風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

陶工の手の中にある粘土のように、

見よ、粘土が陶工の手の中にあるように、

イスラエルの家よ、

お前たちはわたしの手の中にある。エレミヤ書18:6

 

 私たちは神に造られたものであり、

しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、

キリスト・イエスにおいて造られたからです。エフェソ書2:10

 

 ヨハネ10:1~10

 コロサイ書3:1~4(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句5/1;月)

 

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方と私たち人間の関係は、粘土と陶工の関係のよう、なのだそうです。

陶工が自分の思い通りに粘土から陶器を作ろうとし、気に入らなければ、別のものに作り替える、あるいは、砕いてしまう権威を持っているような。

 

 それで、天の神、主は、私たち一人一人を通してしようと思っておられる善い業があり、私たちにそれができるように、必要な状況を前もって準備していて、私たちが踏み出しさえすればできるようにしていてくださるようです。

 

 イエスは、〔神のことば〕として、〔父である神〕の御思いを表現してくださり、

〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださって、

〔父である神〕のその御思いを私たちの心に置いてくださり、

羊飼いが羊を導くように善い業に導いてくださるのだそうです。

 

 私たちは、神の御思いに対抗するばかりの、自分自身の〔生まれた時からの私〕という霊をイエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、すでに死んでいるものとし、〔生まれた時からの私〕という霊から出てくる思いは死んだものから来た思いと認めてイエスの前に投げ捨てながら、

イエスとともによみがえらされ、今は、神の内に隠されていて、次にイエスがおいでになるとき、栄光のうちに現れる新しいいのちを本当の私として、思いながら(コロサイ3:1~4)、

〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる御思いについて行って、

神が用意していてくださる善い業へと導かれて行くのだそうです。

今日も。

 

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羊は、羊飼いの声を聞き分け、

わたしは良い羊飼いである。

わたしに羊はわたしの声を聞き分ける。

わたしは彼らに永遠の命を与える。ヨハネ10:27~28(4/30の週の聖句)

 

 低くされた私たちを、御心に留めた方に感謝せよ。

慈しみはとこしえに。詩136:23

 

 もし、子があなたたちを自由にすれば、

あなたたちは本当に自由になる。ヨハネ8:36

 

 ヨハネ10:11~16(27~30)

 詩23(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句4/30;Ⅴ日)

 

 イエスは、人々を羊に、ご自身のことを羊飼いにたとえられたのですね。

羊飼いにも良い羊飼いと悪い羊飼いがあって、

雇われ羊飼いで、羊のことを大切に思っていないで、オオカミが来ると羊を置き去りにして逃げ出してしまうような羊飼いもいれば、

羊の持ち主で、羊のことを大切に思い、羊のために命も捨てる羊飼いもいるのだそうです。

 

 良い羊飼いは、羊を一匹一匹、名を呼んで連れ出し、先頭に歩いて行くと、羊は、自分の羊飼いの声を知っているので、自分の羊飼いの声を聞き分け、トコトコと羊飼いの後をついて行くのだそうです。

 

 羊のために命も捨てる良い羊飼いであるイエスは、私たちのために十字架刑での処刑を受けてくださって、自分の命を差し出し、私たちに永遠の命を与えようとしていてくださるのだそうです。

 

 私たちは、恵みを受けるとか、あわれみを受けるとかいうことは嫌いで、自分で、自分の力で生きて来たように思っています。

しかし、困難や行き詰まりに遭い、自分の力の限界を経験し、あるいは、自分の心の汚さに気がついて、心を貧しく、低くされた時、天の神、主が、イエスによって差し出していてくださる恵みのプレゼントがありがたく感謝なことになるのですね。

 

 そして、罪の奴隷であった者も、

神の独り子であるイエスが解放してくださるなら自由の身になれるのだそうです。

 

 このようにしていただいた者はうたうのですね。

主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。

主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われます。

主は私のたましいを生き返らせ、聖名のために、私を義の道に導かれます。

たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私は災いを恐れません。

あなたが私とともにおられますから。

あなたのむちとあなたの杖、それが私の慰めです。

私の敵の前で、あなたは私のために食事をととのえ、私の頭に油を注いでくださいます。

私の杯は、あふれています。

まことに、私のいのちの日の限り、いつくしみと恵みとが、私を追ってくるでしょう。

私は、いつまでも、主の家に住まいましょう。(詩篇23篇新改訳)と。

この新しい週も。

 

