風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

打ち砕かれた心、悔いる霊を救ってくださる方に

すべて多く与えられた者は、多く求められ、
多く任された者は、さらに多く要求される。ルカ12:48(8/13の週の聖句)

 主は打ち砕かれた心に近くいまし、
悔いる霊を救ってくださる。
詩34:19

 アナニヤは出かけて行ってユダの家に入り、
サウロの上に手を置いて言った。
「兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、
あなたが元どおり目が見えるようになり、
また、聖霊で満たされるようにと、私をお遣わしになったのです。
使徒9:17

 マタイ25:14~30
 詩14(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句8/13;Ⅱ日)

 

ヨシュア22:5
 フィリピ1:9~10
 列王記上3:16~28
 使徒23:12~35(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句8/14;月)

 

天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
人を、平均的に、同一に造らないで、一人一人違って造っておられます。
それが、不公平だとも思えますが、
多く与えられた者からは、多く求められ、多く任された者からは、さらに多く要求されるのだそうです。
それで、結果としては公平になるということでしょうか。


 けれども、自分が、的から外れた矢のように、それてしまっていて、
天の神、主から任されているものを正しく用いることはできず、
期待された結果を出すことができない者であることを知り、これを認めて、
天の神、主のあわれみにすがる者を、天の神、主は、なおざりにはしないのだそうです。
憐れんでくださり、救いの手を差し伸べてくださるのだそうです。

ユダヤ人として多くのものを与えられていたパリサイ人サウロ、
「生まれて、八日目に割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれのものであり、
生粋のヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
その熱心は教会を迫害したほどで、律法の義についてならば非難されるところのない者」(ピリピ3:5~6)であり、
エルサレムにおいて律法学者ガマリエルの門下生であり、
生まれながらにローマの市民権を持ち、
当時の世界共通語のギリシャ語に堪能な者。

天の神、主は、多くのものを与えたそのサウロを、イエスの弟子たちを捕らえ、滅ぼそうとしているその現場で、ひっくり返し、
アナニヤを遣わして、〔聖である霊〕と呼ばれる方を迎えて、〔父である神〕の御思いを心に置いていただく者とし、
使徒パウロとして立て、他のどの弟子よりも多くの働きをする者にされたのだそうです。


エスは、天の御国のたとえとして、
僕たちを呼んで自分の財産を預け、旅に出て行く人の話をしています。

 彼は、みんなに一律にではなく、おのおのに、その能力に応じて、ひとりには5タラント、ひとりには2タラント、もうひとりには1タラントを渡して旅に出たのだそうです。
そして、よほどたってから、帰って来て、彼らと清算をしたのだそうです。
すると5タラント預かった者は、さらに5タラントもうけ、
2タラントの者も、さらに2タラントもうけ、
主人から
「よくやった。良い忠実なしもべだ。
あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。
主人の喜びをともに喜んでくれ」
と同じ評価を受けたのだそうです(マタイ25:14~30新改訳)
〔1タラントは6,000デナリ、1デナリは、当時の労働者の1日分の給料〕


ダビデは言っています。
「愚か者は心の中で、『神はいない』と言っている。
彼らは腐っており、忌まわしい事を行っている。
善を行う者はいない。
主は天から人の子らを見おろして、
神を尋ね求める、悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。
彼らはみな、離れて行き、
だれもかれも腐り果てている。
善を行う者はいない。ひとりもいない」(詩篇14:1~3新改訳)と。


自分がこのことばのような者であることを知り、認めて、
打ち砕かれた心、悔いた心で、天の神、主のあわれみにすがるとき、
天の神、主は、御子イエスの栄光をもって私たちを包んでくださるのだそうです。

 それで、勧められているのですね。
「あなたたちの神、主を愛し、その道に歩み、その戒めを守りなさい。」(ヨシュア22:5)

 「私(パウロ)はこう祈る。
知る力と見抜く力とを身に着け、
あなたがたの愛が益々豊かになり、
本当に重要な事を見分けられるように。
そして、キリストの日(主人が旅から帰って来て、預けていた物を清算する日)に備えて、
咎められるところのない者となるように」(フィリピ1:9~10)と。

この新しい週も。

 

