貧しい人、災いにあっている人、おさなごを心に留めておられる方と思いを一つにして
わたしは多くの戒めを書き与えた。
しかし、彼らはそれを無縁なものと見なした。ホセア書8:12
パウロの手紙:
キリストの恵へ招いてくださった方から、あなたがたがこんなにも早く離れて、ほかの福音に乗り換えようとしていることに、私はあきれ果てています。ガラテヤ1:6
創世記1:9~13
ヨエル2:1~11(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句5/9;9)
貧しい人をあざける者は造り主を見くびる者、
災いの時に喜ぶ者は赦されない。箴言17:5
これらの小さい者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。
言っておくが、彼らの天使たちはいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。マタイ18:10
創世記1:14~19
ヨエル書2:12~17(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句5/10;水)
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方から、
「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)、
「わたしたちが一つであるように、彼らも一つである」(ヨハネ17:22)ように、
と望まれて造られた私たち人間。
その、天の神、主と思いを一つにし、心を一つにして生きる場にとどまることをしないで、
もっと素晴らしい者になろう、もっと高く上ろうとして、
自分一人で善悪を決める者となり(創世記3:5、22)、
自分の造り主である天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方に対立、対抗するものとなった最初の人アダム。
そして、私たちすべての人間はこのアダムの性格を受け継いで生まれて来た者なのだそうです。
その「善悪を知る者」、自分一人で、ことの善悪を判断し、決定する者となっている私たちは、天の神、主が、御思いを戒めのかたちで書き与えられても、それを無縁なもの、自分とは関わりのないものとみなし、自分の判断に頼って、自分が正しい、好ましいと思える道へとそれて行くばかりなのだそうです。
天の神、主は、自分の思うままに滅びに向かって突き進む私たち人間が、心低くして、自分が造られたものであることを認めて、造り主であるご自身に心を向けることもあろうかと、
例えば、預言者ヨエルの時代に襲ったイナゴの災害でイスラエルを打たれたようなことも許可なさるのだそうです(ヨエル2:1~11)。
ご自身に立ち返って、
十字架に架かられ、死人の中から復活し、天の御子である神の座に帰られたイエスが派遣される
〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
貧しい人、災いにあっている人を心に留め、おさなごたちを大切にしているご自身と思いを一つにし合って生きるようにと願われ、
恵みと憐れみを用意して待っていて下さるのだそうです(ヨエル2:12~17)。
今日も。
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2000年、語り伝えられて
私は死ぬことなく、
生きながらえて主の御業を語り伝えよう。詩118:17
高官たちは何度も鞭で打ってから二人を牢に投げ込み、看守に厳重に見張るよう命じた。
真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌を歌って神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた。使徒16:23、25
創世記1:6~8
ヨエル書1:1~20(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句5/8;月)
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方に身を避けることは、人に、君主たちに信頼するよりもよいのだそうです。
敵に取り囲まれ、押し倒されそうになっていたこの詩篇の作者は、天の神、主により頼み、死ぬばかりの場から救い出され、感謝にあふれて「私はその御業を語り伝えよう」とうたっているのですね。
イエスの十字架の死と復活による救いを伝えながら、マケドニアのピリピに行ったパウロとシラス。
占いの霊につかれた女性から、その霊を追い出したことで捕らえられ、むちで打たれ、牢獄に監禁されてしまったのだそうです。
たぶん、むち打ちの刑の痛みの中でだと思いますが、二人は賛美の歌を神に向かって歌い、祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていたのだそうです。
創世記1:6~8では、天の神、主が、大空を造り、大空の下の水と、大空の上の水とを区別されたことを伝えています。
