太陽のように輝き、喜び躍るその日を
エルサレムと共に喜び祝い、
彼女のゆえに喜び躍れ、
彼女を愛するすべての人よ。
彼女と共に喜び楽しめ。
彼女と共に喪に服していた人よ。イザヤ書66:10
世の終わりの時、
正しい人々はその父の国で太陽のように輝く。マタイ13:43
Ⅱペテロ1:16~21
使徒9:1~9(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句6/16;金)
この世は、良い麦と毒麦がいっしょに生えている畑のよう、なのだそうです。
収穫のとき、まず、毒麦が集められ、焼かれるために束にされ、
そのあと、良い麦が集められ、倉に納められるのだそうです。
そのように、世の終わりのとき、まず、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている(創世記3:5、22)私、そのままで生きて来た人は、集められ、自分の生きて来た生き方の責任を自分で取ることになり、
イエスによって届けられた、イエスの十字架刑に合わせていただいて、イエスの十字架刑での処刑を自分の〔生まれた時からの私〕という霊の処刑としていただき、
そのイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いによって生きて来た人たち、〔父である神〕と思いを一つにしながら生きて来た人たちは、御国で太陽のように、神の子の栄光で輝くようにしていただけるのだそうです。
それで、愛する人を失って喪に服し、悲しんでいる人のように、あるべき正しい関係から外れてしまい、「的外れ」になっている自分の存在を悲しんでいる人は(マタイ5:4)、
イエスによってプレゼントされている自分の死を受け取り、
イエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、新しく、〔父である神〕の御思いによって生きるようになり、
神の子の栄光に包んでいただいて喜び躍り、喜び楽しむ者にしていただけるのだそうですね。
それで、この世に生きている間は、いつもこれらのことを思い起こし、夜明けとなって、明けの明星が心の中に上るまでは、暗い所を照らすともしびとして、これらに目を留めているとよいのだそうです(Ⅱペテロ16~21)。
これらは、うまく考え出した作り話ではなく、イエスの威光の目撃者による確かな証言に基づいていることなのだそうですから。
最初の殉教者ステパノが石打の刑で処刑されるとき、それに賛成し、みんながステパノに石を投げつけている間、みんなの上着の番をしており、
さらに、イエスの弟子たちの集会を荒らし、家々に入って男も女も引きずり出し、次々に牢に入れていたのだそうです。
さらに、エルサレムで、だけでは満足できず、なおもイエスの弟子たちに対するおびやかしと殺害の意に燃えて、大祭司のところに行き、隣国、シリヤの主都ダマスコの諸会堂あての手紙を書いてもらい、この道の者を、男でも女でも、見つけ次第縛り上げてエルサレムにひいて来ようとしていたのだそうです。
ところが、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を照らし、彼は地の倒れたのだそうです。
そして。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか」という声を聞いたのだそうです。
彼が、「主よ。あなたはどなたですか」と言うと、答えがあったのだそうです。
「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。
立ち上がって、町に入りなさい。
そうすれば、あなたのしなければならないことが告げられるはずです」(使徒9:1~9)と。
このように、十字架刑で公開処刑され、確かに死んだイエスが、迫害者サウロに現れ、彼を使徒パウロとして立てたとパウロ自身が証言しているのだそうです。
今、喪に服し悲しんでいるような状態の人も、イエスによって、太陽のように神の子の栄光に輝き、喜び祝い、喜び躍る、その日が来ることから目を離さないで、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いについて行く、
一歩、踏み出してみるといいのだそうですね。
今日も。
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キリストのからだとして、御思いのとおりに、すべてのものを管理し
自分の手が造ったものを、
再び私たちの神とは呼びません。ホセア書14:4
いっさいはあなたがたのもの、
あなたがたがキリストのもの、
キリストは神のものなのです。Ⅰコリント3:22~23
エフェソ書4:1~7
使徒8:26~40(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句6/15;木)
私たち人間は、真理を求め、生きる意味を求めて、多くの神々を考え出して来ました。
