風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

多く与えられた者は、多く求められる、のだそうですから

天は主のもの、地は人への賜物。詩115:16


 多く与えられた者は、多く求められる。ルカ12:48


 申命記26:1~11
 民数記23:13~30(通読箇所)
    (ローズンゲン日々の聖句9/18;月・祝)

天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、私たちが住んでいる、この天と地、宇宙を、ご計画をもって創造された方なのだそうです。
これを茫漠としたものに創造せず、人の住みかにこれを形造られ(イザヤ45:18)、
私たち人間に賜(たまわ)ったのだそうです。

多く与えられた者は、多く求められるのだそうですが、
それだけ、私たち人間に対する期待が大きいということなのでしょうね。

天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、モーセをとおして、約束の地を目の前にしたイスラエルの民に重ねて言われます。
「あなたの神、が相続地としてあなたに与えようとしておられる地に入って行き、それを占領し、そこに住むようになったときは、
あなたの神、が与えようとしておられる地から収穫するその地のすべての産物の初物をいくらか取って、かごに入れ、あなたの神、が御名を住まわせるために選ぶ場所へ行かなければならない。
そのとき、任務についている祭司のもとに行って、
『私は、が私たちに与えると先祖たちに誓われた地に入りました。
きょう、あなたの神、に報告いたします』と言いなさい。

 あなたは、あなたの神、の前で、次のように唱えなさい。
『私の父は、さすらいのアラム人でしたが、わずかな人数(70人、創世記46:27)を連れて、エジプトに下り、
そこに寄留しました。
しかし、そこで、大きくて強い、人数の多い国民(徒歩の壮年の男子だけで約60万人、出エジプト12:37)になりました。

 エジプト人は、私たちを虐待し、苦しめ、私たちに過酷な労働を課しました。
私たちが、私たちの父祖の神、に叫びますと、は私たちの声を聞き、
私たちの窮状と労苦と圧迫とご覧になりました。

 そこで、は力強い御手と、伸べられた腕と、恐ろしい力と、しるしと、不思議とをもって、私たちをエジプトから連れ出し、この所に導き入れ、乳と蜜の流れる地、この地を私たちにくださいました。
今、ここに私は、、あなたが私に与えられた地の産物の初物を持ってまいりました。』

 あなたは、あなたの神、の前にそれを供え、あなたの神、の前に礼拝しなければならない。
あなたの神、が、あなたとあなたの家とに与えられたすべての恵みを、
あなたは、レビ人(神に直接仕える部族として、土地は与えられなかった)
およびあなたがたのうちの在留異国人とともに喜びなさい」(申命記26:1~11)と。


それで、モアブの王バラクが、目の前まで来たイスラエルを呪おうと、
ユーフラテス河畔のペトルから、占い師バラムを呼び寄せた時も、
天の神、は、バラクから多くの報酬を差し出されて心動くバラムが、イスラエルを呪うことを許さず、
かえって、祝福の言葉を述べるよう導かれたのだそうです(民数記23:13~30)。

 

 

 天の神、、「『私はある』という者」と名乗られる方は、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」(創世記3:5、22)になっていて、「的外れ」になっている私たちをも、なお、愛し、惜しんでくださって、
〔御子である神〕、イエスの十字架刑での処刑を通して来て下さる、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
私たちの心にご自身の御思いを置いてくださって、
私たちを、「われわれのかたちとして、われわれに似せた」ものに回復して、
ご自身と思いを一つにし、行動を一つにし、存在を一つにする者(ヨハネ17:21~24)とし、
御思いを受けて、御思いと一つ心になって、各自に与えられた能力、分に応じて、この地を統治していくように(創世記1:26)、と期待してくださっているのですね。
今日も。

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

 

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]

「パパ。お父さん」と呼んでいいのだそうです。私たちも。

焦って口を開き、
心せいて、神の前に言葉を出そうとするな。
神は天にいまし、あなたは地上にいる。
言葉数を少なくせよ。
コヘレト5:1

 主よ。私たちにも祈りを教えてください。ルカ11:1

 ユダ書1~2、20~25
 民数記23:1~12(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句9/16;土)