預言者ヨエルは、「長老たちよ。これを聞け。この地に住む者もみな、耳を貸せ。このようなことがあなたがたの時代に、また、あなたがたの先祖の時代にあったろうか。これをあなたがたの子どもたちに伝え、子どもたちはその子どもたちに、その子どもたちはのちの世代に伝えよ。」(ヨエルⅠ:2~3)と呼びかけています。
そして、伝えられ続けているのですね。2000年。
天の神、主が御子によって語っておられること、
私たちにも、御子であるイエスの十字架刑による死と復活、
そして、天の父である神の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方と思いを一つにしながら生きていく新しい生き方をプレゼントしていただけることが。
今日も。
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イエスの思いの中に居て
キリストと結ばれる人はだれでも、
新しく創造された者なのです。Ⅱコリント5:17(5/7の週の聖句)
私の口は賛美に満ち、
絶えることなくあなたの輝きをたたえます。詩71:8
いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
どんなことにも感謝しなさい。
これこそ、キリスト・イエスにおいて、
神があなたがたに望んでおられることです。Ⅰテサロニケ5:16~18
ヨハネ15:1~8
詩19(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句5/7;Ⅰ・日)
天の神、主によって、「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)と望まれ、
イエスが言われる「それは、父よ。あなたが私におられ、わたしがあなたにいるように、
彼らもわたしたちにおるようになり、
彼らがみな一つとなる」(ヨハネ17:21)ものとして造られながら、
それよりももっとすばらしく、偉く、高い者になろうとして、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている(創世記3:5、22)私たちの〔生まれた時からの私〕という霊。
その、造り主である、天の神、主に逆らい、対立、対抗している〔生まれた時からの私〕という霊を、イエスの十字架刑の処刑に合わせていただいて処刑されたもの、死んだものとしていただけるのだそうです。
そしtれ、三日目に死人の中から新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れ、神の国のことを語ったのち、
弟子たちのみている前で、オリーブ山から天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエス、
そのイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、
この方に満たされ(おおわれ、沈められ、漬け込まれ)ている者、
この方によって〔父である神〕の御思いを心に置いていただき、御思いの中に満たされている者は、新しく創造された、新しい霊になるのだそうですね。
それで私たち、今までは、自分の思いが成ることを求めて生きていましたが、
これからは、自分の思いが成ることではなく、
自分のために死んでよみがえられた方のために生きる、
イエスの御思いが成ることを求めて生きる者に、霊を取り換えていただけるのだそうです。
〔聖である霊〕と呼ばれる方は、受け入れる者の心を、イエスが〔父である神〕を賛美しておられる、その心と一つにしてくださって賛美に満ちさせ、イエスが〔父である神〕をたたえておられる、その心と一つにしてくださって神をたたえ、イエスがいつも喜んでおられる、その心と一つにしてくださって、いつも喜び、イエスが絶えず〔父である神〕と語り合っておられた心と一つにしてくださって、いつも〔父である神〕と語り合い、イエスがどんなことも感謝しておられる心と一つ心にしてくださって、どんなことも感謝にあふれる思いの中に満たしてくださるのだそうです。
ちょうど、ぶどうの木の枝が、幹にしっかりつながり幹と一つの場にとどまっていれば、幹を通って届く栄養分によって豊かな実を結ぶように、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、イエスの思いの中にとどまる者は、〔父である神〕の御思いが実現する、豊かな人生を生きることになるのだそうです(ヨハネ15:1~8)。
太陽が、天の果てから果てまで、喜び走るように(詩篇19)、
喜びといのちにあふれて。
この新しい週も。
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あなたの思い煩いを知らせてほしいのだそうです。あの方。
見よ、イスラエルを見守る方は、
まどろむことなく、眠ることもない。詩編121:4
思い煩いは何もかも神にお任せしなさい。
神が、
あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。Ⅰペテロ5:7
ヨハネ14:1~6
コロサイ書4:7~18(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句5/6;土)
