神〕は、〔独り子〕である方を、人とし、キリスト(救い主)として人の世に送られるとき、まず、「荒野に叫ぶ者の声、主の道を用意する者」として、バブテスマのヨハネを遣わされたのだそうです(ルカ3:1~4)。

 

 けれども、指導者たちは彼を認めようとせず、彼に対して好きかったなことを行ったのだそうです。

そして、あとから来られる方、キリスト(救い主)である、人となられた〔御子である神〕にも、同じような扱いをしたのですね。

 

 彼らは、十字架に架かられているイエスをあざけって言いました。

「今、十字架から降りてもらおうか。

そうしたら、われわれは(お前がキリストだと)信じるから。

もし神のお気に入りなら、今救っていただくがいい。

『わたしは神の子だ』と言っているのだから」(マタイ27:41~43)と。

 

 彼らにしても、全知全能である神の御子である方が人間の手にかかって十字架につけられるなど、考えも及ばなかったのですね(Ⅰコリント2:8~9)。

 

 けれども、これは、〔父である神〕の人間を救うためのご計画であり、世の初めからずっと預言されてきたことだったのだそうです。

預言者を通して。また、罪の身代わりとして動物のいのちをささげる祭儀を通して。

 

 〔父である神〕は、「われわれのかたちとして、われわれに似たもの」として人間を造ろうと思われた時、当然、人間は、その与えられた自由意思をもって自分に背く者になることも予測、予知されたはずです。

そうなれば、この創造の計画は挫折することになりますが、

そのときには、〔御子である神〕が、人となって、人の世に降り、すべての人のそむきの罪の責任を負って、反逆の罪で、神に呪われた者となり(申命記21:23)、木に掛けられることにしようと。

 〔御子である神〕のいのちを、贖い(あがない、買い戻すこと)の代価として支払い、回復の道を開くことを計画に盛り込んだうえで、「さあ、人を造ろう」(創世記1:26)ということになったようです。

 

 私たちは、正しい、良い人間になるために、行動を変えようとしますが、イエスは仰るのですね。

「悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです」(ルカ6:43~45)と。

 

 人は、霊の思いが心に満ちて、それを口から出すもののようです。

「神のひとりのようになり、善悪を知る者になっている(創世記3:5、22)、天の神、主に背き、対立、対抗している霊のままでは、良い実を結ぶことはできない、ようです。

 

 〔父である神」は、私たちの、この「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている、〔生まれた時からの私〕という霊を、イエスの十字架刑での処刑に合わせて処刑されたもの、死んだものと手続してくださるのだそうです。

そのうえで、新しい霊として、イエスを通して、〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださるのだそうです。

 

 そして、この方によって、受け入れる者の心にご自分が一人一人に思っておられる御思いを置いてくださり、受け入れる者の心にご自分の御思いが来るようにしてくださるのだそうです。

それで、受け入れる者の口は、〔父である神〕が話そうと思われることを話すようになり、しようと思われることをしていく者にしていただけるのだそうです(エレミヤ31:33、エゼキエル36:25~27、使徒2:4)。

 

 砂の上に家を建てるような、〔生まれた時からの私〕という霊から来る思いによって行動するのだはなく、岩を土台として家を建てるように、〔聖である霊〕と呼ばれる方から心に来る御思いによって行動していく、良い実を結ぶ良い木に。

今日も。

 

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揺るぐことなく、この希望に踏みとどまり

神の言葉:
わたしは雲の中にわたしの虹を置く。
これはわたしと大地の間に立てた契約のしるしとなる。創世記913 
 
 揺るぐことなく信仰に踏みとどまり、
あなたがたが聞いた福音の希望から離れてはなりません。
この福音は、
世界中の至るところの人々に宣べ伝えられています。コロサイ書123
 
 申命記324447
 ルカ102537(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句2/20:月)
 
 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方から、「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて(創世記Ⅰ:26)と望まれて造られた私たち人間。
 