伝道者は言います。
「神の宮に行くときには、自分の足に気をつけよ。
近寄って聞くことは、愚か者がいけにえをささげるのにまさる。
神の前では、軽々しく、心あせって言葉を出すな。
神は天におられ、あなたは地にいるからだ。
だから、ことば少なくせよ。
神に誓願を立てるときには、それを果たすのを遅らせてはならない。
誓ったことを果たせ。
誓って果たさないよりは、誓わないほうがよい」(伝道〔コヘレト〕の書5:1~5新改訳)と。


祈りを教えてくださいという弟子に、イエスは言われました。
「祈るときには、こう言いなさい。
『父よ。御名があがめられますように。
御国が来ますように。
私たちの日ごとの糧(かて)を毎日お与えください。
私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。
私たちを試みに会わせないでください。』」(ルカ11:1~4新改訳)と。

 

 

エスが、ご自身に私たちの「的外れ」の責任を負って、
私たちに代わって十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている(創世記3:5、22)、
私たちの〔生まれた時からの私〕という霊を処刑済みのもの、死んだものとしてくださるのだそうです。
 そして、イエスに代わって来て下さる、〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
私たちに、〔神の子〕の身分を与えてくださのだそうです(ヨハネ1:12~13、ロマ8:13~17)。

 

そして、〔父である神」が私たち一人一人に思っていてくださる御思いを私たちの心に置いてくださるので、
その御思いを自分の思いとして生きる者は、〔父である神〕を「父よ」と呼んで、
愛されている子どもの立場でお話ししなさいと言われるのですね。

 

 

マリヤとヨセフの息子であるユダは書き送っています。
「父なる神にあって愛され、イエス・キリストのために守られている、召された方々へ。
愛する人々よ。あなたがたは、自分の持っている最も聖い信仰の上に自分自身を築き上げ、
聖霊によって祈り、
神の愛のうちに自分自身を保ち、
永遠のいのちに至らせる、私たちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい」(ユダ1:1、20~21)と。

 

 

エジプトから出て来て、
今、自分の国の目の前、モアブの草原にいるイスラエルの民を呪ってもらおうと、
モアブの王バラクは、ユーフラテス河畔のベトルにいる占い師バラムを招いたのだそうです(民数記22章)。

しかし、バラムは、天の神、主から、
「あなたの思いはわたしとは反対に向いている。
ただ、わたしが告げることばだけを告げよ」との強い警告を受けて(民数記22:31~35)、
天の神、、「わたしはあるという者」と名乗られる方がバラムの口に置かれたことばを伝えたのだそうです。

「バラクは、アラムから、モアブの王は、東の山々から、私を連れて来た。
『来て、私のためにヤコブをのろえ。
来て、イスラエルに滅びを宣言せよ。』
神が呪わない者を、私がどうしてのろえようか。
が、「わたしはある」と名乗られる方が滅びを宣言されない者に、私がどうして滅びを宣言できようか。
岩山の頂から私はこれを見、丘の上から私はこれを見つめる。
見よ。この民はひとり離れて住み、おのれを諸国の民の一つと認めない。
だれがヤコブのちりを数え、イスラエルのちりの群れを数ええようか。
私は正しい人が死ぬように死に、私の終わりが彼らと同じであるように」(民数記23:7~10)と。

 

 

エスは、ご自身、全知、全能、永遠不変の方でありながら、
〔父である神〕への愛と尊敬のゆえに、自由意思で、自発的に、
「わたしはわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話している」(ヨハネ8:28)方、
〔神のことば〕の立場に(ヨハネ1:1~2)ご自身を置いておられる方なのだそうです。

 私たちも、「神の子」の身分を与えていただいて
「父よ」と呼び、
いよいよ、イエスに似たものに、
〔父である神〕を愛する者にしていただいて、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いに、
自由意思で、自発的について行く者に、
〔父である神〕がしようと思われることをしていく者にしていただけるのだそうですから。
今日も。

 

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

 

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]

真夏の日照りの中での、冷たい水の川のように

遠くから流れる冷たい水が涸れることがあろうか。
しかし、わたしの民はわたしを忘れた。エレミヤ書18:14~15

 見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。
だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、
わたしは中に入ってその者と共に食事をし、
彼もまた、わたしとともに食事をするであろう。
黙示録3:20

 ヤコブ書2:5~13
 民数記22:21~41(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句9/15;金)

イスラエル地方には「わじ」と呼ばれる、雨が降ったときにだけ水が流れ、普段は水のない川があるのだそうです。
けれども、遠くから、レバノン山から流れて来る雪解け水の川が涸れることはないのだそうです。