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奥義、秘められた計画をいただいて

私たちの聞いたことを、誰が信じえようか。

主は、御腕の力を誰に示されたことがあろうか。イザヤ書53:1

 

 パウロの手紙:

私たちのためにも祈ってください。

神が御言葉のために門を開いてくださり、

私たちがキリストの秘められた計画を語ることができるように。コロサイ書4:3

 

 使徒8:26~39

 コロサイ書2:20~23(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句4/29;土)

 

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、私たちのために、誰も信じられないようなことをなさったのだそうです。

 

 私たちはやがて、ひとりの方の御前に出て、一人一人、その生きて来た生きざまの責任を問われる時があるのだそうです。

その、裁きの御座に着いておられる方、高い位に上げられ、すべての権威の上に座しておられるその方は、そこなわれて人のようではなく、その姿も普通の人の姿とは違うのだそうです。

それで、このお方を見た者は驚き、口をつぐむのだそうです(イザヤ52:13~15、黙示録5:6)。

 

その、御座に着いておられる方は、ほふられた小羊、人々の身代わりとなり、人々の罪の責任を背負って殺された小羊のよう、なのだそうですから。

 

 イエスが十字架に架けられたとき、人々はあざ笑って言ったのだそうです。

「お前が神の子なら、自分を救ってみろ。

神のお気に入りなら、今、救っていただき、十字架から降りて来い。

そうしたら、おまえを神の子と信じてやるから」(詩篇22:8、マタイ:27:40~43)と。

 

 永遠の初めから〔父である神〕とともにおり、

〔父である神のことば〕の位置にあられて、

〔父である神〕、「聖である霊〕と呼ばれる神とともにこの天地、万物を人間の住まいとして創造し、そして、すべてを用意したうえで人間を創造された方。

その創造者の立場にいる方が、人として、人の世に来られ、

すべての人の背信の責任を取って、すべての人の身代わりとなり、

神に呪われたものとの宣告を受けて十字架刑で、天と地の上そのに高く掲げられて処刑されたというのですから。

 

 こんなことは信じられない。こんな人を惑わす教えはこの世から抹殺しなければならないと息巻き、イエスの弟子たちを捕え、死に至らしめていた迫害者サウロ。

そのサウロに復活されたイエスが現れ、これが単なる人の教えではなく事実であったことを体験させ、

名をパウロと改めて、死から復活されたこのイエスを伝えるようにされた、そのパウロも、これは、キリストであるイエスの秘められた計画、奥義であり、人の理性ではとうてい信じられないものだと言っているのですね。

 

 「ほふり場(殺される場所)に連れて行かれる羊のように、

また、黙々として毛を刈る者の前に立つ小羊のように、彼は口を開かなかった。

彼は苦しめられ、そのさばきも取り上げられた。

彼の時代のことを、だれが話すことができようか。

彼のいのちは地上から取り去られたのである」(使徒8:32~33、イザヤ53:7~8)との、

イエスよりも700年ほど前になされたイザヤのこの預言は、まさしく、イエスのことだったのですね。

 

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、イエスによって、私たちの身代わりの処罰を実行され、私たちの、「神のひとりのようになり、善悪を知る者になっている(創世記3:5、22)私たち自身である〔生まれたときからの霊〕をイエスの十字架刑での処刑に合わせてくださって処刑されたもの、死んだものとしてくださり(コロサイ2:20)、

〔聖である霊〕と呼ばれる方によってご自身の、私たち一人一人に持っていらっしゃる御思いを一人一人の心に置いて、ご自分と思いを同じくし(エゼキエル36:25~28、ヘブル10:16)、心を一つにして生きる、新しい生き方をするように(創世記1:26、ヨハネ3:1~15、17:21~23)と願っていてくださるのだそうです。

今日も。

 

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天使を派遣して救われ

シャドラク、メシャク、アベド・ネゴの神をたたえよ。

この僕たちを、神は御使いを送って救われた。ダニエル書3:28

 

 すると、天使がそばに立ち、光が牢の中を照らした。

天使はペトロのわき腹をつついて起こし、

「急いで起き上がりなさい」と言った。

すると、鎖が彼の手から外れ落ちた。使徒12:7

 

 Ⅰペトロ2:1~10

 コロサイ書2:16~19(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句4/28;金)

 

 今から2700年ほど前のこと、バビロンの王ネブカデネザルは、高さ27mほどの像をバビロン州のドラの平野に立て、すべての民がこれを拝むよう命令したのだそうです。

 