 けれども、最初の人、アダムは、その天の神、主によって造られた「われわれのかたちとして、われわれに似せて」という場に留まることをしないで、もっと素晴らしい者、権威、力を持つ者になろうとして、「神のひとりのようになり、善悪を知るようになった」(創世記3522)のだそうです。
 人は、自分の理性を神とし、自分の理性による善悪の判断のままに生きる者、自分を誰よりも高く、神よりも上の場に置こうとするものになり(イザヤ141314)、天の神、主に対立、対抗し、人間同士も互いに対抗するものになったのだそうです。
 その結果、人は、自分の思いどうりにならないと人を殺す者にもなり(創世記418)、人がその心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾き、地上に人の悪が増大し、地は、神の前に堕落し、暴虐で満ちてしまったのだそうです。
ついには、天の神、主が、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められるほどに。
 
 それで天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は仰せられたのだそうです。
「わたしが創造した人を地の面からけしさろう。
人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。
わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ」(創世記657)と。
 
 しかし、ノアは、正しい人で、その時代にあっても、全き人であり、神とともに歩んでいたので、天の神、主は、ノアに箱舟を造るように命じ、箱舟に入ったノアとその家族、動物たち以外の、神を無視し、箱舟に入ろうとしなかった人たちは、洪水で滅びることになったのだそうです。
 
 およそ、1年間あった洪水の水が引き、地が乾いて、ノアたちが箱舟から出て来たとき、天の神、主は仰せられたのだそうです。
「わたしは、決して再び人のゆえに、この地を呪うことはすまい。
(善悪を知る者になった)人の心に思い計ることは、初めから悪であるからだ。
わたしは、決して再び、すべての生き物を打ち滅ぼすことはすまい」(創世記821)と。
 そして、仰せられたのだそうです。
「わたしはあなたがたと契約を立てる。
すべての肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。
もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない」と。
そして、その契約のしるしとして、雲の中に虹を立てられたのだそうです(創世記9917)。
 
 天の神、主は、別に計画を立てておられたのだそうです。
人を洪水で滅ぼすことはしないと決められたのですが、
今度は、〔御子である神〕が、人となって人の世に来られ、
人として、すべての人間のすべての反逆の責任を取って、
すべての人の身代わりとなっての処刑を受け、
受け入れる者を処刑が終わっているものとしようと。
 
 そして、受け入れる者に、新しい霊を、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣して、この方によって、心を一新しようと。
その心に〔父である神〕が一人一人に思っておられる御思いを置き、受け入れる者が〔父である神〕と同じ思いを思い、一つ心になって生きる者に、「われわれのかたちに、われわれに似たものに」なってくれるようにと。
 
 およそ。2000年ほど前、マリヤの子、ナザレ出身のイエスが、ユダヤの地、エルサレムで、ローマ総督ピラトのもと、十字架刑で処刑されたこと。墓に葬られたそのイエスが、三日目、日曜日の早朝、墓から新しい霊のからだに復活し、40日に渡って何度も弟子たちに現れて神の国について教えた後、弟子たちの見ている前で、オリーブ山から天の〔父である神〕の右の座、〔御子である神〕の位に帰られたこと。
 
 そして、10日後のペンテコステ(五旬節)の日、待ち望んでいた弟子たちに、約束の〔聖である霊〕と呼ばれる方が来られ、弟子たちは、この方が話させられるとおりに話すようになったこと。
 
 そして、この出来事は、エルサレムから始まって、ユダヤ、サマリヤの全土、地の果てにまで伝えられている。
 
 今も、受け入れる者に〔聖である霊〕と呼ばれる方が来られ、心を一新してくださって、受け入れる者が〔父である神〕の御思いによって生きる新しい生き方が始まるのだそうですから。
 
 それで、揺るぐことなく、この生き方に踏みどどまり、離れないように、と勧められているのですね。
「これは、あなたがたにとって、むなしいことばではなく、あなたがたのいのちである」(申命記3247)のだそうですから。
今日も。
 
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かたくなな心を耕されて

今日、あなたたちが神の声を聞くなら、
心をかたくなにしてはならない。ヘブル書3152/19の週の聖句)
 
 主はあなたの先祖たちの繁栄を喜びとされたように、再びあなたの繁栄を喜びとされる。申命記309
 
 テモテへのパウロの手紙:
あなたが抱いている純真な信仰を思い起こしています。
その信仰は、まずあなたの祖母ロイスと母エウニケに宿りましたが、
それがあなたにも宿っていると、私は確信しています。Ⅱテモテ1:5
 
