私たちを救おうと思い定めていてくださって
常に身を避けるための住まい、岩となり、
私を救おうと定めてください。詩71:3
パウロは皆と一緒にひざまずいて祈った。
人々は皆激しく泣き、パウロの首を抱いて接吻した。
特に自分の顔をもう二度と見ることはあるまいとパウロが言ったので非常に悲しんだ。
人々は彼を船まで見送りに行った。使徒20:36~38
Ⅱコリント2:5~11
使徒16:6~15(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句7/11;火)
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、常に、私たちの身を避けるための住まい、岩となり、私たちを救おうと心に定めておられる方なのだそうです。
それで、私たちがあやまちを犯し、そのまま放っておけば滅びに至ってしまうようなとき、
取り返しがつかなくなる前に、あやまちを指摘し、立ち返るよう、はたらきかけられるのですね。
そして、立ち返った者を、なお、責め続けるようなことはせず、一緒に重荷を負ってくださり、赦してくださる方なのだそうです(Ⅱコリント2:5~11)。
けれども、この時のパウロのように、この歴史を導くご計画のためには、私たちが命をささげることもあるのですね。
ギリシャからエルサレムに向かうパウロは、船がミレトの港に着いたとき、エペソには立ち寄る時間がないので、エペソに使いを送り、エペソの教会の長老たちを招いたのだそうです。
そして、話したのですね。
「いま私は、心を縛られて、エルサレムに向かう途中です。
そこで私にどんなことが起こるのかわかりません。
ただわかっているのは、聖霊がどの町でも私にはっきりとあかしされて、縄目(なわめ)と苦しみが私を待っていると言われることです。
けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、
イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、
私のいのちは少しも惜しいとは思いません。
皆さん、御国を宣べ伝えてあなたがたの中を巡回した私の顔を、あなたがたはもう二度と見ることがないことを、いま私は知っています」(Ⅱコリント⒛:15~25)と。
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、私たちを通しても、しようと思っておられることがあるのだそうです。
その御思いを、〔聖である霊〕と呼ばれる方が私たちの心に置いてくださるのだそうですから(エレミヤ31:33、エゼキエル36:25~28)。
主の守りの中で、その御思いについて行って、
パウロのように、ゴールを見据えて、走るべき行程を走り尽くし、
「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、わたしはあなたにたくさんの物を任せよう。
主人の喜びをともに喜んでくれ」(マタイ25:23)と言っていただけるようだとうれしいですね。
今日も。
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互いに重荷を負い合い
互いに重荷を担いなさい。
そのようにしてこそ、
キリストの律法を全うすることになるのです。ガラテヤ書6:2(7/9の週の聖句)
娘シオンよ、喜び叫べ。
イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。
娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。
主はお前に対する裁きを退けられた。ゼファニア書3:14~15
神は約束に従って、
救い主イエスを送ってくださったのです。使徒13:23
ルカ6:36~42
「あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。
さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。
人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。
赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。
与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。
人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。
あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。
いったい、盲人に盲人の手引きができるでしょうか。ふたりとも穴に落ち込まないでしょうか。
弟子は師以上には出られません。しかし十分訓練を受けた者はみな、自分の師ぐらいにはなるのです。
あなたがたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。
自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、『兄弟。あなたの目にあるちりを取らせてください』と言えますか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目にあるちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。」
詩7(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句しりぞけられた7/9;Ⅱ日)
初めに、神は天と地を創造された。創世記1:1