私たちの助けは、
天地を造られた主、「わたしはあるという者」と名乗られる方から来るのだそうです。
主は私たちの足をよろけさせず、
まどろむことなく、
私たちを出て行くにも帰るにも守っていてくださる方なのだそうですから。
だから、私たち、自分の力だけで何とかしなければならないと思い込んで頑張り、思い煩う者ですけれど、
目を上げ、この方を見上げて、
この方に相談し、問題を申し上げて知っていただき、見ていただきながら出て行くといいのだそうです。
天の神、主は、ちょうど良い時に助けを現してくださるのだそうですから。
使徒パウロは、(今のトルコにある)コロサイの町の信仰の仲間に宛てた手紙で、自分の問題や状況を書き送っていますが(4:7~18)、
私たちも、天の神、主に差し出す出来事として、天の神、主によって生きている仲間にも差し出し、知ってもらうことが、主に差し出すことが具体的な出来事となるようです。
イエスは、十字架に架かられる前夜、弟子たちに言われました。
「あなたがたは心を騒がしてはいけません。神を信じ、また私を信じなさい」(ヨハネ14:1)と。
心騒がせる、神を信じられなくなるような状況に出遭って、私たちは、神に信頼することを訓練されるようです。
私たち、最終的には、イエスが備えに行っていてくださる天の父の家の住まいに、イエスと一緒にいるようにしていただけるのだそうですね(ヨハネ14:2~6)。
私たちの身代わりになり、私たちに代わって十字架刑での処刑を受けてくださり、
三日目の日曜日の早朝、死人の内より新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って弟子たちに何度も現れ、神の国のことを語ったのち、
オリーブ山から、弟子たちのみている前で、天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエスは、
私たちを迎えに、また、来てくださるのだそうですから。
だから、安心して、心騒ぐ出来事を〔父である神〕に差し出し、知っていただき、見ていただくことで、〔父である神〕と心が通じ合い、思いを一つにしていく練習をしていればいいのだそうです。
今日も。
(昨日の分ですが、)
どこかの町に貧しい同胞が一人でもいるならば、
その貧しい同胞に対して心をかたくなにせず、
手を閉ざすことがあってはならない。申命記15:7
世の富を持ちながら、兄弟が必要な物に事欠くのを見て、同情しない者があれば、どうして神の愛がそのような者の内に留まるでしょう。Ⅰヨハネ3:17
マタイ26:30~36
コロサイ書4:2~6(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句5/5;金祝)
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平和を命じ、恵みの業の中へ
主の 主の言葉: わたしがあなたに与える命令は平和、 あなたを支配するものは恵みの業。イザヤ書60:17
上から出た知恵は、 純真で、温和で、優しく、従順なものです。 憐れみと良い実に満ちています。 偏見はなく、偽善的でもありません。 義の実は、 平和を実現する人たちによって、 平和のうちに蒔かれるのです。ヤコブ書3:17~18
エフェソ書4:(8~10)11~16) コロサイ書3:18~4:1(通読箇所) (ローズンゲン日々の聖句5/4;木)
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、 私たちにも平和を命じてくださり、恵みの業をもって監督し、統治してくださるのだそうです。
私たちの〔生まれた時からの私〕という霊から出てくる思いは苦いねたみと敵対心ですけれど、 私たちに代わって十字架刑での処刑を受けてくださり、 死人のうちから復活され、 天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方が受け入れる者の心に置いてくださる思いは、 純真、温和で、優しく、従順、憐れみと良い実に満ち、偏見を持たず、偽善的でもない思いなのだそうです。
このような、〔父である神〕の御思いをいただき、〔父である神〕と思いを一つにしながら生きる生活は、これを受け取り、体験している人たちによって平和のうちに蒔かれて行くのだそうです。
私たちに代わって、神にそむく者、神に呪われたものとしての十字架刑での処刑を受け、地の深い所にまで下られたあと、死人のうちより復活して、天の一番高い所に上られたイエスは(エペソ4:8~9)、 〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師、また教師としてお立てになり、聖徒たちを整えて御思いを実現していく者とし、各自がその力量にふさわしく働き、御思いが具体的になっていくようにされるのだそうですから(エペソ4:11~16)。