 ルカ8:4~8(9~10)
 詩編18:21~5
  (ローズンゲン日々の聖句2/19;Ⅲ日)
 
 
 「心をかたくなにする」、それは、自分の理性の判断を正しいとし、その判断を最良のもの、最高のものとして、自分の判断に固執し、他の意見を聞こうとしないことでしょうか。
うなじ(首筋)の強い(こわい)という表現もあるようです。
別の表現では、「自分を神とする」ことでもあるのでしょうね。
 
 これは、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」となった私たち人間の特徴であり、「神と心を一つにする」あり方の対極にある在り方なのでしょうね。
 
 今日、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は語っておられ、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって私たちの心に、私たち一人一人に思っておられる御思いを置いてくださるのだそうです。
 
 けれども、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている私たちは、その声に聞こうとせず、自分の判断、自分の思いを実現しようとする、心のかたくななもの、うなじのこわいものなのですね。
 
 天の神、主は、そのような心のかたくなな私たち自身である、〔生まれたときからの私〕という霊を、御子イエスの十字架刑での処刑に合わせてくださって、処刑されたもの、死んだものと手続きしてくださっているのだそうです。
 
 ですから、イエスの死を自分の〔生まれたときからの私〕という霊の死と受け取って、〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる御思いについて行くなら(ガラテヤ52425)、私たちは、天の神、主から来る安息にあずかり、繁栄を恵みのプレゼントとしていただくことにもなるようです。
天の神、主は、私たちの繁栄を喜びとされる方なのだそうですから。
 
 人の足で踏み固められた道ばたのような、自分の経験を基にした判断で固まった心、岩の上の土の薄い土地のように自分の判断で身を引いてしまう心、この世の心づかいや富、快楽を重視する思いを砕かれ、耕されて、50倍、100倍の実を結ぶ者に(ルカ8:4~15)。
 
 パウロは若い弟子テモテに書き送っています。
いよいよこの方との関係を深め、この方、〔聖である霊〕と呼ばれる方の働きの現れをいただいていきなさい(Ⅱテモテ16)と。
 
 そして、私たちもあのダビデのようにうたうのですね。
 神、その道は安全。
主のみことばは純粋。
主はすべて彼に身を避ける者の盾。
まことに、主のほかにだれが神であろうか。
私たちの神を除いて、だれが岩であろうか。
この神こそ、私に力を帯びさせて私の道を完全にされる。
彼は私の足を雌鹿のようにし、私を高い所に立たせてくださる。
戦いのために私の手を鍛え、
私の腕を青銅の弓をも引けるようにされる
 
 主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は生きておられる。
ほむべきかな。わが岩。
あがむべきかな。わが救いの神(詩篇18303446)と。
この新しい週も。
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憐れみを受ける者にしていただいて

わたしに尋ねようとしない者にも尋ね出される者となり、
わたしを求めようとしない者にも見出される者となった。イザヤ書651 
 
 神はあなたがたを暗やみの中から
驚くべき光の中へと招き入れてくださいました。
あなたがたは「かつては神の民ではなかったが、
今は神の民であり、
憐れみを受けなかったが、
今は憐れみを受けている」のです。Ⅰペテロ2910
 Ⅰコリント12631
 ルカ102124(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句2/18:土)
 
 天の神、主は言われます。
 わたしは、わたしの名を呼び求めなかった国民に向かって、
「わたしはここだ、わたしはここだ」と言った。
わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた。
 
 この民は、いつもわたしに逆らってわたしの怒りを引き起こし、園の中でいけにえをささげ、れんがの上で香をたき、墓地に座り、見張り小屋に宿り、豚の肉を食べ、汚れた肉の吸い物を器に入れ、「そこに立っておれ。私に近寄るな。私はあなたより聖なるものになっている」と言う。
 