信仰によって、私たちは、
この世界が
神のことばによって創造されたことが分かるのです。ヘブル書11:3
ガラテヤ書6:1~5
兄弟たちよ。もし誰かがあやまちに陥ったなら、
御霊の人であるあなたがたは、柔和な心でその人を正してあげなさい。
また、自分自身も誘惑に陥らないよう気をつけなさい。
互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を完成しなさい。
だれでも、りっぱでもない自分を何かりっぱでもあるかのように思うなら、
自分を欺いているのです。
おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。
そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、
ほかの人に対して誇れることではないでしょう。
人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。
使徒15:36~16:5(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句7/10;月)
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割礼のあるなしではなく、約束の御霊を受けて
人の子らは空しいもの。
人の子らは欺 ( あざむ )くもの。
共に秤 ( はかり )にかけても、息よりも軽い。詩62:10
人の子は、
失われたものを捜して救うために来たのである。ルカ19:10
ガラテヤ書3:6~14
使徒15:1~21(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句7/7;金)
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方から、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」との御思いで造られた人間(創世記1:26)、
その、造り主と思いを一つにし、心を一つにして生きる場に留まることをしないで、
もっとすばらしいものになろうとして造り主に対立、対抗し、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になった人間は、身分の低い人々は空しく、高い人々は偽 いつわりで、失われた存在、一緒に秤 はかりにかけても、息よりも軽い存在になっているのだそうです。
けれども、自分を「人の子」と言われるイエスは、その、迷い出て失われたものを捜し出して救うために来て下さった方なのだそうです。
それで、「私は神の律法をちゃんと守って、自分の努力で神の前に立つことができるものだ」と思っている人々からは、「遊女、取税人の奴ら」と呼ばれ、見下され、相手にもされない人々のところにも、取税人のかしらザアカイの家にも、自分から、出て行かれたのだそうです(ルカ19:1~10)。
神は、ご自身の御思いを、モーセをとおして、「律法」という形でイスラエルの民に示し、人が自分の力で、ご自身と思いを一つにする者になれるかどうかを人間の歴史の中で実験され、自分の力で律法を行うことによっては、神の前に義と認められる者は誰もいないことを、人々の目に明らかにされ、神の民と呼ばれる人々にも異邦人と呼ばれる人々にも、救い主が必要なことを実証されたのだそうです(ガラテヤ3:1~14)。
最初の頃、イエスの弟子に加わった人たち、教会は、ユダヤ人であり、モーセの律法を守る神の民であるしるしとしての「割礼」を受けている人たちでした。
その中へ、「割礼」を受けていない異邦人も、イエスを救い主、キリストと信じて加わって来るようになったとき、その異邦人の弟子たちにも「割礼」を受けさせなければならないと主張する人たちもたくさんいたようです。
この問題は、これから、ユダヤ人が教会に加わって来る時、再燃することでもあるようですが、初代教会においても、人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、割礼のあるなしの問題ではなく、イエスをキリストと信じ受け入れることによることが確認されて行ったのだそうです(使徒15:1~21)。
十字架刑で処刑され、三日目に墓から復活したイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方によって〔父である神〕の御思いを心に置いていただき、〔父である神〕と思いを一つにして生きる、その生き方が天の御国まで持って行ける唯一のもの、なのだそうですから。
今日も。
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「わたしが事を行えば、誰がそれを戻し得よう」と言われる方が
今より後も、わたしこそ主。
わたしの手から救い出せる者はない。
わたしが事を起こせば、誰が元に戻しえようか。イザヤ書43:13
マリアの言葉:
主はその腕で力を振るい、
思い上がる者を打ち散らされます。ルカ1:51
マタイ18:15~⒛
(イエスは弟子たちに言われた。)
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。
言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。
聞きいれなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。
すべてのことが二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。
それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。