その「わじ」のように、ご自分の民、イスラエルの人々はわたしを忘れ、
周辺の国々の神々に香をたいている、と
天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は嘆いておられるようです。


〔御子である神〕の、天での栄光の位を後にして、人として、人の世に降られた方イエス
30歳のころまで、ナザレという小さな片田舎の村で貧しい大工として親に仕えられ、
バプテスマのヨハネの活動を契機に、3年半ほどの、キリスト(救い主)としての活動をされた後、
私たち、すべての人間の「的外れ」の責任をご自身の身に負って十字架刑での処刑を受けられた方。

 墓に葬られ、三日目の日曜日の早朝、死人のうちより新しい霊のからだによみがえり、
40日に渡って弟子たちに何度も現れ、神の国のことを語った後、
オリーブ山から、弟子たちの見守る中で、天の、〔父である神〕の右の座に帰られたイエス(使徒1:2~11)。

 その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、
その目は、燃える炎のようであり、
その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、
その声は大水の音のよう、顔は強く照り輝く太陽のようである方(黙示録1:14~15)。
そのイエスが言われるのだそうです。
「わたしは、あなたの心の戸口に立って、あなたの心の戸をノックしている」と。
「わたしの声を聞いて、ドアを開けてくれたら、わたしは、中に入って、あなたといっしょに食事をしたい」と。

「だれでも」なのだそうです。
金持ちだからとか貧しいからとか、立派な人だからとかみすぼらしい人だとかでのえこひいきなしで、
分けへだてなしで(ヤコブ2:5~9)、「だれでも」なのだそうです。

このイエスのお心を受けて、このイエスから派遣されて、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が来下さるのだそうです。
日照りの暑さの中にあって、遠くから流れて来る、涸れることのない冷たい水の川のように、
涸れる(中断する)ことなく、受け入れる者のうちに来て下さり、
私たちを上からおおってくださるのだそうです。

 

楽しい食事の語らいの中で、お互いの思いが分かり合えて、心が一つになるように、
受け入れる者の心に〔父である神〕の御思いがあるようにしてくださり、
私たちの思いが〔父である神〕の思いの中にあるようにしてくださって、
私たちを、〔父である神〕と思いを一つにしていく者に(ヨハネ17:21~23)してくださるのだそうです。

 

 そして、私たちが、迷い出て、〔父である神〕のお心を求めず、
自分の理性による善し悪しの判断で、自分の思いのとおりにしていこうとするとき、
立ちふさがって、「わたしのことば(思い)と一つになろうよ」と、
〔父である神〕に向き直らせてくださるのだそうです。

あの、バラムの時のように(民数記22:21~41)。

 

 「わたしがあなたをわたし自身のように愛しているから、
あなたも、あなたの隣り人をあなた自身のように愛するようになるよ」と(ヤコブ2:8)。
今日も。

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

 

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]

すべてのことに、「神の時」があるのだそうですから

私の時はあなたの御手にあります。(詩31:15口語訳)

 目を覚まし、身を慎んでいましょう。Ⅰテサロニケ5:6

 使徒4:32~37
 民数記22:1~20(通読箇所)
    (ローズンゲン日々の聖句9/14;木)

詩篇の作者は言います。
(「わたしはある」という者と名乗ら得る方)よ。
私はあなたに信頼しています。
私は告白します。
『あなたこそ私の神です。
私の時は、御手の中にあります。
私を敵の手から、また追い迫る者の手から、救い出してください。
御顔をあなたのしもべの上に照り輝かせてください。
あなたの恵みによって私をお救いください』」(詩篇31:14~16新改訳)と。


私たちは、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっていて(創世記3:5、22)、
自分で生きており、自分で事を決め、事を進められるように思っています。
けれども、それは、全部、神の用意してくださっているもの、神の備えの中にあってのことであり、
「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。
生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。
植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。
殺すのに時があり、いやすのに時がある。
崩すのに時があり、建てるのに時がある。
 ~~ 
神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道の書3:1~11新改訳)のだそうです。

私たちの努力が実を結ぶのも、全部、神の備えの中の出来事であり、
ことが成るのに、また、神が私たちの祈りに応えられるのに、神の時があるのだそうですね。


天の神、主、「わたしはあるという者」と名乗られる方は、
「わたしはアルファ(α)であり、オメガ(ω)である。
初めであり、終わりである」(黙示録22:13)と言われる方なのだそうです。