 「これらは、わたしの怒りの煙、一日中燃え続ける火である。
見よ。これは、わたしの前に置かれている。
わたしは黙っていない。必ず報復する。
わたしは彼らのふところに報復する。――
山の上で香をたき、
丘の上でわたしをそしったあなたがたの咎と、あなたがたの先祖の咎をともどもに。
わたしは、かれらの先のしわざを量って、彼らのふところに、報復する」(イザヤ6517新改訳)と。
 
 
 けれども、〔父である神〕は、その怒り、報復を私たちに向けないで、私たちの代わりに、〔御子〕である方に向けてくださったのだそうです。
 〔御子〕である方を人間イエスとして人の世に送り、この方がおよそ33歳の頃、反逆者として十字架刑で処刑し、私たちの反逆の罰を処刑が終わったものとしてくださり、私たちには和解の手を差し伸べ続けて下さっているのだそうです(Ⅱコリント51821)。
 
 この世には知者がおり、権力者、身分の高い者、強い者もいます。
しかし、天の神、主は、霊の貧しい者、この世の、愚かな者、弱い者、取るに足りない者を選び、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民としてくださろうとして、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださっているのだそうです。
 
それで、その招きに応じる者は、神の民でなかったのに、神の民としていただき、あわれみを受けない者であったのに、あわれみを受ける者にしていただけるのだそうです(Ⅰペテロ2:9~10)。
 
 創り主よりも、自分のほうが知恵があり、素晴らしいものだとする〔生まれたときからの私〕という霊を、イエスの十字架刑での処刑に合わせていただき、処刑されたもの、死んだものとしていただいて、新しく、イエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方お迎えし、この方によって、〔神の子〕の身分を与えていただき(ロマ8:15)、神の家族として、〔父である神〕の私にたしする御思いを心に置いていただいて、〔父である神〕と思いを同じくし、心を一つにして歩む者に、と。
 
 かしこい者や知恵のある者ではなく、幼子たちを(ルカ1021)。
今日も。
 
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正しく裁かれる時が来るのだそうですから

ヤコブよ、なぜ言うのか、
イスラエルよ、なぜ断言するのか、
私の道は主に隠されている、と、
私の裁きは神に忘れられた、と。イザヤ書4027
 
 自分の確信を捨ててはいけません。
この確信には大きな報いがあります。ヘブル書1035
 
 マラキ書31318
 ルカ101720(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句2/17:金)
 
 確かに、この世には天の神、主の神の御手は届いていなくて、悪い者が栄え、「神に仕えるのはむなしいことだ。神の戒めを守っても、万軍の主の前で悲しんで歩いても、なんの益になろう。今、私たちは、高ぶる者をしあわせ者と言おう。悪を行って栄え、神を試みても罰を免れる」というような状況があります(マラキ31415)。
 
 しかし、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は言われます。
「ヤコブよ。なぜ言うのか。
イスラエルよ。なぜ言い張るのか。
「私の道は主に隠れ、
私の正しい訴えは、神の前に見過ごしにされている」と。
 あなたは知らないのか。聞いていないのか。
主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は永遠の神、
地の果てまで創造された方。
疲れることなく、たゆむことなく、
その英知は測り知れない。
疲れたものには力を与え、
精力のない者には活気をつける。
若者もつまずき倒れる。
しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、
鷲のように翼をかって上ることができる。
走ってもたゆまず、歩いても疲れない」(イザヤ402731新改訳)と。
 
 次のようにも書かれています。
「私たちは、『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする』、また、『主がその民をさばかれる』と言われる方を知っています。
あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。
それは大きな報いをもたらすものなのです。
あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
『もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。
おそくなることはない。
わたしの義人は信仰によって生きる。
もし、恐れ退くなら、わたしの心は彼を喜ばない。』
 私たちは、恐れ退いて滅びるものではなく、
信じていのちを保つ者です」(ヘブル10303539)とも。
 
 確かに、イエスが言われるように、
「あなたがたの名が天に書きしるされていることよろこびなさい」なのですから(ルカ1020)。
天に国籍を持つ者、〔父である神〕から、御思いを実現するよう派遣されて今、遣わされた場に出て行く者、用が済んだら本国へ帰る者であることを覚え、帰る国を仰ぎ望みながら進むのですね。
私たち。今日も。
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生きることになるのですね。私たちも。

