風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

順境の日には楽しめ。逆境の日には考えよ

順境には楽しめ、

逆境にはこう考えよ。

人が未来について無知であるようにと、

神はこの両者を造られた。コヘレトの言葉7:14

 

 パウロの手紙:

私は、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています。

私を強めてくださる方のお陰で、

私にはすべてのことが可能です。フィリピ4:12~13

 

 ヨハネ20:1~20

 ルカ24:36~49(通読箇所)

(ローズンゲン日々の聖句4/18;火)

 

 順境の日も、逆境の日も神がそれぞれ目的をもって造られたのだそうです。

私たちが逆境に遭うことにも神の目的があるということでしょうか。

天の神、主は、逆境を通しても私たちに何かをしようとしておられるようです。

 

 使徒パウロは言います。

「私はどんな境遇にあっても満ち足りることを学びました。

私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。

また、飽くことにも植えることにも、富むことにも乏しいことにも、

ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

私を強めてくださる方によって、どんなことでもできるのです」(ピリピ4:11~13新改訳)と。

 

 旧約聖書に書かれたある通りに、

すべての人の〔的外れ〕の責任を負って、神にそむいた者として十字架刑で処刑されるという苦しみを受け、

三日目に死人の中からよみがえり、

その名によって、罪の赦しを得させる悔い改めが、エルサレムから始まってあらゆる国の人々に宣べ伝えられるために、約束の方が来られる(ヨハネ20:1~20、ルカ24:36~49)。

その約束の方が受け入れる者と共にいてくださるのだそうですから。

逆境の今日も。

 

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 離れた者が立ち帰ってほしいと

わたしは一度死んだが、

見よ、世々限りなく生きて、

死と陰府(よみ)の鍵を持っている。黙示録1:18(4/16の週の聖句)

 

 主はこう言われる。

倒れて、起き上がらない者があろうか。

離れて、立ち帰らない者があろうか。エレミヤ書8:4

 

 イエスは言われた。

ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」

ペトロは言った。

「主よ、私があなたを愛していることを、

あなたはよく知っておられます。」

イエスは言われた。

「わたしの羊を飼いなさい。」ヨハネ21:17

 

 Ⅰコリント15:12~20

 ルカ24:13~35(通読箇所)

(ローズンゲン日々の聖句4/17;月)

 

 天の神、主は、

人が倒れると、すぐ起き上がるように、

ご自身から離れて行ったご自分の民が帰って来るのを待っておられるようです。

 

 イエスが捕まった夜、大祭司の庭で、女中や下役から、お前もイエスの仲間だろうと言われて、三度も、イエスを知らないと言ったペテロ。

 

 十字架刑での処刑を受けられ、墓に葬られ、三日目、日曜日の朝、

死者の中から新しい霊のからだに復活し、弟子たちに現れたイエスは、

ペテロのその背信を責めることなく、優しく、

「わたしを愛するか」と三度聞いてくださり、

弟子たちの世話をするよう命じられたのだそうです。

 

 クレオパとその妻も、イエスが、イスラエルの王として立ち、ローマ軍を打ち破ってダビデの王国を再建してくれるものと期待していたのに、十字架刑で処刑されてしまって、失意のうちにエマオ村の自宅へ帰ろうとしていたのだそうです。

 

が、途中で近づいてきて一緒に歩いている人が、旧約聖書全体から、キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入ることを解き明かしたのだそうです。

 

それで、強いて家に泊まってもらったところ、夕食の席で、客であるその人がパンを裂いて、家の主人であるクレオパ達に渡す、その様子で、それがイエスだと分かったというのですね(ルカ24:13~35)。

 

 パウロも言います。

「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。

キリストは、(旧約)聖書の示す通りに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと、また、ケパ(ペテロ)に現れ、それから十二弟子に現れたことです」と。

そして「今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました(Ⅰコリント15:13~20)と。

 

 私たちに代わって十字架刑での処刑を受けられ、アリマタヤのヨセフが自分のために掘っておいた墓に葬られ、三日目に死人のうちより、新しい霊のからだに復活し、40日に渡って弟子たちに何度も現れて神の国のことを語り、オリーブ山で、弟子たちが見ている前で天に帰られたイエス。

 

 父である神の右の座に帰られたそのイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方は、受け入れる者のうちに来てくださって、働いておられるのだそうです。

受け入れる者が〔父である神〕と思いを一つにして生きるようにと。

今日も。

 

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若いうち、元気なうちに

青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ。

苦しみの日々が来ないうちに。

「年を重ねることに喜びはない」

という年齢にならないうちに。コヘレトの言葉(伝道者の書)12:1

 

 「イエスよ、

あなたの御国においでになるときには、

私を思い出してください」と言った。ルカ23:42

 ヨハネ19:16~30

 Ⅱコリント5:(14b~18)19~21

 ルカ23:32~49

  (ローズンゲン日々の聖句4/14;金)

 