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真実な、約束のことばをしっかり握って

主なる神よ、
あなたは神、
あなたの御言葉は真実です。
サムエル記下7:28

 天地は滅びるが、
わたしの言葉は決して滅びない。
ルカ21:33

 フィリピ書2:12~18
 使徒23:1~11(通読箇所)

 (ローズンゲン日々の聖句8/12;土)

天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方が、ダビデ王のもとに預言者ナタンを遣わし、告げたのだそうです。
「万軍の主はこう仰せられる。
わたしはあなたを、羊の群れを追う牧場からとり、わたしの民イスラエルの君主とした。
そして、あなたがどこに行っても、あなたとともにおり、
あなたの前であなたのすべての敵を断ち滅ぼした。
わたしは地上の大いなる者の名に等しい大いなる名をあなたに与える。
わたしはあなたをすべての敵から守って、安息を与える。

 さらに主はあなたに告げる。
『主はあなたのために一つの家を造る。』
あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、
わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたの後に起こし、彼の王国を確立させる。
彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも固く立てる。
あなたの家とあなたの王国とは、わたしの前にとこしえまでも続き、あなたの王座はとこしえまでも固く立つ」(Ⅱサムエル7:8~16新改訳)と。

 そしてダビデはこのように
「主なる神よ、あなたは神、あなたの御言葉は真実です」と答えたのだそうです。


エスは、エルサレムの滅亡、この世の終わりの前兆について語られたとき(ルカ21:5~36)、
このように「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」と言われたのだそうです。

パウロは言います。
「あなたがたは、邪悪な時代の中にあって傷のない神の子どもとなり、
いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝く」(ピリピ2:15~16)と。


パウロは、捕らえられ、エルサレムの最高議会でも、神の知恵によって弁明してイエスを証しした(ルカ21:12~15)のだそうですが、
神は、さらに言われました。
「勇気を出しなさい。
あなたは、エルサレムでわたしのことを証ししたように、ローマでもあかしをしなければならない」(使徒23:11)と。

そして、2年ほどの、カイザリヤでの獄中生活を経てですが、ローマに護送され、ローマ皇帝の裁判での弁明において、イエスを証しすることになったのだそうです。

 私たちも、この方を私の神とし、真実な、天地が滅びても滅びないこの方の約束のことばしっかり握って出て行き、この方の御業を見る者にしていただけるのだそうですから。

今日も。

 

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和解を受け入れ、帰っておいで、と

神はノアに言われた。
「わたしは、あなたたちと、後に続く子孫と、あなたたちと共にいるすべての生き物と契約を立てる。
今後、洪水が起こって地を滅ぼすことは決してない。」
創世記9:10、11

 神は、和解の言葉を
私たちにゆだねられたのです。
Ⅱコリント5:19

 Ⅰペトロ3:8~17
 使徒22:22~30(通読箇所)

 (ローズンゲン日々の聖句8/11;金、祝)

 

天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」と仰られて、私たち人間を造られたのだそうです(創世記1:26)。
〔父である神〕、〔御子である神〕、〔聖である霊と呼ばれる神〕が、
互いに愛し合うゆえに、
自由意思で、自発的に思いを一つにし、心を一つにし、行動を一つにし、存在を一つにしていらっしゃる、
その一つに加わる者にと。

けれども、最初の人アダムは、この、神の「われわれのかたち、われわれに似せた」、その、神との一つの場に留まることを止めて、もっと素晴らしい者に、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になろうとしたのだそうです。

天の神、主との一つになる場を捨て、天の神、主に対立、対抗して、
自分の理性の善悪の判断、自分一人で善悪を判断して、その自分の思いのとおりに生き、
自分が最高の者になって(イザヤ14:13~14)、他のすべてのものを自分の判断に従わせようとする者に。

 

そのように、最初の創造の目的から外れた、「的外れ」になった私たち人間を、天の神、主は、ゲヘナエルサレムのごみ焼却場)で、生ごみとして廃棄処分することを望まず、
なお、大切に思ってくださって、救い主を送り、
最初の、創造の目的、「われわれのかたち、われわれに似せた」ものに回復しようとしていてくださるのだそうです。