教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。
はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ(つながれており〔新改訳〕)、
あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる(解かれている〔新改訳〕)。
また、はっきり言っておくが、
どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、
わたしの天の父はそれをかなえてくださる。
二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」
使徒14:20b~28(通読箇所)
(ところが、ユダヤ人たちがアンティオキアとイコニオンからやって来て、群衆を抱き込み、パウロに石を投げつけ、死んでしまったものと思って、町の外にひきずり出した。
しかし、弟子たちが周りを取り囲むと、パウロは起き上がって町に入って行った。)
そして翌日、パルナバと一緒にテルベに向かった。
二人はこの町で福音を告げ知らせ、多くの人を弟子にしてから、リストラ、イコニオン、アンティオキアへと引き返しながら、弟子たちを力づけ、「私たちが神の国に入るには、多くの苦しみを経なくではならない」と言って、信仰に踏みとどまるよう励ました。
また、弟子たちのために教会ごとに長老たちを任命し、断食して祈り、彼らをその信ずる主に任せた。
それから、二人はピシディア州をとおり、パンフリア州に至り、ベルゲで御言葉を語った後、アタリアに下り、そこらアンティオキアへ向かって船出した。
そこは、二人が今成し遂げた働きのために神の恵みにゆだねられて送り出された所である。
到着するとすぐ教会の人々を集めて、神が自分たちと共にいて行われたすべてのことと、異邦人にも信仰の門を開いてくださったことを報告した。
そして、しばらくの間、弟子たちと共に過ごした。
(ローズンゲン日々の聖句7/6;木)
天で、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方の御心の中でつながれていることを、私たちは、この地上でつなぎ、
天で、天の神、主の御心の中で解かれていることを、私たちは、この地上で解くのだそうです。
天の神、主の御心の中でなっていることをこの地上に実現するために用いていただける、のですね。
十字架に架かられ、墓に葬られ、三日目に死人のうちよりよみがえられたイエスを通して来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
〔父である神〕が私を通してしようとしておられる御思いを私の心に置いてくださり、
私たちがその思いについて行って、踏み出す時、力強い御腕をもって実現してくださるのだそうですから。
今日も。
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そむきを赦し、慈しみをもって
塵(ちり)あくたにすぎない私たちですが、
あえて、わが主に申し上げます。創世記18:27
ひたすら祈りなさい。コロサイ書4:2
ミカ書7:7~9、18~20
使徒14:8~20a(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句7/5;水)
ソドムとゴモラの悪が満ちて、天の神、主が、裁きを実行するためにソドムに行こうとしているとき、
アブラハムが、もし、その中に10人の正しい者がいれば、その町をお赦しにならないのですか、と交渉する場面ですが、
アブラハムはこのように言って、
自分が、本来、天の神、主に何かを言えるようなものではないことを言い表しています。
私たちも、天の神、主から、「われわれのかたちとして、われわれに似せて」と望まれて造られていながら(創世記1:26)、
その、天の神、主との思いを一つにし、心を一つにしていく場に留まることをせず、
自分が「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になろうとして、
造り主である天の神、主に対立、対抗した者(創世記3:5、22)の子孫として、
その性質を受け継いで生まれて来た者なのですので、
裁きを受けるのがふさわしい存在であって、
天の神、主に、何かをお願いできるような者ではないのだそうです。
けれども、天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、なお、私たち一人一人を大事に思っていてくださって、私たちがご自身と思いを一つにし、心を一つにしていく、愛し合う関係に戻ってきてほしいと願っていてくださる方なのだそうです。
それで、〔御子である神〕が、人となって、アダムの、この背きの性質を受け継がない「女の子孫」(創世記3:15)として人の世に来られ、
私たち、すべての人間の、すべてのそむきの責任を引き受けて、
十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。
〔父である神〕は、その、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている私たちの〔生まれた時からの私〕という霊を、
イエスの十字架刑での処刑に合わせてくださり、処刑済みのもの、死んだものとしてくださっているのだそうです(コロサイ2:20)。
そのうえで、イエスの復活にも合わせて、イエスとともによみがえったものとしてくださり(同3:1)、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって、〔父である神〕が私たち一人一人に思っていてくださる御思いを、受け入れる者の心に置いてくださり、
