風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

救いの衣、恵みの晴れ着を着せていただいて

私の魂は私の神にあって喜び躍る。
主は救いの衣を私に着せ、
恵みの晴れ着をまとわせてくださる。
イザヤ書61:10

 イエスの言葉:
今飢えている人々は、幸いである。
あなたがたは満たされる。
今泣いている人々は、幸いである。
あなたがたは笑うようになる。
ルカ6:21

 ヘブル書12:1~3
 ルカ17:11~19(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句10/13;金)

 天の神、主が、ご自身の側において、イエスによって、
私たちが大いに楽しみ、喜び躍るようにしてくださっているのだそうです。
わたしたちに救いの衣を着せ、
恵みの晴れ着、正義の外套をまとわせ、
花婿のように栄冠をかぶらせ、
花嫁のように宝玉で飾ってくださるのだそうですから。

園が蒔かれた種を芽生えさせるように、
神である主が義を賛美とを、
すべての国の前に芽生えさせてくださる、のだそうですから。

だから、今、飢えている人、おなかをすかしている人は幸いだ、
今、泣いている人は幸いだとイエスは仰るのですね。

そのままで、イエスを見上げていけば、
エスご自身で、
私たちを、満ち足りるように、
笑いで満ちるようにしてくださるのだそうですから。

そして、それを経験した多くの人たちが、証人として、
私たちを雲のように取り巻いているのだそうですから。

 だから、私たちも、いっさいの重荷と、まとわりつき、からまりついて来る罪とを、
自分で何とかしようとしないで、
父である神と御子イエスの御前に、
投げ出し、かなぐり捨てていけばいいのだそうです。

罪が出て来るたびに、心に罪を感じるたびに、
父である神を、信仰の創始者であり完成者である、御子イエわスを見上げて、
その御前にかなぐり捨て、受け取ってもらうといいのだそうです(ヘブル12:1)。

エスに出会った10人のツァラート(ハンセン病)の人が、遠く離れた所から、
「イエスさま、どうぞあわれんでください」と叫んだように。

そして、いやされて、
そのうちのひとりの外国人は、神をほめたたえ、あがめて、
エスのところに帰って来て(ルカ17:11~19)、
エスとともに歩んだように。


 私たちも。
 今日も。

 

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将来と希望、栄光の望みを

わたしはあなたがたのために立てた計画を心に留めている、
と主は言われる。
それは平和の計画であって、災いの計画ではない。
将来と希望を与えるものである。
エレミヤ書29:11

 

神はこの計画が
異邦人にとって栄光に満ちたものである事を、
知らせようとされました。
その計
画とは、あなたがたのうちにおられるキリスト、
栄光の希望です。
コロサイ書1:27~28

 使徒5:34~42
 ルカ17:1~10(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句10/12;木)

エレミヤは、エルサレムからバビロンへ引かれていった捕囚の民に、
エルサレムから手紙をかき送ったのだそうです。
イスラエルの神、万軍の主は、こう仰せられる。
エルサレムからバビロンへわたしが引いて行かせたすべての捕囚の民に、
家を建てて住みつき、畑を作って、その実を食べよ。
妻をめとって、息子、娘を生み、
あなたがたの息子には妻をめとり、娘には夫を与えて、
息子、娘を産ませ、そこでふえよ。減ってはならない。
わたしがあなたがたを引いて行ったその町の繁栄を求め、そのために主に祈れ。
そこの繁栄は、あなたがたの繁栄になるからだ。』

まことに、主はこう仰せられる。
「バビロンに70年の満ちるころ、わたしはあなたがたを顧み、
あなたがたにわたしの幸いな約束を果たして、あなたがたをこの所に帰らせる。
わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。
 ――主の御告げ――
それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、
あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。
あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、
わたしはあなたがたに聞こう。
もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、
わたしを見つけるだろう。
 ――主の御告げ――
わたしは、あなたがたの繁栄を元どおりにし、
わたしがあなたがたを散らした先のすべての国々と、すべての場所から、あなたがたを集める。
 ――主の御告げ――
わたしはあなたがたを引いて行った先から、あなたがたをもとの所へ帰らせる」(エレミヤ29:4~14新改訳)。


パウロは、コロサイの信徒に書き送っています。

「私は、あなたがたのために神からゆだねられた務めに従って、教会に仕える者となりました。
神のことばを余すところなく伝えるためです。
これは、多くの世代にわたって隠されていて、
いま神の聖徒たちに現された奥義(計画)なのです。
神は聖徒たちに、この奥義(計画)が異邦人の間にあって
どのように栄光に富んだものであるかを、
知らせたいと思われたのです。