そのような無知の時代にも、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
一人の人アブラハムを選び取り、
この人から一つの民族、イスラエルを造り出し、
この民と特別な契約を結んでご自身を示して来られましたが、
今は、すべての人にご自身を示し、
すべての人が向きをご自身のほうに向け、方向転換をして、ご自身に帰って来て、ご自身を自分の神とすることを願っておられるのだそうです。
私たち、人間の身代わりとなり、私たちの存在が「的外れ」になっている責任をご自身の身に負い、私たちが神に帰る道を開くために、
〔御子である神〕は、天の栄光の座を後にして、
「女の子孫」(創世記3:15)、人間イエスとなって人の世に来て下さり、
ダビデ王の子孫であるヨセフとマリヤの家に生まれ、貧しい大工の子として30年ほどを両親に仕えた後、
キリスト(神の御子、救い主)としてご自身を世に表し、3年半ほどの活動の後、
人々の手によって十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。
700年ほど前、預言者イザヤが書きしるした言葉のとおりに、
「彼は痛めつけられた。
彼は苦しんだが、口を開かない。
ほふり場に引かれていく羊のように、
毛を切る者のまえで黙っている雌羊のように、
彼は口を開かない(使徒8:32~33、イザヤ53:7)で、
捕まえられないよう逃げることもなく、
ユダヤ最高議会サンヘドリンでの取り調べでも、ローマ総督ピラトの裁判においても、自分を救うための一言の弁明もしないで。
イエスが十字架にかけられたのは、朝の9時頃だったのだそうですが、
午後の3時頃、ちょうど、過ぎ越しの祭りで大祭司が神殿で過ぎ越しの小羊をほふるその時間に、イエスは息を引き取られたのだそうです。
「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と言い、
また、「完了した。(すべてが終わった。すべてを成し終えた)」と言って。
墓に葬られたイエスは、三日目、日曜日の早朝、
死者の中から新しい霊のからだによみがえられ、
40日に渡って、何度も弟子たちに現れ、神の国のことを語った後、
オリーブ山で、弟子たちが見ている間に上げられ、
天の父である神の右の座に帰られたのだそうですが、
そこから、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださるのだそうです。
それで、この方によって、
受け入れる者は、〔父である神〕が一人一人に思っておられる御思いをその心に置いていただけて、
〔父である神〕と思いを一つにし、心を一つにする者にしていただけるのだそうです。
それで、受け入れる者は、キリストのもの、キリストの体の一部としていただけて、
手足がその人の思うように動くように、
〔父である神〕の御思いのとおりに、
〔父である神〕がしようと思われることをそのとおりにしていく者にしていただけるのだそうです。
一つのからだとして、御思いのとおりに、
謙遜と柔和の限りを尽くし、
寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、
平和のきずなで結ばれて、御霊の一致を熱心に保つ者にも(エペソ4:1~7)。
今日も。
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彼がわたしを呼び求めるとき
主の言葉:
彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答える。詩91:15
“霊”も弱い私たちを助けてくださいます。
私たちはどう祈るべきかを知りませんが、
“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。ロマ書8:26
使徒17:(16)22~24
使徒8:4~25(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句6/14;水)
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、私たちがご自身を呼び求めるのを待っておられ、その求めに答えて、ご自身を与えてくださる方、
「求めなさい。そうすれば与えられます。求める者にどうして聖霊をくださらないことがありましょう」(ルカ11:13)と言われる方
愛し合い、いつも一緒にいて、お互いを与え合う関係を願っておられる方のようです。
妬むほどに愛しておられる、ご自身にとって大切な方(ヤコブ4:5)を、私たちに派遣し、
「わが霊」と呼ぶ、この方によって、
いつも、いつまでも私たちと一緒にいようと計画してくださっているのだそうですから(ヨハネ14:16)。
〔父である神〕は、〔聖である霊〕と呼ばれるこの方が私たち人間のうちに住んでくださるために、まず、私たちをきよめてくださるのだそうです。
〔御子である神〕が、天の栄光の座を後にして、人の世に降り、
「女の子孫」(創世記3:15)として人の世に生まれ、
