飢えている人にパンを与えてくださる方が
主は、虐げられている人のために裁きをし、
飢えている人にパンをお与えになる。詩146:7
弟子たちは言った。
「ここにはパン5つと魚2匹しかありません。」
イエスは、
「それをここに持って来なさい」と言った。マタイ14:17~18
黙示録5:6~14
使徒2:29~36(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句5/19;金)
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)、
「わたしたちが一つであるように、彼らもわたしたちの中におり、一つである」(ヨハネ17:21~22)ように、と願われて、私たち人間を造られたようです。
神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれ、人を生きるものとされたのだそうです(創世記2:7)。
だから、神である主は、私たち人間に食べ物が必要なことをよくご存じなのですね。
それで、最初は、種を持つすべての草と、種を持って身を結ぶすべての木を私たち人間の食物として与えてくださり、
そして、ノアの洪水の後には、生きて動いているものも人間の食物とされたのだそうです(創世記9:3)。
主は、虐げられている人のために裁きをし、飢えている人にパンをお与えになる方。
バブテスマのヨハネが、国主ヘロデによって首をはねられたことを聞いたイエスは、舟で人里離れた寂しい所に退かれたのですが、群衆はイエスの後を追って集まって来たのだそうです。
日が傾きかけた頃、弟子たちは群衆を解散させようとするのですが、
イエスは、空腹のまま帰らせたくないと思われ、5つのパンと2匹の魚で、男だけで5千人ほどいた人たちに満腹になるまで食べさせてくださったのだそうです。
そして、パン切れの余りを集めると、12のかごにいっぱいあったのだそうですね。
イエスは、この後、過ぎ越しの祭りの時、エルサレムで十字架刑によって処刑されたのだそうです。
そして、ローマ兵によって脇腹を槍で突き刺されて亡が確認された後、近くにあったアリマタヤ出身のヨセフが自分のために掘っておいた墓に納められるのですが、
三日目の日曜日の早朝、死人の中から新しい霊のからだに復活し(使徒2:29~36)、
40日に渡って弟子たちに何度も現れ、神の国のことを語った後、
弟子たちが見ている前で、オリーブ山から、天の〔父である神〕の右の座に帰られたのだそうです(使徒1:3~9)。
天の〔父である神〕の御前には、「ほふられたと見える小羊」がおられ、
千の幾千倍、万の幾万倍の天使たち、
そして、天と地と、地の下と、海の上のあらゆる造られたもの、
およびその中にいる生き物から賛美を受けておられるのだそうです。(黙示録5:6~14)。
私たちも、やがて、天の〔父である神〕の御前で、
私のために「ほふられたと見える小羊」(出エジプト12:3~7)として、
2000年ほど前にエルサレムの城外において十字架刑で処刑されたナザレ村出身のあのイエスを見ることになるのだそうです。
〔父である神〕は、私たちに、この方、イエスを自分の主とし、
イエスをとおして派遣される〔聖である霊〕と呼ばれる方によって私たちの心に置く
ご自身の御思いによって、心を一つにしてて生きていってほしいと願っておられるのだそうです。
今日も。
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いかにもおいしそうで、目を引き付けても
女が見ると
その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、
賢くなるように唆(そそのか)していた。創世記3:6
人は、
たとえ全世界を手に入れても、
自分の身を滅ぼしたたり、失ったりしては、
何の得があろうか。ルカ9:25
Ⅰコリント14:6~9、15~19
使徒2:14~28(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句5/18;木)
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
人間を創造するのに先立ち、
まず、人間の住まいを用意されたのだそうです、
天地を創造し、光を造って光とやみとを区別され、
大空を造って大空の下の水と上の水を区別され、
天の下の水をひとところに集めて、海と陸とを分けられ、
地に、種類にしたがって、植物を生じさせ、
太陽と月と星を造り、地上を照らさせ、昼と夜、季節のしるしとし、
種類にしたがって、水の中の生き物を造り、
種類にしたがって、地の上の生き物を造られ、
用意万端、整ったところで、
「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。
彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配(統治)するように」(創世記1:1~26新改訳)と。
そして、人を、エデンの園に置き、何不自由なく暮らし、ご自身と親しく交わる者とされたのだそうです。
園の中央には、いのちの木と善悪の知識の木を生えさせ、
この善悪の知識の木については、