受け入れる者が〔父である神〕と思いを一つにし、心を一つにして生きる、
新しい人にしてくださるのだそうです(3:10)。
〔父である神〕は、私たちの思いがご自身の思いの中にあり、ご自身の思いが私たちのうちにある、一つになる関係になろうと願っていてくださって、私たちが、自由意思で、自発的に、自分の思いの一つ一つをご自身に言って来てほしい、知らせてほしいと思っておられるのだそうです。
ちり、あくたにすぎない私たちに、イエスによる赦しと〔聖である霊〕による神の子の身分を用意して。
それで、私たちにも、絶えず、ひたすら、たゆみなく、思うことの一つ一つを、
いい思いも悪い思いも全部、話して来てほしいとおっしゃるのだそうです。
今日も。
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乳飲み子が、母親の世話をそのままに受け入れるように
遠い昔の日々を思い起こし、代々の年を顧みよ。
あなたの父に問えば、告げてくれるだろう。
長老に尋ねれば、話してくれるだろう。申命記32:7
イエスは乳飲み子たちを呼び寄せて言われた。
「子供たちをわたしのところに来させなさい。
妨げてはならない。
神の国はこのような者たちのものである。」ルカ18:16
士師記10:6~16
使徒14:1~7(通読箇所)
(ローズンゲン日々の聖句7/4;火)
遠い昔の日々、民をエジプトでの奴隷の苦役から救い出し、荒野での40年を守り、導き、運ばれたことを聞きなさい、思い起こしなさいということでしょうか。
天よ。耳を傾けよ。
地よ。聞け。私の口の言葉を。
主は岩。主の御業は完全。
まことに、主の道はみな正しい。
主は真実の神で、偽りがなく、正しい方、直ぐな方である。
主をそこない、その汚れで、主の子らではない、よこしまで曲がった世代。
あなたがたはこのように主に恩を返すのか。
愚かで知恵のない民よ。
主はあなたを造った父ではないか。
主はあなたを造り上げ、あなたを堅く建てるのではないか」(申命記32:1~6)と。
また、言われるのだそうです。
「あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。
あなたがたの父アブラハムとあなたがたを産んだサラのことを考えよ。
わたしが彼ひとりを呼び出し、私が彼を祝福し、彼の子孫を増やしたことを。
まことに主はシオンを慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにされる。
そこには楽しみと喜び、感謝と歌声がある。
わたしの民よ。わたしに心を留めよ。
わたしの国民よ。わたしに耳を傾けよ」(イザヤ51:1~4)とも。
だから、「乳飲み子、幼子のように聞き、受け入れる者になってほしい」と。
イスラエルの民は、生活が安定し、充分に食べられるようになると、
周りの国々の神々に仕え、主を捨て、主に仕え亡くなったのだそうです。
それで、天の神、主の怒りはイスラエルに向かって燃え上がり、
彼らをペリシテ人の手とアモン人の手に売り渡されたのだそうです。
それで、非常な苦境に立った時、イスラエル人は主に叫んで言ったのだそうです。
「私たちは、あなたに罪を犯しました。私たちの神を捨ててバアルに仕えたのです」と。
すると主はおおせられたのだそうです。
「わたしは、かつてエジプト人、エモリ人、アモン人、ペリシテ人から、あなたがたを救ったではないか。
シドン人、アマレク人、マオン人があなたがたをしいたげたが、
あなたがたがわたしに叫んだとき、わたしはあなたがたを彼らの手から救った。
しかし、あなたがたはわたしを捨てて、ほかの神々に仕えた。
だから、わたしはこれ以上あなたがたを救わない。
行け。そして、あなたがたの選んだ神々に叫べ。
あなたがたの苦難の時には、彼らが救うがよい」と。
すると、イスラエル人は、
「私たちは罪を犯しました。あなたがよいと思われることを何でも私たちにしてください。
ただ、どうか、きょう、私たちを救い出してください」と言い、
自分たちのうちから、他の神々を取り去って主に仕えたので、
天の神、主は、イスラエルの苦しみを見るに忍びなくなって、助け手を送られたのだそうです(士師記10:6~16)。
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
私たち、聞く耳を持たない者であり、
自分の思いのとおりに生きたい、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」(創世記3:5、22)も、
その〔生まれた時からの私〕という霊を、イエスの十字架刑での処刑に合わせてくださって処刑されたもの、死んだものとしてくださって、死亡手続きを済ませてくださり、
そのイエスを通して派遣してくださるもう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
受け入れる者の心に、私たち一人一人に持っておられる御思いを置いてくださり、一新された、新しい心で生きる者にしてくださるのだそうです。
その御思いに聞き、御思いについて行き、〔父である神〕が一人一人を通してしようと思っておられることをしていく者にもしてくださるのだそうです。
パウロとバルナバが、迫害の中で、導かれるままに次々と次の町へ進み、十字架に架かり死なれ、復活されたイエスによる罪の赦しがと、そのイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方による、神の子とされた新しい生き方を伝えていったように(使徒14:1~7)。
今日も。
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