主は私たちを、どのように造るべきかを知っておられた。
私たちがちりにすぎないことを、御心に留めておられる。詩編10314
 
 イエスの言葉:
わたしが生きているので、
あなたがたも生きることになる。ヨハネ1419
 
 Ⅰコリント3:(1348
 ルカ10116(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句2/16:木)
 
 すべてのことは、〔父である神〕の御思いから発しているのだそうです。私たち一人一人も、まず、〔父である神〕が思っておられる私があり、その御思いのとおりに造られたているのだそうです。
 
 神である主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、土地のちりで人のからだを形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれ、そこで人は生きるものとなったのだそうです(創世記27)。
 
 それで、天の神、主が、私たちの息、霊を呼び戻されると、私たちは土地のちりで造られた〔からだ〕をこの地上に残して、霊は天の神のもとに帰って行くことになるようです。
 
 けれども、イエスが十字架刑にかかられる前の晩の、最後の晩餐の席で言われたとおりに、十字架刑で処刑されたイエスが、三日目、日曜日の早朝、土地のちりで造られた〔からだ〕にではなく、新しい〔霊のからだ〕に復活されたことによって、受け入れる者も、イエスと同じ、新しい〔霊のからだ〕に復活して、生きるものにしていただけるのだそうです。
 
 この〔からだ〕についてはそのようですが、〔霊〕について言えば、私たちの〔生まれたときからの霊〕は、天の神、主の「われわれのかたちとして、われわれに似せて」造られていながら(創世記Ⅰ:26)、その造られた場に留まることをせず、もっと素晴らしい者になろうとして、「神のひとりのようになり、善悪を知るように」なって、天の神、主に対抗、対立する者、そむく者になっているのだそうです。
天の神、主の創造の御思いから〔的はずれ〕になってしまっているのですね。
 
 それでもなお、天の神、主は、その〔的はずれ〕の私たち人間を愛し、これを廃棄処分にされないで、回復の道を計画されたのだそうです。
 
それで、そのご計画の時が満ちたとき、そのご計画のとおりに、〔御子である神〕は、天の栄光の座を後にして、ダビデの子孫であるひとりの処女マリヤの胎を通して、アダムのそむきの性質を受け継いでいない〔女の子孫〕として(創世記315)人の世に来られ(ヨハネ114)、およそ、33歳の頃、ご計画のとおりに、神に背く者として十字架刑によって処刑されてくださったのだそうです。
 
 
 〔父である神〕は、このイエスを、その全能の力によって復活させ、40日に渡って、弟子たちに何度も現れさせ、神の国のことをさらに詳しく語らせたのち、弟子たちの見ている前で、オリーブ山から、天の〔父である神〕の右の座、〔御子である神〕の位に帰らせたのだそうです。
 
 
 〔父である神〕は、このイエスによって、イエスを神の御子、キリスト(救い主)として受け入れる者の〔生まれたときからの霊〕をイエスの十字架刑での処刑に合わせてくださり、処刑されたもの、死んだものと手続きしてくださるのだそうです。
 
 
 そのうえで、御子イエスを通して、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を、受け入れる者に派遣してくださり(ヨハネ1416)、受け入れる者を、死んで、新しい霊によって生きるもの、新しく生まれた者としてくださるのだそうです(ヨハネ318)。
 
 
 この、〔生まれたときからの私〕という霊を死んだものとしていただき、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって新しく生きるものとしていただいた者は、〔生まれたときからの私〕という霊から心に来る思いを死んだものから来た思いと認めて、横に置き、〔聖である霊〕と呼ばれる方から心に来る〔父であある神〕の御思いを我が思いとして生きるのだそうです。
〔肉に属する人〕から〔御霊に属する人〕に成長し、パウロやアポロのように、主がおのおのに授けられたとおりのことをしていく、神の協力者、同労者としていただけるのだそうです(Ⅰコリント319)。
 イエスによって遣わされた70人の弟子たちのように、遣わされた場所の平安を祈り、病人を直し、「神の国」、天の神、主の統治をその場に届ける者にしていただけるのだそうです(ルカ10116)。
今日も。
 
 
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