〔聖である霊〕と呼ばれる方が受け入れる者の心に置いてくださる〔父である神〕の御思いは、 妻の立場にある者は夫によく従う、 夫は妻を、キリストが自分を愛してくださっているように愛する、 子供たちは両親に従う、 父は子どもを怒らせ、いらだたせることをしない、 奴隷の立場にある者は、人のご機嫌取りのようなうわべだけの働き方ではなく、 主を恐れかしこみ、主に対してするように真心から仕える、 主人の立場にある者は奴隷に対しても正義と公平を行う 思いなのだそうです(コロサイ3:18~4:1)。 今日も。
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上から出た知恵は、 純真で、温和で、優しく、従順なものです。 憐れみと良い実に満ちています。 偏見はなく、偽善的でもありません。 義の実は、 平和を実現する人たちによって、 平和のうちに蒔かれるのです。ヤコブ書3:17~18
エフェソ書4:(8~10)11~16) コロサイ書3:18~4:1(通読箇所) (ローズンゲン日々の聖句5/4;木)
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、 私たちにも平和を命じてくださり、恵みの業をもって監督し、統治してくださるのだそうです。
私たちの〔生まれた時からの私〕という霊から出てくる思いは苦いねたみと敵対心ですけれど、 私たちに代わって十字架刑での処刑を受けてくださり、 死人のうちから復活され、 天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方が受け入れる者の心に置いてくださる思いは、 純真、温和で、優しく、従順、憐れみと良い実に満ち、偏見を持たず、偽善的でもない思いなのだそうです。
このような、〔父である神〕の御思いをいただき、〔父である神〕と思いを一つにしながら生きる生活は、これを受け取り、体験している人たちによって平和のうちに蒔かれて行くのだそうです。
私たちに代わって、神にそむく者、神に呪われたものとしての十字架刑での処刑を受け、地の深い所にまで下られたあと、死人のうちより復活して、天の一番高い所に上られたイエスは(エペソ4:8~9)、 〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師、また教師としてお立てになり、聖徒たちを整えて御思いを実現していく者とし、各自がその力量にふさわしく働き、御思いが具体的になっていくようにされるのだそうですから(エペソ4:11~16)。
〔聖である霊〕と呼ばれる方が受け入れる者の心に置いてくださる〔父である神〕の御思いは、 妻の立場にある者は夫によく従う、 夫は妻を、キリストが自分を愛してくださっているように愛する、 子供たちは両親に従う、 父は子どもを怒らせ、いらだたせることをしない、 奴隷の立場にある者は、人のご機嫌取りのようなうわべだけの働き方ではなく、 主を恐れかしこみ、主に対してするように真心から仕える、 主人の立場にある者は奴隷に対しても正義と公平を行う 思いなのだそうです(コロサイ3:18~4:1)。 今日も。
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この方の御思いは、必ず実現するのだそうですから。私たちにも。
人の心には多くの計らいがある。
主の御旨のみが実現する。箴言19:21
私たちは聞いたことにいっそう注意を払わねばなりません。
そうでないと、押し流されてしまいます。ヘブル書2:1
ヨハネ17:20~26
コロサイ書3:12~17(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句5/3;水祝)
私たちは、心に多くのはかりごと、計画を立てますが、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方の御思いだけが実現するのだそうです。
私たちは、自分で考え、自分で実行したように思いますが、それも、主の許しの中で、主の備えてくださった状況の中で実現できているものなのだそうです。
神である主は、昔、預言者たちを通して、多くの部分に分け、いろいろな方法で語られましたが、この終わりの時には、御子イエス・キリストによって語っておられるのだそうです。
〔父である神〕は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られたのだそうです。
御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、
その力あるみことばによって万物を保っておられる方、
私たちに代わって、自分から十字架刑での処刑を受け切ってくださり、
私たちの罪のきよめを成し遂げて、
すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれている方なのだそうです(ヘブル1:1~4)。
ですから、この方によって語られていること、私たちに伝えられたことにいっそう注意を払い、心を向け、押し流されないようにしないといけないのですね。
語られたことはそのとおりに実現するのだそうですから。
イエスは、十字架に架かられる前の晩、弟子たちとの最後の晩餐の席で〔父である神〕に言われました。
「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、