 「わたしが天と地を創造した」と主張される方、
この世、この人間の歴史を始めた方であり、終わらせる方。
今の天と地を、火によって過ぎ去らせ(Ⅱペテロ3:7)、
新しい天と地とを始められる方(黙示録21章)なのだそうです。


今から2000年ほど前に、エルサレムで十字架刑で処刑され、墓に葬られたイエスは、
三日目の日曜日の早朝、死人の中から新しいからだに復活し、
40日に渡って弟子たちに何度も現れて神の国のことを語り、
オリーブ山から、弟子たちの見ている前で、
天の、父である神の右の座に帰られたのだそうです(使徒1:3~11)。

そのイエスが、「号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られる」のだそうです。

その時、「キリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に、生き残っている私たちが、
(今のからだを新しい霊のからだに取り換えられてⅡコリント5:1~4)、
たちまち彼らといっしょに雲の中に引き上げられ、空中で主イエスと会い、
私たちはいつまでも主イエスとともにいることになるのだそうです(1テサロニケ5:16~17)。


 そして、そのイエスが、今度は王として、再び、オリーブ山に立たれる時(ゼカリヤ14:4~5、使徒1:11)が来るのだそうです。
その時、イエスの恵みによる救いを受け取った大勢の人々も、主イエスとともに来るのだそうです。

 

 

そのような、神の時があるのだから、自分一人で生きていけているような気になって、この世のことに気を取られて、神の時のことを忘れてしまうことがないよう、天の神、主の御顔を仰ぎ、この方との関係を深めながら生きていくように、ということのようですね。

最初の、エルサレムの、イエスを信じた者の群れが、神と、そして、信じた者同士が、心と思いを一つにしていたように(使徒4:32)、また、異教の占い師、ユーフラテス川河畔のベトルにいるバラムでさえもが、モアブの王バラクから、イスラエルを呪うよう、高額の報酬をもって招かれたときにも、行くかどうかを、天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方に相談して決めたように。
 私たちも、今日という時に、神がしようと思っておられることをお聞きしながら。
今日も。

 

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

 

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]

真理を知り、自由な者へと

主の言葉:
わたしはあなたを目覚めさせ、行くべき道を教えよう。
あなたの上に目を注ぎ、勧めを与えよう。詩32:8

 イエスの言葉:
わたしの言葉にとどまるならば、
あなたたちは本当にわたしの弟子である。
あなたたちは真理を知り、
真理はあなたたちを自由にする。
ヨハネ8:31~32

 申命記24:(10~13)17~22
 民数記21:21~35(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句9/13;水)

わたしが、行くべき道を教え、勧めを与えるから、
あなたがたは、悟りのない馬や騾馬(らば)のようであってはならない。
それらは、くつわや手綱の馬具で押えられなければ、あなたに近づかない(詩篇32:9)、
と天の神、主は言われるのですね。

 天の神、主は、私たちが、馬のように手綱で強制されて、ではなく、
私たちが、愛と尊敬によって、自由意思で、自発的にご自分の御思いと思いを一つにしてくれることを願っておられる方なのだそうです。

 人となられた御子である神であるイエスご自身が言っておられます。
「あなたがたが人の子(イエスご自身のこと)を上げてしまう(十字架に架けて)と、その時、
あなたがたはわたしが何であるか、
また、わたしが私自身からは何事もせず、
ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります」(ヨハネ8:28)と。

そして、続けて言われるのですね。
「もしあなたがたが、わたしのことばにとどまるなら、」と。

エスご自身が、ご自身は全知、全能、永遠不変の方でありながら、
父である神を愛しておられる、その愛において、
ご自分の自由意思で、自発的に、
父である神の御思いの中に留まり、
話すことばの一言一言においてさえ、父である神の御思いのとおりを話しておられるように、
私たちも、愛と尊敬のゆえに、自由意思で、自発的に、イエスの御思いに留まってほしいと。
自分の思いにとらわれない自由な者になってほしいと。