「この木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ」仰せられたのだそうです(創世記2:7~17)。
けれども、サタンである蛇は、
「あなたがたは決して死にません。
あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、
あなたがたは神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです」と女を唆(そそのか)したのだそうです(3:4~5)。
「神のようになり、善悪を知るようになる」ことは、
神がおっしゃる「われわれのかたちとして、われわれに似せて」よりも、
いかにも魅力的で、好ましく思えるのですね。
それで、造り主である神に相談することなく、自分の判断でこれを食べ、
人は、「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになって(3:22)、
今日の私たちにまで及んでいるのだそうです。
その私たち人間を、造り主である天の神、主は、
「われわれのかたち、われわれに似せたもの」、
「わたしたちが一つであるように、彼らも一つである」(ヨハネ17:22)者に回復しようとして、
〔御子である神〕が、「女の子孫」(創世記3:15)として人の世に来られ、
私たちすべての人間の身代わりとなって十字架刑による処刑を受けてくださり、
私たちの、この「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている〔生まれた時からの私〕という霊を処刑されたもの、死んだものとしてくださるのだそうです。
そして、この死を受け取った者に、もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来てくださって、
〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思いを、心に置いてくださるので(エレミヤ31:33~34、エゼキエル36:25~28)、
受け入れる者は、この部分において、〔父である神〕と一つ思いとなり、
〔父である神〕がしようと思われることをしていく者にしていただけるのだそうです(ヨハネ14:12)。
〔聖である霊〕と呼ばれる方が働かれる時、私たちは、他の言葉(異言)で語ることが多いのですが(使徒2:4)、
そうすると、死んだものと手続されている、「神のひとりのようになろう」とする〔生まれた時からの私〕という霊も解放され、元気になり、
異言を語れる自分を誇ったり、他の人よりもよく異言を語ろうとして競い合ったり、霊的な高揚を求めたりするようにもなりがちなのですね。
けれども、それは、いかにも好ましく、自分が信仰深く、霊的に素晴らしい者になったかのように思えても、
天の神、主と思いを一つにしていく方向とは外れた、
死ぬはずの〔生まれた時からの私〕という霊の出来事、自分の身を滅ぼす出来事のようです。
それで、天の神、主は、使徒パウロをとおして、
集まりの中では、異言の解き明かしが伴わない場合は、異言で祝福や感謝、奨めをしたりするよりも、
知性の言葉で語るようにと勧めているようです(Ⅰコリント14:15~19)。
ペテロが、ペンテコステの時、物音を聞いてかけ集まって来た多くの人に、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、その人たちの分かる言葉で、分かるように順序良く話したように(使徒2:14~)。
私たちも。
今日も。
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約束は、ことごとく、「然り」となって
主は言われます。
「虐(しいた)げに苦しむ者と、呻(うめ)いている貧しい者のために、
今、わたしは立ち上がり、
彼らがあえぎ望む救いを与えよう。」詩12:6
まして神は、
昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために
裁きを行わずに、
彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。ルカ18:7
サムエル上16:14~23
使徒1:15~26(5/16;火)
見よ、主は地の果てにまで布告される。
娘シオンに言え。
見よ、あなたの救いが進んで来る。イザヤ62:11
神の約束は、ことごとく
イエス・キリストにおいて「然り」となったからです。Ⅱコリント1:20
ロマ15:14~21
使徒2:1~13
(ローズンゲン日々の聖句5/17;水)
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
しいたげられ、苦しみうめいている貧しい者のために、救いを与えようと言われているのですね。
その約束は、2000年ほど前、人としてこの地上を歩まれた、〔御子である神〕、ナザレ村出身のあのイエスによって「しかり」となり、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が弟子たち、一人一人に来られて(使徒2:1~13)、
約束のことばの、そのとおりに実現しているのだそうですから。