救い主を人の世に送るに際して、神は、私たち人間が言うであろう二つのことを想定されたようですね。

その一つは、「私たちは、悪い者であっても、その中の、一番いい者から人類を造り直せば、良くなりますよ」、という言い分。
二つ目は、「私たちだって、その気になりさえすれば、あなたの言うことくらい守って見せますよ。その気になれば、ちゃんとやれますよ」と。
「だから、私たちに救い主など、あなたの救いなど必要ありません」と。

 

 人が地にふえ、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く(創世記6:5)のを見られた神は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められ、そして仰せられたのだそうです。
「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。
わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ」(創世記6:6~7)と。


それで、天の神、主は、地を洪水で滅ぼし、その時代の人の中で一番正しく、神と共に歩んでいたノアとその家族、そして、すべての動物の一つがいずつを箱舟に入れて洪水から守り、
この、「今後、洪水が地を滅ぼすことはない」との約束のことばを与え、
このノアから新しい人類を始められたのだそうです。
けれども、その結果が今の世の中なのですね。

 

 二つ目の言い分についても、
神は、カルデヤのウルにいたひとりの人、アブラハムを選び、この人からイスラエル民族をつくり、
このイスラエル民族と契約を結んで、律法というかたちで御思いを示し、
この人間の歴史の中で、その気になって、この律法を守り、ご自分と心を一つにしてくれるかどうかを実験されたようです(出エジプト19:8、24:3、7)。


 そして、イスラエル民族1500年の歩みを通して実証されたその結果は、
「義人はいない。ひとりもいない。
悟りのある人はいない。神を求める人はいない。
すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者になった。
善を行う人はいない。ひとりもいない」(ロマ3:10~11、詩54:1~3、53:1~3)、
という結果だったのだそうです。

 

 こうして、天の神、主は、人には、救い主が必要であることを人間の歴史の中で実証されたうえで、
御子である方を「女の子孫」(創世記3:15)として人の世に送り、
この方が、およそ33歳の頃、すべての人間の身代わりとして十字架刑で処刑し、
すべての人のそむきの罪の処罰が終わっているものとしてくださったのだそうです。


そして、私たち、すべての人に、ご自身と和解して、帰って来るように、
ご自身の子、家族となって心を一つにして生きる者になってほしいと、
和解の言葉を私たちにゆだねていてくださるのだそうです。


 天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
この和解を受け入れ、ご自身に帰って来た者に、
もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって、ご自身の御思いを心に置いてくださって、
受け入れる者がご自身と同じ思いになり、ご自身と一つ心になるようにしてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。

 

 それで、私たちの心にも、イエスと同じに、
互いに心を一つにし、同情し合い、兄弟愛を示し、憐れみ深く、謙遜な思いが来るのだそうです。
悪をもって悪に報いず、侮辱をもって侮辱に報いず、
祝福を受け継ぐために召された者として、祝福を与えていく、その思いが。

私にも、今日。

 

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主のすばらしさを味わい、これを見つめよ

味わい、見よ、主の恵み深さを。
いかに幸いなことか、
御もとに身を寄せる人は。
詩34:9

 イエスの言葉:
わたしは天から降って来た生きたパンである。
このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。
ヨハネ6:51

 Ⅰコリント12:27~13:3
 使徒22:1~21(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句8/10;木)

天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方の恵みの深さを味わい、見なさい、
体験して知りなさいと仰るのですね。
この方に信頼し、この方の御許に身を寄せる者が、いかに幸いであるかを。

〔父である神〕は、私たち一人一人に対する愛とみ恵みによって、
〔御子である神〕を、私たちのいのちのパンとしてこの世に降らせ、
この方を食べて永遠の世界を生きるようにと言われるのだそうです。

パン(食べた物)が、食べた人のからだの中にあって、食べた人のからだとなり、食べた人のからだと一つになり、また、食べた人のからだも、パン(食べた物)によって出来ており、ある意味で、食べた人のからだは、パン(食べた物)と一つであるということができます(ヨハネ6:35~63)。

 