天の神、主は、モーセをとおして言われました。
「在留異国人や、みなしごの権利を侵してはならない。
やもめの着物を質に取ってはならない。
思い起こしなさい。あなたがたがエジプトで奴隷であったことを。
そしてあなたがたの神、(「わたしはある」という者と名乗られる方)が、そこからあなたがたを贖い出されたことを。
 だから、私はあなたがたにこのことをせよと命じる。
あなたがたは畑で穀物の刈り入れをして、束の一つを畑に置き忘れたときは、
それを取りに戻ってはならない。
それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。
あなたの神、が、あなたのすべての手のわざを祝福してくださるためである。
 あなたがオリーブの実を打ち落とすときには、後になってまた枝をうってはならない。
それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。
ぶどう畑のぶどうを収穫するときには、後になって、またそれを摘み取ってはならない。
それは、在留異国人や、みなしご、やもめのものとしなければならない。
あなたがたは、自分がエジプトの地で奴隷であったことを思い出しなさい。
だから、私はあなたにこのことをせよと命じる」(申命記24:17~22新改訳)と。


私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっていて、
天の神、主よりも、自分の善悪の判断を上に置く者であって、
善い者の全部を独占しようとする性格を持っていますが、
その、〔生まれた時からの私〕という霊は、イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて死んだものとしていただき、
エスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
この方によって〔父である神〕の、この御思いにも、同じ思いを思うようにしていただくことができるのだそうです。
エスが、わたしのことばに留まって、自由になってほしいと言われているように。

今日も。

 

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

 

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]

神の助けをいただいて、御思いを実現していく者に

恐れるな、わたしはあなたを贖う。
あなたはわたしのもの。
わたしはあなたの名を呼ぶ。
イザヤ書43:1

 私は神からの助けを
今日までいただいて来ました。
使徒26:22

 アモス書5:4~15
 民数記21:4~9(通読箇所)
    (ローズンゲン日々の聖句9;12)

 

天の神、主、「わたしはある」(I AMTHAT I AM)(出エジプト3:14)と名乗られる方が、イザヤをとおして言われるのですね。

「だが、今、ヤコブよ。
あなたを造り出した方、はこう仰せられる。
イスラエルよ。あなたを形造った方、はこう仰せられる。

「恐れるな。わたしがあなたを贖(あがな)ったのだ。
わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。
あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、
川を渡るときも、あなたは押し流されない。
火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。
わたしがあなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。
わたしは、エジプトをあなたの身代金とし、クシュとセバをあなたの代わりとする。
わたしの目には、あなたは高価で尊い
わたしはあなたを愛している」(イザヤ43:1~4新改訳)と。

その、天の神、主の愛の中にあって、助けと守りによって、今日まで、イエスを証しして来たと
パウロは言うのですね。

 また、アモスをとおしても言われます。

「わたしはある」という者、わたしを求めて生きよ。
すばる座やオリオン座を造り、
暗黒を朝に変え、昼を食らい夜にし、
海の水を呼んで、これを地の面に注ぐ方。
その名は(「わたしはある」という者)。
主は強い者を踏みにじり、要塞を破壊する。
彼らは門で戒めを与える者を憎み、正しく語る者を忌みきらう。
あなたがたは貧しい者を踏みつけ、彼から小作料を取り立てている。
それゆえあなたがたは切り石の家々を建てても、その中に住めない。
美しいぶどう畑を作っても、その酒を飲めない。
わたしは、あなたがたのそむきの罪がいかに多く、あなたがたの罪がいかに重いかを知っている。
あなたがたは正しい者をきらい、まいないを取り、門で貧しい者を押しのける。
それゆえ、このようなときには、賢い者は沈黙を守る。
それは時代が悪いからだ。

善を求めよ。悪を求めるな。そうすれば、あなたがたは生き、
あなたがたが言うように、万軍の主が、あなたがたとともにおられよう。
悪を憎み、善を愛し、門で正しいさばきをせよ。
万軍の神、、「わたしはある」という者と名乗られる方は、
もしや、ヨセフの残りの者をあわれまれるかもしれない」(アモス5:4、8~15新改訳)と。


イスラエルの民は、ホル山から、エドムの地を迂回して、葦の海の道に旅立ったのですが、
途中で我慢できなくなり、またも、神とモーセに逆らって言ったのだそうです。
「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、この荒野で死なせようとするのか。
パンもなく、水もない。私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした」と。

そこでは民の中に燃える蛇を送られたので、蛇は民にかみつき、
イスラエルの多くの人が死んだのだそうです。
は、モーセに仰せられたのだそうです。
「あなたは燃える蛇を作り、それを旗ざおの上につけよ。
すべてかまれた者は、それを仰ぎ見れば、生きる」と。
そして、蛇にかまれた人が、モーセが造った青銅の蛇を仰ぎ見ると、生きた(民数記21:4~9)のだそうです。