〔父である神〕は、あのイエスの十字架刑での処刑によって、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている私たちの〔生まれた時からの私〕という霊を処刑されたもの、死んだものと手続してくださって、
受け入れる者に、イエスを通して、もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって、ご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを受け入れる者の心に置き、
受け入れる者が、愛によって、自由意思で、自発的に、ご自身と思いを一つにし、心を一つにして生きる道を完成させ、提供していてくださるのだそうですから。
「わたしと心を一つにして、わたしと一緒に生きようよ」と提案していてくださるのだそうです。
今日も。
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驚くべき御業を成し遂げられた方に
新しい歌を主に向かって歌え。
主は驚くべき御業を成し遂げられた。(5/14の週の聖句)
わたしはあなたたちをわたしの民とし、
わたしはあなたがたの神となる。出エジプト記6:7
御父がどれほど私たちを愛してくださるか、考えてみなさい。
それは、私たちが神の子と呼ばれるほどで、
事実また、そのとおりです。Ⅰヨハネ3:1
マタイ11:25~30
詩45(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句5/14;Ⅱ日)
主よ、あなたは憐みの心を閉ざすことなく、
慈しみとまことによって、いつも私をお守りください。詩40:12
平和の神があなたがたを守り、
主イエス・キリストの来られるとき、
非の打ちどころのない者としてください。
あなたがたをお招きになった方は真実です。Ⅰテサロニケ5:23~24
出エジプト15:(1~11)19~21
使徒1:1~14(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句5;15)
私たち人間の造り主であり、私たち人間の住まいとしてこの天地万物を創造された方、
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方、
〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊〕と呼ばれる神は、
それぞれ、全知、全能、永遠不変の方でありながら、
愛と尊敬のゆえに、自由意思において自発的に
互いに愛し合い、思いを一つにし、行動を一つにし、存在を一つにしておられる方なのだそうです。
そして、その愛し合うゆえに一つになっておられる、その一つの中に
自由意思で、自発的に加わる者をと願って私たち人間を創造してくださったのだそうです。
私たちをご自分の子とし、家族としようと思って。
けれども、最初の人アダムとエバは、この天の神、主を愛し、天の神、主と思いを一つにしていく場にとどまることをしないで、
自分を、もっと素晴らしい者に、高い者にしようとして、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者になる」道を選んだのだそうです(創世記3:5、22)。
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
このように、創造の目的からずれてしまっている私たち人間をなお愛し、大切に思い、
焼却処分にすることを望まず、「愛による一つ」の中に回復しようと計画していてくださるのだそうです。
それで、まず、ひとりの人アブラハムを選び、
このアブラハムの孫のイスラエル(神に勝った者、神にしがみついて、祝福を受けるまでは放さず、祝福を勝ち取った者)の家族70人ほど(創世記46:27)を、エジプトに寄留させ、
430年の時をもって、幼子を除いて、徒歩の壮年の男子だけで約60万人という民族に成長させて、
これをエジプトから連れ出し(出エジプト12:37、41)、
この民族にご自分の御思いを律法というかたちで示し、
民は「主の仰せられたことはみな行い、聞き従います」(出エジプト19:8、24:7)と答えて、
イスラエルの民と「あなたがたの神となる」、「あなたを私の神とします」との契約を結んだのだそうです。
このようにして、天の神、主は、御思いを示せば、人間が自分の努力で、自発的に、ご自分と思いを一つにする者になれるかどうかを、この人間の歴史の中で実験されたのですが、その後のイスラエルの1500年ほどの歴史において実証されたことは、神が、いくら、預言者を遣わして御思いを示し、呼びかけても、民は、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」の道を歩み、自分の判断を神の御思いに先立て、自分が善しと判断する道を突き進むばかりだったのだそうです。
そのことが人の目に明らかになったところで、天の神、主は、創造の初めからの計画を実行されたのだそうです。
〔御子である神〕が、女の子孫として(創世記3:15)人の世に生まれ(ヨハネ1:1~14、ルカ1:26~38、2:1~21)、すべての人の身代わりとなり、すべての人の「的外れ」の責任をとって、神にそむき、神に呪われた者として十字架刑で、天と地の間に高く掲げられて処刑されるという。