〔父である神〕は、この方を私たちの身代わりにして、私たちのそむきの責任をとらせて、十字架刑で処刑し、私たちが受けるべき刑罰を処刑済みにしてくださり、
エスと一つにしていただいた者(イエスというパンを食べた者)を、イエスの十字架刑での処刑にも合わせてくださって、
「善悪を知る者」になって、天の神、主に対抗する者になっている私たちの〔生まれた時からの私〕という霊を死んだものとしてくださるのだそうです。

 

そして、墓に葬られたイエスが、三日目、日曜日の早朝、死人の中から新しい霊のからだに復活された、その復活にも合わせてくださって、私たちにも、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださり、私たちが新しい霊で生きるようにしてくださるのだそうです。

 

〔父である神〕は、この方によって、ご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを私たちの心に置いてくださるのだそうです。
それで、私たちも、イエスが、自分からは何事もしないで、〔父である神〕の御思いだけをなさっていったように、この方、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心に来た、〔父である神〕の御思いのとおりに生きるようにしてくださり、
私たちも、イエスのように、〔父である神〕と思いを一つにし、心を一つにする者にしてくださるのだそうです。

 

それで、一つのからだに多くの肢体があるように、私たちも、イエスのからだの構成部分としていただけて、
肢体がその人の思いのとおりに動くように、
私たちも、それぞれ、違っていながら、
〔父である神〕の御思いのとおりに動き、〔父である神〕の御思いを実行していく者にしてくださるのだそうです。
そして、さらに、よりすぐれた働きに用いてくださり、ご自身の愛に満ちる者にしてくださるのでだそうす(Ⅰコリント12:27~13:3)。

復活されたイエスが、エルサレムで、イエスの弟子たちを男も女も縛って牢に投じ、死にまで至らせ、さらに、ダマスコにいる者たちを縛り上げ、エルサレムに連れて来て処罰しようと、ダマスコに出かけたサウロに現れ、
迫害者サウロをひっくり返し、イエスによる救いを伝えるイエスの使徒パウロとされたように(使徒22:1~21)。

 

そして、私たちも、復活され、40日に渡って何度も弟子たちに現れて神の国のことを語り、弟子たちの見ている前でオリーブ山から、天の〔父である神〕の右の座、〔御子である神〕の位に帰られたイエスにも合わせてくださって、神の子とし、イエスと栄光を一つにしながら、永遠の世界を生きる者にもしてくださるのだそうですから。

 

〔聖である霊〕と呼ばれる方によってイエスと一つにされ、主の恵みの深さの中に出て行き、
味わい、見るのだそうです。私たちも。

今日も。

 

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天の神、主の知識と英知、“霊”の力に満ちて

知恵を授けるのは主。
主の口は知識と英知を与える。
箴言2:6

 イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。
その評判が周りの地方一帯に広まった。
エスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた。
ルカ4:14~15

 マタイ5:33~37
 使徒21:27~40(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句8/9;水)


 私たちが、神のことばを受け入れ、神のことばを自分のうちにたくわえ、
自分の耳を知恵に傾け、心を英知に向けるなら、
もし私たちが悟りを呼び求め、英知を求めて声をあげ、
銀のように、これを捜し、
隠された宝のように、これを探り出すなら、
そのとき、私たちは、主をおそれることを悟り、神の知識を見いだすようになるのだそうです。
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方が知恵を与え、
御口を通して知識と英知を与えてくださるのだそうですから(箴言2:1~6)。

 

エスは、30歳になる頃まで、ナザレ村で、両親に仕えられ、人々からは父親だと思われていたヨセフの仕事、大工をしながら、普通の人と変わらない生活をしておられたのだそうです。

そして、およそ、30歳の頃、バプテスマのヨハネからバプテスマ(洗礼)を受けられたそのとき、
天が開け、神の“霊”、御霊が鳩のように下って、ご自分の上に来られ、
天から「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という声が告げられたのだそうです(マタイ3:13~17)。

 

それから、御霊に導かれて荒野に上り、40日40夜断食をしたあと、悪魔の試みを受けられたのだそうです。
悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、
「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。
それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです(ルカ4:6)」と、自分を拝むよう誘ったのだそうですが、
エスは、「引き下がれ、サタン。
『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ(申命記6:13)』と書いてある」と聖書のことばをもって答えられ、これを退けられた(マタイ4:1~11)のち、
御霊の力を帯びてガリラヤに帰られたのだそうです。
そして、“霊”、御霊を通して来る、天の神、主の知識と英知によって教えられたのだそうです。