私たちも、私たちの贖い(買い戻し)の代金として、ご自身のいのちを差し出し、
十字架の上に架けられたイエスを仰ぎ見ると、生きるのだそうです。
エスのいのちによって買い戻され、神のものとなることを受け入れ、認めて、
三日目に、死人のうちより復活し、天の、〔父である神〕の右の座に帰られたイエスが派遣されるもう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、
この方、〔聖である霊〕と呼ばれる方が、心に置かれる、
私たち一人一人に対する〔父である神〕の御思いを受け入れ、

〔父である神〕と思いを同じにし、心を一つにして、
神の助けの中で生きるようになることができるのだそうですから。
神の子、家族の一員としていただいて。
今日も。

 

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

 

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]

私たちの、咎を除き、罪を赦し、債務証書を破棄して、新しく生きる者へと

貴方の様な神がほかにあろうか、
咎を除き罪を赦される神が。
神はご自分の嗣業の民の残りの者に永久に怒りを保たれる事はない。
神は慈しみを喜ばれる故に。
ミカ7:18

 神は規則によって私たちを訴えて不利に陥れていた証書を
破棄し、
これを十字架に釘付けにして取り除いてくださいました。コロサイ書2:14


 マタイ12:1~8
 民数記20:22~29(通読箇所)
    (ローズンゲン日々の聖句9/11;月)

パウロは言います。
「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。
肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。
あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、
また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、
キリストとともによみがえらされたのです。

あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、
神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。
それは、私たちのすべての罪を赦し、いろいろな定めのために私たちに不利な、
いや、私たちを責め立てている債務証書を無効にされたのです。
神はこの証書を取りのけ、十字架に釘づけにされました」(コロサイ2:11~14)と。

 慈しみを喜ばれる神は、その熱情と熱心をもって、私たちの咎を除き、罪を赦そうとされたのだそうです。
〔御子である神〕が、天の栄光の座を後にして、
人間、「女の子孫」(創世記3:15)として人の世に降り、
およそ33歳のころ、神に反逆した者として、十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。
〔父である神〕は、その全能の御力をもって、
この方、イエスを、三日目、日曜日の早朝、死者の中からよみがえらされたのだそうです。
この方は、40日に渡って何度も弟子たちに現れて神の国のことを語った後、
弟子たちの見ている前で、オリーブ山から天に上げられ、
〔父である神〕の右の座に帰られたのだそうです。

 〔父である神〕は、受け入れる者を、このイエスに合わされたもの、イエスの中にいるものとして、
エスの十字架刑の処刑に合わせて処刑されたもの、死んだものと手続してくださるのだそうです。

そして、イエスは、その、〔父である神〕の右の座にあって、もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣され、
この方によって受け入れる者の心に、〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思いを置き、
受け入れる者が、〔父である神〕と心と思いを合わせて生きるようにしてくださるのだそうです。

それで、この、イエスによってなされた神の御業を受け取る者は、咎を除き去られ、罪を赦され、
私たちを責め立てる債務証書を破棄された者としていただき、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、心を一新していただいて(ロマ12:1~2)、
新しく生きる者(ヨハネ3:1~8)にしていただけるのだそうです。

出エジプトを果たし、40年の荒野での生活を終えて、いよいよ約束の地に入る、その手前のホル山で、モーセが、神の言われるとおりに、アロンに大祭司の衣服を脱がせて、その子エルアザルに着せ、
アロンはホル山の頂で死に、エルアザルに交代したように(民数記20:22~29)。

エスの十字架刑での処刑に合わせていただいて死に、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって新しく生まれた者は、
旧い律法解釈、安息日の規定(マタイ12:1~8)や食べ物と飲み物について、「すがるな。味わうな。さわるな」というような定めから解放されるのだそうです(コロサイ2:21)。

そして、安息日の主であり、「わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない」と言われる方(マタイ12:7~8)、
モーセをとおして律法を与えられた方の御思いによって生きるのだそうです。

〔父である神〕は、私たちを通してしようと思っておられることがあるのだそうですから。
今日も。

 

[にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ]

 

[https://blog.with2.net/link/?1470390人気ブログランキングへ]