彼らがみな一つとなるためです。
また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。
またわたしは、あなたがわたしに下さった栄光を、彼らに与えました。
それは、私たちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
わたしは彼らにおり、あなたはわたしにおられます。
それは、彼らが全うされて一つとなるためです」(ヨハネ17:21~23新改訳)と。
イエスによって、私たちが、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方と一つにしていただけるというのですね。
必ず、成る、実現する出来事として。
イエスが私たちに派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
〔父である神〕が私たち一人一人に持っておられる御思いを、受け入れる者の心に置いてくださるのだそうです(エゼキエル36:25~28)。
それで、この方をお迎えした者には、〔父である神〕の深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容な思いが心に来て、一つ心にしていただけるのだそうです。
また、互いに偲び合い、互いに赦し合い、愛し合う思いにされ、
キリストの平和が、感謝の思いが心に満ちるのだそうです。
キリストのことばを豊かに住まわせ、
知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、
詩と賛美と霊の歌により、感謝にあふれて心から神に向かって歌う者にも。
すべてを主イエスによって、御思いによってなし、
〔父なる神〕に感謝する心に(コロサイ3:12~17)。
今日も
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イエスの愛に根差し、イエスの愛にしっかりと立つ者にと
善を行うことを学び、
裁きをどこまでも実行して、
虐げられた者を守りなさい。イザヤ書1:17
パウロの手紙:
どうか、御父が、
信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、
あなたがたを愛に根差し、
愛にしっかりと立つ者としてくださるように。エフェソ書3:16~17
マタイ9:35~10:1(2~4)5~7
コロサイ書3:5~11(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句5/2;火)
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、私たちが、自分の考えによって宗教的な行事を熱心に行うよりも、ご自身と心を一つにすることを望んでおられるようです。
ご自身と同じように善を行う者に、
正しい、公正な裁きを実行して、みなしご、やもめ、虐げられている人を守るように、と。
私たち、〔生まれた時からの私〕という霊は、
天の神、主との心を一つにしていく関係を捨て、
自分が、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になって、
天の神、主に対立、対抗していて、
言葉で神の基準を示されても、それを行うことをしない者であることを認め、
その、〔生まれた時からの私〕という霊を、イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて死んだものとしていただき、
復活され、天の父である神の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
〔父である神〕の、そして〔御子である神〕イエス・キリストの思いを心の内に置いていただいて、その愛の御思いに根差し、〔父である神〕、〔御子である神〕の愛にしっかりと立つ者としてくださるように、とパウロは願っているのですね。
イエスご自身も、人が〔父である神〕と心を一つにすることによって、神の御思いが人間の世界に実現することを宣べ伝え、
イエスの代行者としてあらゆる病気、あらゆるわずらいで苦しんでいる人をいやす者がもっと起こるようにと願っておられるようです(マタイ9:35~10:7)。
私たちにも、このイエスによって、この人の世に派遣される者ともなり、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている〔生まれた時からの私〕という霊から出て来る不品行、けがれ、情欲、悪い欲、むさぼりを、死んだものから出て来たものとして、イエスの御前に投げ捨てながら、
イエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方に覆われ、包まれ、満たされて、〔父である神〕の御思いを心に持ち、その御思いに導かれる新しい人にしていただきながら生きる、新しい生き方を受け取ってほしいのだそうです(コロサイ3:5~11)。
今日も。
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