 私たちにも、「なんの喜びもない」というような年齢が来るのですね。

今まで出来ていたことが一つ一つ取り去られ、歩くことも、食べることも、出すことも自分一人ではできなくなる、そのような日々が。

 

 そのようなときにも、創造者である、天の神、主との語らいを持っている者は喜びがあるのだそうです。

だから、青春の日々に、まだ元気なときに、創造主との関係を深めておくようにと伝道者は言うのですね。

 

 けれども、遅すぎるということもないようです。

イエスと一緒に十字架につけられた強盗のひとりは、最初のうちはみんなと一緒に、「お前が神の子なら自分を救い、私を救え」とイエスをなじっていたそうですが、イエスの静かに刑を受けている様子を見ているうちに、この人はただの人ではないと分かり、言ったのだそうです。

「御国で、私を思い出してください」と。

イエスは答えて

「あなたはきょう、私とともにパラダイスにいます」と言ってくださったのだそうですから。

 

 イエスは、十字架の上で、「すべてが終わった」、「完了した」と言われて息を引き取られたのだそうです(ヨハネ19:30)。

私たち人間の救いのためにしなければならないことは全部し終えた、と。

 

 使徒パウロは言います。

「ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。

キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。

神が私たちを通して懇願しておられるようです。

私たちは、キリストに代わって、あなたがたに願います。

神の和解を受け入れなさい。

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。

それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです」(Ⅱコリント5:14~21)と。

 

神は、私たちが、イエスが受けられた十字架刑での処刑によって手続きが完了した救いを受け取って、神と和解し、

私たちのために死んでよみがえった方の御思いによって生きる生き方を受け取ってほしいのだそうですね。

今日も。

 

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恥をぬぐっていただいて

主よ、あなたの嗣業である民を

恥に落とさないでください。ヨエル書2:17

 

 見よ、

世の罪を取り除く神の小羊だ。ヨハネ1:29

 

 ヨハネ13:1~15(34~35)

 Ⅰコリント11:23~26

 ルカ23:26~31(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句4/13;木)

 

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方が選ばれ、ご自分の民とする契約を結んだ人々。

しかし、彼らは、この契約を軽んじ、その地の他の神々に心、惹かれていき、預言者を遣わして、何度も立ち帰るよう呼び掛けても無視するばかりで、ついに天の神、主に打たれることになったのだそうです。

それで、周りの国々からは「彼らの神はどこにいるのか」とあざ笑われる状況だったようです。

 

 天の神、主は、「われわれのかたちとして、われわれに似せて」と望まれて造られながら(創世記1:26)、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている(創世記3:5、22)私たち人間の、反逆者、造り主である神を捨てた者との恥をぬぐってくださろうとしているのだそうです。

 

 バプテスマのヨハネは、自分の前にバプテスマを受けに来ているナザレ村のイエスを、〔独り子である神〕と呼ばれる方が、〔女の子孫〕として(創世記3:15)、私たちの身代わりとなり、私たちの罪を背負って命をささげる犠牲の小羊として人の世に来てくださった方だ(ヨハネ1:14)、と世に紹介しているのですね。

 

 その言葉のとおりに十字架刑での処刑を受け、墓に葬られ、三日目、日曜日の早朝、新しい霊のからだに復活されたイエス。

 

 40日に渡って何度も弟子たちに現れて神の国について語られた後、弟子たちのみている前で、オリーブ山から、天の、父である神の右の座、〔御子である神〕の位に帰られたイエス。

 

 そのイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方。

その方は、受け入れる者の心に〔父である神〕が、私たち一人一人に思っていてくださる御思いを置いてくださる方なのだそうです(エゼキエル36:25~27)。

 

それで、私たちも、恥をぬぐわれ、〔父である神〕、〔御子である神〕と一つ思いを思う者にしていただけるのだそうです。

 

私たちにも、イエスが弟子たちの足を洗われたように(ヨハネ13:1~15)、互いに足を洗い合う思いが心に来るようになるのだそうです。

 

 イエスの死を覚え(Ⅰコリント11:23~26)、〔生まれたときからの私〕という霊から出てくる思いは、イエスの死に合わせていただいて死んだものとしていただいている霊から来た思いであるとして、イエスの御前に投げ捨てながら。

今日も。

 

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永遠の命 死にさえも永久に勝利した生き方をこの地で

人の子も上げられなければならない。

それは、信じる者が皆、

永遠の命を得るためである。ヨハネ14:15(4/9の週の聖句)

 

 わたしは乾いている地に水を注ぎ、

乾いた土地に流れを与える。

あなたの子孫にわたしの霊を注ぎ、

あなたの末にわたしの祝福を与える。イザヤ44:3

 

 祭司長や律法学者たちは、

イエスによる奇跡を見、

境内で子らまで

ダビデの子にホサナ」と叫ぶのを聞いて憤慨し、

イエスは言われた。

「聞こえる。

あなたたちは、

『幼子や乳飲み子の口にあなたは賛美を歌わせた』

という言葉をまだ読んだことがないのか。」マタイ21:15~17

 