私たちの身代わりとなり、私たちの「罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ:29、出エジプト12:1~13)となり、
私たち人間の「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている(創世記3:5、22)「的外れ」の責任のすべてをご自身の身に負って、神にそむく者、神に呪われたものとなって十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうですから。
それで、受け入れる者は、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている(創世記3:5、22)〔生まれた時からの私〕という霊を処刑されたもの、死んだものとしていただけて、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が来られても滅びないで済むようにしてくださるのだそうです。
それで、準備が整っている今は、私たちが受け入れさえすれば、〔聖である霊〕と呼ばれる方が私たちに来て下さって、
〔父である神〕の私たち一人一人に持っておられる御思いを私たちそれぞれの心に置いてくださり(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)、
また、言葉に表せないうめきをもって私たちの思いを〔父である神〕に届けてくださるのだそうです。
それで私たちも、〔父である神〕と、部分的ではあるとしても、思いを同じくし、心を一つにして、愛し合い、いつも一緒にいて行動をともにするようにしていただけるのだそうです。
それで、受け入れる者は、もう、神から遠く離れている者ではなく、神の御思いの中に生き、動き、存在している者(使徒17:27~28)にしていただけるのだそうです。
この、〔聖である霊〕と呼ばれる方が来られて、受け入れる者を新しく生まれさせてくださる出来事(ヨハネ3:1~15)は、神の民、ユダヤ人の枠から溢れ出て、サマリヤの人々に(使徒1:8、8:1~17)、
さらに遠くにいる人々(使徒2:39)、
東の果ての日本にいる私たちにまで及んで、
私たちを神の御思いで生きる者にしていくのだそうです。
今日も。
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神に訴え、知っていただき、見ていただきながら、お言葉のとおりに
エリファズの言葉:
私なら、神に訴え、
神に私の問題を任せるだろう。
計り難く大きな御業を、
数知れぬ不思議な業を成し遂げられる方に。ヨブ5:8~9
病人は答えた。
「主よ、水が動くとき、
私を池の中に入れてくれる人がいないのです。」
イエスは言われた。
「起き上がりなさい。床を担いで歩きなさい。」ヨハネ5:7~8
イザヤ書43:8~13
使徒7:54~8:3(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句6/13;火)
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
計り難く大きな御業を、数知れぬ不思議な業を成し遂げられる方。
天の神、主は言われます。
「わたし、このわたしが、主、「わたしはある」という者であって、
私のほかに救い主はいない。
このわたしが告げ、救い、聞かせたのだ。
これから後もわたしは神だ。
わたしの手から救い出せる者はなく、
わたしがことを行えば、だれがそれを戻しえよう」(イザヤ43:11~13)と。
イエスは、エルサレムのベテスダの池にある回廊で、38年もの間、病気にかかっている人を見て、「よくなりたいのか」と尋ねられ、
そして、「起き上がりなさい。床を取り上げて歩きなさい」と言われたのだそうです。
それで、その人が、起き上がろうとし、床を取り上げ、担いで歩き出そうとすると、
その人はすぐに治って、床を取り上げて歩くことができたのだそうです。
エルサレムで、十字架に架けられ、処刑されたイエスの復活を宣べ伝えていたステパノ。
捕らえられ、ユダヤの最高議会、サンヘドリンでの審問にあっているとき、
順序立てて、イスラエルの始祖、アブラハムから始めて、イスラエルの歴史の中での神の導きを語り、
「かたくなで、心と耳とに割礼を受けていない人たち。
あなたがたは、父祖たちと同様に、いつも聖霊に逆らっているのです。
あなたがたの父祖たちが迫害しなかった預言者がだれかあったでしょうか。
彼らは、正しい方が来られることを前もって宣べた人たちを殺したが、
今はあなたがたが、この正しい方を裏切る者、殺す者になりました。
あなたがたは、御使いたちによって定められた律法を受けたが、それを守ったことはありません」と言うと、
議員たちはこれを聞いて、はらわたが煮えかえる思いで、ステパノに向かって歯ぎしりしたのだそうです。
でも、そのような敵意の中にあって、聖霊に満たされていたステパノは、
天を見つめ、神の栄光と、神の右に立っておられるイエスを見て、言ったのだそうです。