 

 

私たち日本人も、自分の釈明、主張、自分の正しさを人々に分かってもらおうと、
「天地神明に誓って」とか、「神にかけて」とか、言うことがありますが、
エスは言われるのですね。
「決して誓ってはいけません。
『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。
それ以上のことは悪いことです」(マタイ5:33~37)と。


どこまでも、自分の力で自分の正しさを分かってもらおうとしないで、
正しくさばかれる方、
「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」(申命記32:35、ロマ12:19)と仰る方に信頼し、お任せするのが知恵のあるやり方ですよ、ということでしょうか。

 

 使徒パウロも、エルサレムで、誤解によって殺されようとしたときも、自分を殺そうとする人々に対して釈明するときも、「兄弟たちよ。父たちよ」と呼びかけ、
天の神、主に信頼し、結果は天の神、主にお任せしていたようですね(使徒21:27~22:1)。

 

 私たちにも、〔聖である霊〕と呼ばれる方を通して、「神の知識と英知」が来て、

「天の神、主の知識と英知」で、一つ一つのことに向かって行けるのだそうですから。
神の勝利に向かって。

今日も。

 

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「あなたの顔をこちらに向けておくれ」と仰る方が

わたしは、わたしの名を呼ばない民にも、
わたしはここにいる、ここにいると言った。イザヤ書65:1

 僕が、「ご主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります」と言うと、主人は言った。
「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、
この家いっぱいにしてくれ。」
ルカ14:22~23

 ルカ6:27~35
 使徒21:15~26(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句8/8;火)

 

天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
自分を求めようとしない人々にも、「わたしはここにいる、ここにいる」と、
自分のほうに向きなおってほしいと呼びかけ続けておられる方なのだそうです。

 

それはちょうど、ある人が盛大な宴会を催し、大勢の人を招いたよう、なのだそうです。
すっかり準備が出来、時間になったのでたので、招いておいた人々に使いを送り、
「さあ、おいでください。もうすっかり用意が出来ましたから」と言わせたのだそうです。

 

ところが、招かれていた人たちはみな、仕事や結婚を理由に、同じように断り始めたのだそうです。
おこった主人は、「急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい者や、からだの不自由な者や、盲人や、足のなえた者をここに連れて来なさい」としもべに言いつけ、
しもべが「ご主人さま。仰せのとおりにいたしました。
でも、まだ席があります」と言うと、主人は言ったのだそうです。
「街道や垣根のところに出て行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい」(ルカ14:15~23新改訳)と。

 そして、今は、このたとえの話しのように、誰にでも、神の国の宴会に来るようにとの招きがなされているとき、なのだそうです。
 町の大通りや路地、街道や垣根のところから普段着で宴会に行ったからと言って、恥をかくことはないのだそうです。
宴会に行くと、宴会にふさわしい服装が用意されていて、それを与えていただけるのだそうですから(マタイ22:11)。


敵を愛し、自分を憎む者に善を行い、
自分を呪う者を祝福し、自分を侮辱する者のために執り成し祈り、
片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けてやり
上着を奪い取る者には、下着も拒まず、
すべて求める者には与え、奪い取る者からは取り戻さず、
自分にしてもらいたいと望むとおりに、人にもそのようにする、
いと高き方、天の神、主のあわれみ深い心が私たちの心にも来るようにもしていただけて(ルカ6:27~35)、いと高き方の子どもにふさわしい品性を与えていただけるのだそうですから。

今日も。

 

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奥義と秘義を現し、御思いを思い起こさせてくださる方によって

神は奥義と秘義を現す。ダニエル書2:22

 

弁護者、
すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、
あなたがたにすべてのことを教え、
わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。
ヨハネ14:26

マタイ7:7~12
 使徒21:1~14(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句8/7;月)

神は奥義と秘義を現される方。
人間の理性では計り知れない深い、隠されていることを現してくださる方なのだそうです。

私たちが「知識のことば」と呼んでいる〔聖である霊〕と呼ばれる方の働きの現れの一つがありますが、
私たちの分かるはずのないことも私たちの心の思いに思い浮かばせてくださる方なのですね。