 ヨハネ12:12~19 

 詩22:23~32

  (4/9;日)

 

 主は死を永久に滅ぼしてくださる。イザヤ25:8

 

 私たちの主イエス・キリストによって

私たちに勝利を賜る神に、感謝しよう。Ⅰコリント15:57

 

 マタイ25:6~13

 ルカ22:63~71

  (ローズンゲン日々の聖句4/10;月)

 

 イエスは、自分が十字架刑で天と地の間に上げられなければならないと言われるのですね。

受け取る者が永遠の命を得るようになるために。

 

 自分が十字架刑での処刑を受けることによって、すべての人の〔的外れ〕の責任が果たされ、

神の霊、「聖である霊」と呼ばれる方が受け入れる者に来てくださる道が開け、

〔父である神〕と思いを一つにして生きる者となり、

この地にありながら、死んでも滅びない、天の御国の生き方を生きる者にしていただけるのだそうですから。

この新しい週も。

 

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互いに重荷を負い合って

お前たちは大杯でぶどう酒を飲み、最高の香油を身に注ぐ。

しかし、ヨセフの破滅に心を痛めることがない。アモス書6:6

 互いに重荷を担いなさい。

そのようにしてこそ、

キリストの律法を全うすることになるのです。ガラテヤ書6:2

 ルカ18:31~43

 ルカ22:54~62(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句4/8;土)

 ヨセフの名をもって呼ばれる北イスラエル王国が、他の神々に走り、天の神、主によって戒められ、アッシリア軍によって破滅させられている。

 それを見ながら、心を痛めることもなく、自分の身を戒め、神に立ち返ることもせず、ぶどう酒に酔いしれ、最高の香油を身に注いで、自分は大丈夫だと安逸をむさぼっている南ユダ王国の政治的、宗教的指導者たち。

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、私たちにも、誘惑に陥る者であることを認め合って、互いに重荷を負い合うよう、願っておられるのですね。

 イエスの十字架刑での処刑を通して受け入れる者に来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方は、そのような〔父である神〕の御思いを私たちの心にも置いてくださるのだそうですから。

 女中や下役の言葉さえも怖れて、三度もイエスを知らないと言うペテロ。

そのペテロの信仰がなくならないよう祈っているから、あなたが立ち直ったら、他の弟子たちを力づけてやりなさいと言われるイエス(ルカ22:31~32、54~62)。

イエスから、「預言者たちがわたしについて書いてあることはみな、実現し、わたしはエルサレムで、十字架刑で処刑され、三日目によみがえる」と話されても、弟子たちは、何一つわからなかったのだそうです。

そのように、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている(創世記3:5、22)自分の理性の判断は、〔的外れ〕になっているものであり、

本当のことが見えない者であることを、私たちも認めて、

盲人バルテマイのように、イエスのあわれみによりすがっていくなら、

御心が見える者にしていただき、

〔聖である霊〕が心に置いてくださる御思いについて行く者にも変えていただけるのだそうです(ルカ18:31~43)。

天の神、主は、私たち一人一人を通してしようと思っておられることがあるのだそうですから。

今日も。

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実を結び、命にあふれ、生き生きと!

神に従う人は主の家に植えられ、私たちの神の庭に茂ります。

白髪になってもなお実を結び、

命に溢れ、生き生きとします。詩92:14~15

 

 どうか、主があなたがたを、

お互いの愛とすべての人への愛とで、

豊かに満ちあふれさせてくださいますように。Ⅰテサロニケ3:12

 

 ヘブル10:1、11~18

 ルカ22:47~53(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句4/7;金)

 

 神に従い、神を経験した人たちは、命に溢れ、生き生きとしているのだそうです。

年を取り、身体は弱っていったとしても。

 

 そして、イエスが私たちを愛してくださっている、その愛で私たちも満ちあふれさせていただき、お互いがイエスの愛の心で見あうようにしていただけるのだそうです。

 

 イエスの十字架刑での処刑を通して受け入れる者に来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方が、受け入れる者の心に〔父である神〕の御思いを置いてくださるのだそうですから。

イエスがそうであったように。

 

 イエスがキリスト(神の子である救い主)として、ご自分の命を唯一のいけにえとしてささげ、陰府にまで下り、三日目に墓より、新しい霊のからだに復活し、永遠に神の右の座に着き、そこから、もう一人の助け主〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださるのだそうです。

 

 この〔聖である霊〕と呼ばれる方が、受け入れる者の心に〔父である神〕が私たち一人一人に思っていてくださる御思いを置いてくださり、書き付けてくださるのだそうです(ヘブル10:15~17)。

 

 それで、受け入れる者は、〔父である神〕がその人を通してしようと思っておられることをしていく者、この地にもたらしていく者としていただけるのだそうです。

 

イエスが、〔聖である霊〕と呼ばれる方を豊かに受けて〔父である神〕の話そうとすることを話していかれたように(ヨハネ3:34)。

私たちも。

今日。