「見なさい。天が開けて、人の子(イエス)が神の右に立っておられるのが見えます」と。
それで、議員たちは大声で叫びながら、耳をおおい、いっせいにステパノに殺到し、彼を町の外に追い出して、石で撃ち殺したのだそうです。
そのとき、ステパノは、石を投げつけられながら、
「主イエスよ。私の霊をお受け下さい」と言い、
そして、ひざまずいて、大声で、
「主よ。この罪を彼らに負わせないでください」と叫んで、眠りについたのだそうです(使徒7:54~40)。
私たちの身代わりとなり、私たちの「的外れ」の責任をご自身の身に負って十字架刑で処刑を受けてくださり、
死者の中から新しい霊のからだによみがえって、天の父である神の右の座に帰られたイエス。
私たち、この方に訴え、問題をお任せしながら、
このイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いに導かれて進むといいのだそうですね。
今日も。
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私たちを慰め、守り、導いてくださる方を
わたし、わたしこそ神、あなたたちを慰める者。
なぜ、あなたは恐れるのか、
死ぬべき人、草にも等しい人の子を。イザヤ書51:12
人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません。
心の中でキリストを主とあがめなさい。Ⅰペテロ3:14~15
出エジプト3:13~20
使徒7:44~53(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句6/12;月)
私たち、人を恐れ、心を乱すものですが、
その、恐れている人は、死んでしまうもの、
永遠の神の目から見れば、朝には生え出でて、夕べには枯れてしまう草のようなもの。
恐れなければいけないのは、死んだあとの私たちに、生きて来た時の責任を問われる方。
私たちは、一人残らず、この方の御前に出て申し開きをしなければいけないのだそうですから。
神の御子の位を後にして、人となって、人の世に来られ、
私たちの身代わりとなり、
私たちのすべての「神のひとりのようになり、善悪を知る者」となっている「的外れ」の責任をご自身の身に負って、十字架刑で処刑を受けてくださり、
受け入れる者に〔聖である霊」と呼ばれる方を派遣して、
受け入れる者を新しく生まれさせ、
〔父である神〕と一つ思いになって生きさせてくださる方、
この方を救い主として受け入れ、あがめていけばいいのだそうですね。
レビの家に生まれ、エジプト王の命令で、イスラエル人の男の子はナイル川に投げ込まなければならないのに、3ヶ月間、隠して育てられたモーセ。
もう、隠しきれなくなり、水が入らないようにしたパビルスのかごに入れられ、ナイル川の葦の茂みの中に置かれ、エジプト王、パロの娘に拾われて、王女の子として育てられたのだそうです。
成人した時、エジプト人の奴隷となっている同胞、イスラエルを救おうと思ったのだそうですが、「だれがあなたを私たちのつかさやさばきつかさにしたのか」と拒否され、エジプト王の怒りを恐れてミデヤンの地に逃れ、ミデヤン人イテロのもとに身を寄せて40年、荒野で羊を飼う者だったのだそうです。
その、失意のモーセに、天の神、主が、燃える柴の中で現れ、モーセをエジプトに遣わし、イスラエルの民を解放させようとしたのだそうです。
けれども、エジプト王を、そして、イスラエルの人々の拒絶を恐れるモーセが、私を遣わされた神の名を問われたとき、なんと答えればいいのですかと問うモーセに、
天の神、主は、「わたしは『わたしはある』という者である。『わたしはある』という方が、私をあなたがたのところに遣わされましたと言え」と答えられたのだそうです。
この方は、人が手で造った宮にはお隅にならない方。
「天は私の王座。
地はわたしの足の足台である。
あなたがたは、どのような家を私のために建てようとするのか。
わたしの休む所はどこか。
わたしの手が、これらのものをみな、造ったのではないか」と言われる方なのだそうです。
この方を主、「私の神」とし、
この方の導きと慰めの中にいればいいのだそうですね。
今日も。
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私たちを覆うのだそうです。聖なる万軍の主の御思いが。
聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。
主の栄光は地をすべて覆う。イザヤ書6:3 (6/11の週の聖句)
主は仰せを地に遣わされる。
御言葉は速やかに走る。詩47:15
あなたがたの上に聖霊が降(くだ)ると、あなたがたは力を受ける。
そして、エルサレムばかりでなく、
ユダヤとサマリヤの全土で、
また、地の果てに至るまで、
わたしの証人となる。使徒1:8
ヨハネ3:1~8(9~15)
詩29(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句;Ⅱ日)