 しかし、ユダヤから捕囚になって連れて来られていたシャドラクとメシャクとアベド・ネゴはこれを拝むことをせず、王の怒りを買い、火の燃える炉の中に投げ込まれたのだそうです。

 

 そのとき、ネブカデネザル王は驚き、急いで立ち上がり、その顧問たちに尋ねて言ったのだそうです。

「私たちは3人の者を縛って火の中に投げ込んだのではなかったか。

だが、私には、火の中を、なわを解かれて歩いている4人の者が見える。

しかも彼らは何の害も受けていない。第4の者は神々の子のようだ」と。

 

そして、「いと高き神の僕たち。すぐ出てきなさい」と彼らを火の燃える炉の中から呼び出し、

冒頭の言葉のように天の神、主をほめたたえたのだそうです(ダニエル3:1~30新改訳)。

 

 

 1980年ほど前のユダヤでのこと、ヘロデ王は、イエスの12使徒のひとり、ヤコブを剣で殺し、ペテロも捕らえて殺そうとしていたのだそうです。

 

 明日は引き出されて殺されるというその前夜、天使が現れ、ペテロをつないでいた鎖が外れ、獄の戸が開いて、ペテロは外に出ることができたのだそうです。

 

そして、ペテロは、神のご計画の時が来てローマで殉教するその時まで、復活されたイエスを目撃した者として弟子たちを励まし続けたのだですね。

 

 天の神、主は、そうしようと思われれば、このように天使を派遣してご自身の民を救うこともなさる方なのですね。

 

 天の神、主は、イエスによって、以前は神の民でなかった者を神の民とし、

以前はあわれみを受けなかった者を、あわれみを受ける者にし、

闇の中に住んでいた者を、ご自身の驚くべき光の中に招き、

選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民としてくださるのだそうです(Ⅰペテロ2:9~10)。

 

 それで、私たちも、〔生まれた時からの私〕という霊から出て来る思いは、イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて死んだものとされた私から出てくる思いであると認めて(コロサイ2:20)イエスの前に投げ捨て、

イエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方によって〔父である神〕の御思いを心に置いていただいて、御思いのとおりに生きる者にもしていただけるのだそうです。

 

ちょうど、しっかりと頭につながっているからだが、頭の思いのとおりに動いていくように(コロサイ2:19)。

今日も。

 

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災いと苦しみから命を得させて

あなたは多くの災いと苦しみを、私に思い知らせられましたが、

再び命を得させてくださるでしょう。詩編71:20

 

 イエスの言葉:心を騒がせるな。

神を信じなさい。

そして、わたしをも信じなさい。ヨハネ14:1

 

 イザヤ66:6~13

 コロサイ2:1~7(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句4/26;水)

 

 80年、90年、あるいは100年に近い人生の中で、天の神、主は、私たちが多くの災いと苦しみに遭うことを許可されています。

天の神、主は、そのことを通して、順調に行くとすぐ、自分が神のようであり、善悪を決められるものであるかのように思い上がってしまう私たちに、自分が地のチリで造られたものにすぎないことを思い知らせられ、滅びに向かって一直線に進んでいる道から、ご自身に立ち返ってほしいと願っておられるようです。

 

 災いや苦しみの中にいるとき、心騒ぎますが、災いや苦しみを通しても、天の神、主は、私たちに命を得させようとしておられることに目を向けて、安心して心騒がせておれば、そうこうしているうちに、天の神、主は、そこと通り過ぎさせてくださるようです。

 

 その中で、私たちは、心に励ましを受け、愛によって結び合わされ、理解をもって豊かな全き確信に達し、神の奥義であるキリストを真に知るようになり、

イエス・キリストの御思いの中で生き、

キリストの中に根ざし、建てられ、信頼を堅くし、感謝があふれるようにしていただけるのだそうです(コロサイ2:1~7)。

 

 イザヤを通して預言されたとおりに。

「見よ。わたしは川のように繁栄を彼女に与え、

あふれる流れのように国々の富を与える。

あなたがたは乳を飲み、わきに抱かれて、ひざの上でかわいがられる。

母に慰められる者のように、わたしはあなたがたを慰める」(イザヤ66:12~13)と。

今日も。

 

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絶え入るばかりに恋い慕って

あなたの庭で過ごす一日は

千日にまさる恵みです。詩編84:11

 

 イエスの言葉:

わたしは門である。

わたしを通って入る者は救われる。

その人は、門を出入りして牧草を見つける。ヨハネ10:9

 