このイエスの死を自分の身代わりの死であると受け取った者を、天の神、主は、その人の「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている〔生まれた時からの私〕という霊を処刑が終わっているもの、死んだものと手続してくださるのだそうです。
そのうえで、死んで陰府にまで下り、三日目に死人の中より新しい霊のからだに復活し、40日に渡って何度も弟子たちに現れ、神の国のことを語り、オリーブ山から、弟子たちのみている前で、雲に迎えられ、天の父である神の右の座に帰られたイエスが、父から受けて派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方。
その方が、受け入れる者の心に〔父である神〕が一人一人に思っておられる御思いを置いてくださるので、この部分において、受け入れる者は〔父である神〕と思いを一つにする者にしていただけるのだそうです。
このように、〔父である神〕は、〔御子である神〕、〔聖である霊と呼ばれる神〕によって、人間創造の目的、「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)、「わたしたちが一つであるように、彼らも一つである」(ヨハネ17:21~22)、愛による自発的な一つになる者として私たちを回復してくださる御業を完成してくださっているのだそうです。
この御業を受け取り、神の子としていただき、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、〔父である神〕と思いを一つにして生きる者たちは、イエスが復活された日曜日ごとに集まり、また、朝ごとに、この天の神、主の御業を確認し、感謝をもって主をほめたたえ、歌うのですね。
私たちを憐れみと慈しみによって、平和のうちにいつも守ってくださり、イエス・キリストが私たちを迎えにきてくださる時、非の打ちどころのない、完成されたものとしてくださる、約束の言葉のとおりに実行される方に。
この新しい週も。
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繫栄と安息を回復して
やがて喜び祝う声、
花婿と花嫁の声が、
「万軍の主をほめたたえよ。
主は恵み深く、その慈しみはとこしえに」と歌う声が聞こえるようになる。エレミヤ33:11
花婿の介添え人はそばに立って耳を傾け、
花婿の声が聞こえると大いに喜ぶ。
だから、私の喜びは満たされている。ヨハネ3:29
創世記2:1~3
ヨエル4:1~21(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句5/13;土)
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、ご自分の民を打たれることがあります。
けれども、それは、憎くって打っているわけでも、滅ぼそうとして打っているわけでもないのだそうです。
心が離れてしまった民がご自身に心を向けなおし、立ち返ってほしいと願ってのことなのだそうです。
それで、天の神、主は、ご自身に立ち返った者たちをいやして直し、平安と真実を豊かに示して繁栄をあたえ、婚礼の喜びの声が聞こえるようにしようとしていてくださるのだそうです。
イエスのことを、「神の御子キリスト、世の救い主」と人々に紹介したバブテスマのヨハネは、イエスを花婿に、自分を花婿の介添え人の立場に置いて、人々が自分のところからイエスのほうへ行くのを喜んだのだそうです。
天の神、主は、天地万物の創造を6日間で完成し、七日目は創造の業を終えて休まれ、この日を祝福し、特別な日とされたのだそうです(創世記1:1~3)。
人となって、人の世に来られ、
すべての人の身代わりになって十字架刑での処刑を受け、
すべての人の〔生まれた時からの私〕という霊を処刑済みのもの、死んだものとしてくださり、
三日目に死人の中から新しい霊のからだに復活し、
天の父である神の右の座に帰られたイエス。
その〔御子である神〕の座から、もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣し、
この方によって受け入れる者の心に、〔父である神〕が一人一人に思っていらっしゃる御思いを置いてくださり、
受け入れる者が〔父である神〕と一つ心になって生きるようにする、
その回復の御業を完成されたイエス。
今は廃墟となったようなところも、神が住むところとしてくださり(ヨエル4:21、新改訳は3:21)、
〔父である神〕の御思いが実行され、
繁栄と安息が満ちるところとしてくださるのだそうです。
今日も。
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大地とそれに満ちるもの、すべてのものにきいてほしいのだそうです。
諸国の民よ、皆聞け。
大地とそれを満たすもの、耳を傾けよ。
主なる神はお前たちに対する証人となられる。ミカ書1:2
イエス・キリストの言葉:
全世界に出て行って、
すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。マルコ16:15
創世記1:24~31
ヨエル書3:1~5(新改訳では2:28~32)(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句5/12;金)
