黙って、されるままに、好きなようにさせてくださって
彼は軽蔑され、人々に見捨てられ、
多くの痛みを負い、病を知っている。イザヤ書53:3
ピラトは、
暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを
要求どおりに釈放し、
イエスのほうは彼らに引き渡して、
好きなようにさせた。ルカ23:25
ヨブ記7:11~21
ルカ19:41~48(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句3/21;火)
〔神の独子(ひとりご)〕であられる方が、人間イエスとして人の世に肉体をもって来られる700年ほど前、〔父である神〕は、アモツの子イザヤを預言者として立て、冒頭の言葉のように、預言しておられました。
預言の言葉はさらに続きます。
「彼は、人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。
彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、
私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かっていった。
しかし、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
私たちのすべての咎を彼に負わせた。
彼は痛めつけられた。
彼は苦しんだが、口を開かない。
ほふり場に引かれていく羊のように、
毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。
彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。
彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、
生ける者の地から絶たれたことを。」(イザヤ53:3~8新改訳)と。
そして、その700年ほど後のこと、
イエスは、ローマからユダヤに派遣されていた総督ピラトの裁判においても、
自分の弁護のために口を開くことなく、黙って祭司長たちの訴えを受けられ、
逆らうことなく、黙って、強盗と殺人の罪で処刑されるバラバが付けられるはずだった十字架に架かってくださったのだそうです。
バラバだけではなく、私たち全部の人間の身代わりとして。
〔父である神〕は、受け入れる者の、神にそむき、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている〔生まれた時からの私〕という霊を、このイエスの十字架刑での処刑に合わせられたものとして、十字架刑で処刑されたもの、死んだものと手続してくださるのだそうです。
もう処罰するべき罪の残っていない者としてくださったうえで、
もう一人の救い主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を、私たちの新しい霊として、受け入れる者に派遣してくださり、
この方によって、ご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを、受け入れる者の心に置いてくださって、受け入れる者がご自身と思いを同じくし、心を一つにする者にしてくださるのだそうです。
私たちと一つになりたいと願ってくださっているのだそうですから。
ヨブは言います。
「人とは何者なのでしょう。
あなたがこれを尊び、これを御心に留められるとは」(ヨブ7:17)と。
イエスは、神からの救いを受けようとせず、自分の思いのままに歩み、ついに滅びることになるエルサレムを思って、人々の前であるにもかかわらず、号泣されたのだそうです。
そのように、天の神、主は、私たち一人一人を心に留め、
一人一人と親しく語り合い、交わることを願っていてくださるのだそうです(ルカ19:。41~48)。今日も。
あらゆる恵みを満ち溢れさせて
測り縄は麗しい地を示し、 私は輝かしい嗣業を受けました。詩編16:6
神は、 あなたがたがいつもすべての点ですべてのものに十分で、 あらゆる善い業に満ち溢れるように、 あらゆる恵みを あなたがたに満ち溢れさせることがおできになります。Ⅱコリント9:8
ルカ14:(25~26)27~33(34~35) ルカ19:28~40(通読箇所) (ローズンゲン日々の聖句3/20;月・祝)
測り縄とは、土地を測量するために用いた縄だそうですが、相続財産として受けた土地は良い所だったというような意味になるでしょうか。
この詩の作者は、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方を自分の相続財産としていて、自分はすばらしい良い相続財産を得た幸いな者だとうたっているようです。
「私はいつも、私の前に主を置いた。 主が私の右におられるので、私はゆるぐことがない。 それゆえ、私の心は喜び、私のたましいは楽しんでいる。 私の身もまた安らかに住まおう」(詩篇16:8~9新改訳)と。
また、この方、天の神は、恵みのプレゼントを満ち溢れさせ、私たちに、善い業ができるようにしていてくださる方なのだそうですね。
イエスは、「自分の財産全部を捨てないでは、私の弟子となることはできません」(ルカ14:33)と言われました。
ロシアの文豪、トルストイは、裕福な地主でしたが、自分の力でこのイエスの言葉のような生き方をしようと真面目に取り組み、畑を小作人に分け与え、なお、平安がなく、苦しんだ人だそうです。
イエスは、搭を築こうとするとき、 まずすわって、完成に十分な金があるか、よく計算したうえで取りかからないと、基礎を築いただけで完成できないようなことになり、 人々から『この人は、建て始めはしたものの、完成できなかった』と言われることになる。
また。王が、ほかの王と戦いを始めようとするとき、2万人を引き連れて向かって来る敵を、1万人で迎え撃つことができるかどうか、まずすわってよく考え、もし、見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に、使者を送って講和を求める。