 ヨブ記42:7~13(14~17)

 コロサイ書1:24~29(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句4/25;火)

 

 詩人はうたいました。

「万軍の主。あなたのお住まいは、なんと、慕わしいことでしょう。

私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。

私の心も、身も、生ける神に喜びの歌を歌います」(詩篇84:1~2新改訳)と。

 

 それで、「主の大庭にいる一日は家にいる千日にも勝る」というのですねよ。

愛はそのように、愛する方のそばにいたい、一緒にいたいと願う者のようです。

 

 イエスはご自分のことを門にたとえられました。

イエスを通って私たちは天の神、主の御許に出入りし、

天の神、主からの豊かな恵みにあずかるようになるのだそうです。

 

 ヨブが、身に覚えのない苦難に遭ったとき、

私は潔白だ。私は自分の身の潔白を神と議論したいと心の真実を述べて神にすがりつき、

神から、真実を述べたものと認めていただき、

その繁栄を2倍にして返していただいたように(ヨブ42:7~13)。

 

 私たち、神の民でなかった者も、

私たちの〔的はずれ〕の責任を、私たちに代わってご自身に背負ってくださって十字架刑での処刑を受けてくださったイエスによって、

 

そして、墓に葬られ、三日目の日曜日の早朝、死人の中から新しい霊のからだに復活され、

40日に渡って何度も弟子たちに現れて神の国について語ったのち、

弟子たちのみている前で、オリーブ山から天の父である神の右の座に帰られたイエスが

受け入れる者に派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方のとりなしによって、

自由に〔父である神〕の御前に出入りし、

その栄光を仰ぎ見、この方と思いを一つにする、

千日にも勝る一日、一日を過ごさせていただけるのだそうです。

今日も。

 

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急いで降りて来て、喜んで主を迎え

神は豊かな憐れみにより、

私たちを新たに生まれさせ、

生き生きとした希望を与えてくださった。Ⅰペテロ1:3(4/23の週の聖句) 

 

 あなたの神、主の戒めを守り、

主の道を歩み、

彼を畏れなさい。申命記8:6

 

 互いに愛し合うことのほかは、

だれに対しても借りがあってはなりません。

人を愛する者は、律法を全うしているのです。ロマ書13:8

 

 ヨハネ20:19~29

 詩編116

  (ローズンゲン日々の聖句4/23;Ⅳ日)

 

 

 御救いを愛する人が、

主をあがめよといつも歌いますように。詩編40:17

 

 イエスの言葉:

ザアカイ、急いで降りてきなさい。

今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい。」ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎えた。ルカ19:5~6

 

 創世記32:22b~32

 コロサイ書1:21~23(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句4/24;月)

 

 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、私たち一人一人をご自分と一つ思いを思う者になってほしいと願っておられるのだそうです。

 

 それで、心がご自身から離れ、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている私たちの〔生まれた時からの私〕という霊を死んだものとし、受け入れる者に〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣して、この方によって、受け入れる者の心に、一人一人に思っておられるご自身の御思いを置き、受け入れる者がご自身と同じ思い、一つ思いを思う者になるようにと、新しい霊によって新たに生まれる道を開いてくださったのだそうです。

 

 そのために、〔御子である神〕が人間イエスとなり、人の世にうまれてくださって、

およそ、33歳の頃、エルサレムの城壁の外で十字架刑での処刑を受けてくださって、

ご自身の死を私たちの〔生まれた時からの私〕という霊の死としてくださるのだそうです。

 

 〔父である神〕は、この、死んで墓に葬られたイエスを、三日目、日曜日の早朝、死人の中からよみがえらせ、40日に渡って何度も弟子たちに現れさせ、神の国のことを話させた後、オリーブ山から、弟子たちのみている前で、天のご自身の右の座、〔御子である神〕の位に復帰させたのだそうです。そして、このイエスを通して受け入れる者に〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださる道を開いてくださったのだそうです。

 

 この〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、〔父である神〕の御思いを心に置いていただく者は、〔父〕と〔御子〕と〔聖である霊〕と呼ばれる方が、互いに愛し合い、心を一つにしていらっしゃるように、愛し合う者になり、〔御父〕と心を一つにしていくようになるのだそうです。

 

 「主をあがめよ」といつも歌い、

喜んで、いよいよ〔聖である方〕を迎え、

ヤコブのように祝福を求め、

聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせていただけるのだそうです。

今日も。

 

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