バビロンの王ネブカデネザルが、いくつかの夢を見、そのために心が騒ぎ、眠れなくなったとき、
国中の呪法師、呪文師、呪術師、バビロンの知者を呼び寄せて、
自分の見た夢とその解き明かしを知らせるよう求め、
「もし、あなたがたがその夢とその解き明かしを私に知らせることができなければ、あなたがたの手足を切り離させ、あなたがたの家を滅ぼしてごみの山とさせる。
しかし、もし夢と解き明かしとを知らせたら、贈り物と報酬と大きな光栄を私から受けよう。
だから、夢と解き明かしを私に知らせよ」と命じられたとき、
バビロンの知者たちは、「王のお尋ねになることは、むつかしいことです。
肉なる者とその住まいを共にされない神々以外には、それを王の前に示すことのできる者はいません」と答えるしかなく、
王は、怒り、大いにたけり狂い、バビロンの知者をすべて滅ぼせと命じたのだそうです。

それで、ダニエルたちも殺されることになったのですが、ダニエルとユダヤから一緒に捕囚として連れて来られていた3人の同僚は、天の神のあわれみを請い願ったのだそうです。
そのとき、夜の幻のうちにこの秘密がダニエルに啓示されたので、ダニエルは王の前に出て、
「天に秘密をあらわす一人の神がおられ、この方が終わりの日に起こることをネブカデネザル王に示されたのです。あなたの夢と、寝床であなたの頭に浮かんだ幻はこれです」と、王の見た夢を示し、
天の神、主がネブカデネザル王に夢で示した、この世界史の中で、ネブカデネザル王にから始まって起こり、ギリシャローマ帝国に至る4つの国のこと、
そして、この世の終わりに起こる永遠の国のことを解き明かしたのだそうです。

それで王は、「あなたがこの秘密をあらわすことができたからには、まことにあなたの神は、神々の神、王たちの王、また秘密をあらわす方だ」と答え、
ダニエルを高いくらいにつけ、
彼にバビロン全州を治めさせ、
また、バビロンのすべての知者たちをつかさどる長官とした(ダニエル2章)のだそうです。



天の〔御子である神〕の栄光の座を後にして、「女の子孫」(創世記3:15)として人の世に降り、私たちに代わって、私たちのそむきの責任をご自身に負って十字架刑での処刑を受けてくださって、贖いの業を完成させ、墓に葬られ、三日目に死者の中から新しいからだに復活し、40日に渡って、何度も弟子たちに現れ、神の国について語った後、弟子たちのみている前で、オリーブ山から、天の、〔父である神〕の右の座に帰られたイエス

〔父である神〕が、そのイエスを通して、私たちに派遣してくださる弁護者、もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方は、このダニエルの時のように、奥義と秘義をあらわしてくださる方、
すべてのことを教え、イエスが弟子たちに話したこと、〔父である神〕の御思いを思い起こさせ、心に置いてくださるのだそうです。

だから、「わたしと心を一つにして生きるようになるために、この方を、求め続けなさい、捜し続けなさい、門をたたき続けなさい」と言われるのですね。
求める者は受け、探す者は見つけ出し、門をたたく者は開けてもらえるのだそうですから(マタイ7:7~8)。

 

パウロは、この方、〔聖である霊〕と呼ばれる方の導きに従って、周りの者たちが止めるの振り切ってエルサレムに上り(使徒21:1~14)、
預言のことばのとおりに、捕らえられ、カイザリアでの2年の獄中生活の後(使徒24:27)、
ローマに護送され、ローマ皇帝の裁判において、ローマ皇帝とその側近、元老院の議員たちの前でイエスを証しすることとなり(ルカ21:12~15)、
皇帝の親衛隊のすべてにもイエスのことが伝わることになったのだそうです(ピリピ1:12~14)。

〔聖である霊〕と呼ばれる方は、受け入れる者のうちに来て、奥義と秘義をあらわし、
〔父である神〕が一人一人を通してしようと思っていらっしゃる御思いを、心に置いてくださるのだそうですから(エゼキエル36:25~28)。
今日も。



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