そのように、神のことば、律法を、自分の力でやりとおせるものか、まずすわってよく考え、もし、自分には手に余る、完成できないものであるなら、十字架に架かるために進んでいるイエスに、自分の十字架を負って処刑場に向かってついて行く者に、 そして、イエスの十字架刑での処刑が終わっている今は、 イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、自分を処刑された者、イエスの十字架で死んだ者としていただきなさい、と言っておられるようです(ルカ14:27~33)。
〔父である神〕は、この、イエスの十字架刑での処刑に自分を合わせていただいて、〔生まれたときからの私〕という霊を処刑されたもの、死んだものとしていただいた者に、新しい霊として、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、受け入れる者が、この方から来る、〔父である神〕の御思いによって生きるようにしてくださるのだそうです。
私たちにも、善い業ができるよう、あらゆる恵みを用意してくださって。 今日も。
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始められた善い業を完成してくださるのですね。必ず。
天の神、主のまことの中を
顔と顔を合わせて見る、そのときを
神は、夏の暑さの中で、水を求めて川にたどり着いてみると、水がない、かれてしまった川のように、当てにならない方のように思えるときが。
けれども、顔と顔を合わせて見る、はっきりとした事実として体験する「そのとき」が来るのだそうです。
彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。
――主のみ告げ――
わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。」(エレミヤ31:31~33新改訳)
〔御子である神〕と呼ばれる方が、天の栄光の座を後にして、人となって人の世に来られ、十字架刑での処刑を受けて(ルカ18:31~33)、私たちの汚れ、罪を処分してくださり、
約束の〔聖である霊〕と呼ばれる方が来てくださっている今は、
この出来事を受け取った者は、心に、神の愛の思いが来て、イエス様のように、〔父である神〕の御思がわが思いとなって生きるはずなのですね(Ⅰヨハネ2:3~6)。
御思いに、心を潜めて
私の目は夜警に先立ち、
あなたの仰せに心を砕きます。詩編119:148
マリアはこれらの出来事を
すべて心に納めて、思いめぐらしていた。ルカ2:19
ヨハネ16:29~33
レビ記25:35~43(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句3/15;水)
朝の時を、夜明けの見張りよりも先に目覚め、天の神、主がおっしゃること、この方の御思いに心を向け、思いを潜めるのだそうです。
この方の御思いの中に心がおおわれ、沈められ、漬け込まれて。
イエスの母、マリアが、生まれたばかりのイエスを拝みに来た羊飼いから聞いた、天使が現れた出来事などを心に納めて、思いめぐらしていたように。
そうすることで、私たちも天の神、主と思いを一つにし、心を一つにし、神である主がいっしょにいてくださることを深く身に受け、イエスの勝利の中に置いていただいていることを強く受けていくことになるようです(ヨハネ16:32~33)。
イエスの命を代価として贖(あがな)われ買い戻され、神の子、神の家族、神の民としていただいている身分(レビ25:42)を確認しながら。
今日も。
輝かしい勝利の中を
あなたは弱い者の砦、
苦難に遭う貧しい者の砦、
豪雨を逃れる避け処、
暴虐な者の壁となってくださる。イザヤ書25:4
誰が、
キリストの愛から私たちを引き離すことができましょう。
艱難か。苦しみか。迫害か。
飢えか。裸か。危険か。剣か。
しかし、私たちは、私たちを愛してくださる方によって
輝かしい勝利を収めています。ロマ書8:35、37
ヨブ記2:1~10
レビ記25:1~12(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句3/14;火)
天の神、主、「わたしはある」という者と名乗られる方は、
弱い者、霊の貧しい者を守る砦、
豪雨の時の避け処、暴虐な者の攻撃を防ぐ壁となってくださる方なのだそうですね。
だから、迫ってくるどんな困難からも、守っていただけるのだそうです。
また、私たちを罪に定めるよう、
神の前に私たちを告訴する者がいるのだそうです(ヨブ2:1~10)。
それで、〔父である神〕は、〔御子である神〕を人として、人の世に遣わし、
この方を私たちの身代わりとして立てて、十字架刑で公開処刑し、
神に反逆した者、神に呪われた者として、天と地の間に高く掲げられ、
すべての人の反逆の罪が処刑され、処罰済みとされたことを公示してくださり、
これを受け入れる者の〔生まれた時からの霊〕を処刑された者、死んだ者と手続してくださるのだそうです。
そのうえで、死んだ者が新しく生きるための、新しい霊として〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださり、この方によってご自身の一人一人に対する御思いを受け入れる者の心に置いてくださるので、受け入れる者は、天の神、主と同じ思いを持つ者、ご自身と心を一つにして生きる者にし、「われわれのかたち、われわれに似せたもの」(創世記1:26)として、相続権を持つ、神の〔子〕の身分を与え、ご自身の家族としてくださるのだそうです。
だから、この神に逆らって、サタンがどんなに私たちを告訴しても、この神からのプレゼントを受け入れた者の、そのすべての罪は処罰済みとして、その告訴は却下され、退けられるのだそうです。
誰も、どんな霊的な存在も、この、イエスによる救いを受け入れる者を罪に定めさせ、神の愛から引き離すことはできないのだそうです。
この救いを受け入れる者は、予告されているとおり(レビ25:1~12)、神の安息にあずかるものとして、輝かしい勝利、圧倒的な勝利者として、新しい御国(黙示録21、22章)を受け継ぐ者ともしていただけるのだそうですから。
今日も。