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、また、
「聖なる万軍の主」とも呼ばれる方なのですね。
そして、その方の栄光は地をすべて覆うのだそうです。
この方は、ご自身の、人に対する、熱い御思いをすべての人に知って欲しいと、預言者を遣わされるのだそうです。そして、最後には、〔御子である神〕を遣わして(ルカ20:9~15)、
この方を、すべての人の身代わりとして立て、
出エジプト以来、1500年ほど、年ごとにほふって、予表としてイスラエルの人々に示してきた「罪を贖う小羊」として、
人々の手によって十字架刑で処刑し、
受け入れる者の、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている(創世記3:5、22)、人の〔生まれたときからの私〕という霊を処刑されたもの、死んだものとしてくださるのだそうです。
そして、新しい霊として、もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって、ご自身の御思いを受け入れる者の心に置いてくださり、
受け入れる者がご自身と思いを同じくし、心を一つにして、
新しく生きるようにしてくださるのだそうです。
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、「新しく生まれる」(生まれ変わるではなく)ことを起こして下さるのだそうです(ヨハネ3:1~15)。
そして、この、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって「新しく生まれた」者によって、
イエスの復活による喜ばしい証言が、
エルサレムから始まって、2000年、
地の果て果てにまで伝えられて来たのだそうです。
ご自身の民に力を与え、
平安をもって、ご自身の民を祝福しようとして(詩29:11)。
この新しい週も。
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天の神、主が、私の幸いとなって
あなたは私の主。
あなたのほかに私の幸いはありません。詩16:2
なすべきことはただ一つ、
後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ
神がキリスト・イエスによって上に召して、お与えになる賞を得るために、
目標を目指してひたすら走ろう。フィリピ書3:13~14
使徒18:1~11
使徒7:30~43(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句6/10;土)
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方を、
「私の主」、「私の幸い」とした者は、
もう、後ろのもの、今までの自分を振り返らなくていいのだそうです。
イエスが、私たちに代わって十字架刑で処刑を受けてくださり、
私たちの〔生まれた時からの私〕という霊を処刑済み、死んだものとしてくださっているので、
今までの私は死んだものとしていいのだそうです。
そして、三日目に死者の中から新しい体に復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れて神の国について語ったのち、
弟子たちの見ている前で、オリーブ山から、天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエス。
そのイエスが〔父である神〕の右の座にあって派遣してくださるもう一人の助け主、
〔聖である霊〕と呼ばれる方。
この方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いに従って、
ひたすら前に向かって進めばいいのだそうです。
すでに得た、とするのでも、すでに完全にされた、と思うのでもなく、
捕らえようとして、
キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、
目標を目指して一心に走るのだそうです。
達しているところはそれぞれ違うのだそうですから、
そこから、さらに前を、上を目指して(ピリピ3:12~16)。
同国人を一人でも救いたいと同国人にイエスの復活を伝えていた使徒パウロが、
同国人の反対によって、
向きを変えて異邦人に伝えるよう導かれて行ったように(使徒181~11)。
また、「だれがあなたを、私たちの支配者や裁判官にしたのか」と人々から拒まれたモーセが、天の神、主によって、支配者また解放者として遣わされ、
エジプトの地で、紅海で、また40年間荒野で、不思議なわざとしるしを行ったように。
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いのままに。
今日も。
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