すべてを見ておられ、知っておられる方が、私たちがどう思い、どう生きて来たかの証人となられるのだそうです。
そして、この方の御前で、私たち一人一人が弁明をしなければならない時が来るのだそうです。
イスラエルのそむきの罪の証人となると言っておられるように。
大地とそれを満たすもの、すべてのものが聞いてほしいのだそうです。
愛をもって、一つになるものとして造られた者が、その愛を裏切り、離反する、そんなことがあっていいものか、と。
けれども、神である主は、私たち人間をなお愛し、惜しんでくださって、私たちがご自身に立ち返る道を用意してくださったのだそうです。
〔御子である神〕が、女の子孫として(創世記3:15)人となり、
人の世に来てくださって(ヨハネ1:14、ルカ1:26~38、2:1~21)、
私たちの身代わりとなり、私たちに代わって、神にそむく者、神に呪われたものとなって十字架刑で天と地の間に高く掲げられ、処刑を受けてくださったのだそうです(マタイ27、マルコ15、ルカ23、ヨハネ19)。
そして、これを受け取る者の、
「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)と願われて、
「あなた(父である神)が、わたし(イエス)におられ、わたし(イエス)があなた(父である神)にいるように、彼らもわたしたちにおり、彼らがみな一つとなる」(ヨハネ17:21)者として造られていながら、もっと素晴らしい者に、もっと高い者になろうとして、〔神のひとりのようになり、善悪を知る者〕になっている(創世記3:5、22)私たちの〔生まれた時からの私〕という霊を、このイエスの十字架刑での処刑に合わせて処刑されたもの、死んだものとしてくださるのだそうです。
そして、
「その後、わたしは、私の霊をすべての人に注ぐ。
あなたがたの息子や娘は預言し、
年寄りは夢を見、若い者は幻を見る。
その日、わたしは、しもべにも、はしためにも、わたしの霊を注ぐ。
主の名を呼ぶ者はみな救われる」との、このヨエルの預言を実現してくださって(使徒2:1~47)、〔聖である霊〕と呼ばれる方が受け入れる者、一人一人に来てくださり、〔父である神〕が一人一人に思っておられる御思いをそれぞれの心に置いてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。
それで、受け入れる者は、この部分において、〔父である神〕と一つ思いを持つ者としていただけて、〔父である神〕の御思いを受けて、御思いのとおりに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを統治していくようになるのだそうです(創世記1:26、28)。
そして、この〔御子イエス〕と〔聖である霊〕と呼ばれる方によって始まった新しい生き方を生き、その証人となって全世界に出て行き、伝える出来事が2000年続いているのだそうです。
そして、今日も。
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私の若いときからの希望である方が
主よ、あなたは私の希望。
主よ、私は若いときからあなたにより頼む。詩71:5
だから、私たちは落胆しません。
たとえ私たちの「外なる人」は衰えていくとしても、
私たちの「内なる人」は日々新たにされています。Ⅱコリント:4:16
創世記1:20~23
ヨエル書2:18~27(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句5/11;金)
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、私たちを御思いのとおりに母の胎の中で組み立てられた方。
胎から産み出させられ、今日までいだき、運ばれた方。
私たちの肉体は、年老い、衰えていきますが、
〔内なる人〕、私たちの身代りとなって、神に呪われたものとなり、十字架刑での処刑を受けてくださり、三日目に死人の中から新しい霊の体に復活し、天の父である神の右の座に帰られたイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれた方によって始まった新しい私は、
日々に新たにされ、
〔神の子〕として、父である神の御前に立つ、その栄光を望み見て、いよいよ、生き生きとさせてくださるのだそうです(Ⅱコリント4:14~15)。
天の神、主は、
天地創造の7日間の5日目に、「水には生き物が群がれ。鳥が地の上、天の大空を飛べ」と仰せられて、海の巨獣と、種類にしたがって、水に群がりうごめくすべての生き物と、種類にしたがって、翼のあるすべての鳥を創造され、
それを祝福して「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は地にふえよ」と仰せられたのだそうです(創世記1:20~23新改訳)。
この方は、また、ご自分の地をねたむほどに愛し、ご自分の民をあわれまれ、穀物と新しいぶどう酒と油を送ってくださり、産業を祝福し、私たちを楽しませ、喜ばせようとしていてくださるのだそうです(ヨエル2:18~27)。
今日も。
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