この奥義(計画)とは、あなたがたの中におられるキリスト、栄光の望みのことです。
私たちは、このキリストを宣べ伝え、
知恵を尽くして、あらゆる人を戒め、あらゆる人を教えています。
それは、すべての人を、キリストにある成人(完全な者)として立たせるためです」(コロサイ1:25~28)。


律法学者ガマリエルは言っています。
「その計画や行動が人から出たものならば、自滅してしまうでしょう。
しかし、もし神から出たものならば、
あなたがたは彼らを滅ぼすことはできないでしょう」(使徒5:38~39)と。

 そして、この2000年、多くの権力によって、あるいは、学問によって迫害、攻撃され、滅ぼされようとしながら、この、人が、神の民イスラエルだけでなく、異邦人の私たちも、キリストの中にあって、成人(完全な者)にしていただける、という計画は、滅ぼされることなく、21世紀の私たちにも働いているのですね。

この世の、具体的な生活の中で、
自分が、「役に立たないしもべ」だと、自覚し、認めて(ルカ17:10)、
エスの十字架刑での処刑を自分の処刑としていただき、
エスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
この方が、心に置いてくださる〔父である神〕の御思いと思いを一つにして、
本当の故郷、天の御国に帰るその日を待ち望みながら、
しっかりと、足を地につけて生きるようにと。
今日も。

 

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驚くべき御業を、私たちのために

彼らは、海に船を出し、大海を渡って商う者となった。
彼らは深い淵で主の御業を、驚くべき御業を見た。
主に感謝せよ。
主は慈しみ深く、
人の子らに驚くべき御業を成し遂げられる。
詩107:23、24、31

 実際、神は
私たち一人一人から遠く離れてはおられません。
使徒7:27

 ルカ7:1~10
 ルカ16:19~31(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句10/11;水)

 

詩篇の作者はうたいます。
 船に乗って海に出る者、大海で商いをする者、

彼らは主のみわざを見、

深い海でその奇しいわざを見た。

主が命じてあらしを起こすと、風が波を高くした。

彼らは天に上り、深みに下り、

そのたましいはみじめにも、溶け去った。

彼らは酔った人のようによろめき、

ふらついて分別が乱れた。

この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、

主は彼らを苦悩から連れ出された。

主があらしを静めると、波はないだ。

波がないだので彼らは喜んだ。

そして主は、彼らをその望む港に導かれた。
彼らは、主の恵みと、

人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ(詩篇107:23~31新改訳)、と。


使徒パウロは、アテネのアレオパゴスでエピクロス派やストア派の哲学者たちに語ったのだそうです。
「この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、
手でこしらえた宮などにはお住みになりません。
また、何かに不自由なことでもあるかのように、
人の手によって仕えられる必要はありません。
神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです。
神は、ひとりの人からすべての国の人々を造り出して、地の全面に住まわせ、
それぞれに決められた時代と、その住まいの境界とをお定めになりました。
これは、神を求めさせるためであって、
もし探り求めることでもあるなら、神を見いだすこともあるのです。
確かに、神は、私たちひとりひとりから遠く離れてはおられません。

私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです。

 ですから、神を、人間の技術や工夫で造った金や銀や石などの像と同じものと考えてはいけません。

神は、そのような無知の時代を見過ごしておられましたが、
今は、どこででもすべての人に悔い改め(方向転換)を命じておられます。

なぜなら、神は、お立てになったひとりの人(イエス)により、
義をもってこの世界をさばくため、日を決めておられるからです。
そして、その方(イエス)を死者の中からよみがえらせることによって、
このことの確証をすべての人にお与えになったのです」(使徒17:16~31)、と。

 

 

 イエスが、ガリラヤのカペナウムの町に入られたとき、
ローマ軍の百人隊長が、イエスのもとにユダヤ人の長老たちを送り、
病気で死にかけている自分のしもべを助けに来て下さるよう、お願いしたのだそうです。

 それで、イエスは彼らといっしょに行かれたのだそうですが、
この百人隊長は、友人たちを使いに送って、イエスに伝えたのだそうです。
「主よ。わざわざおいでくださいませんように。
あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、(異邦人の)私にはありません。
ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。
ただ、おことばをいただかせてください。
そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。
と申しますのは、私も権威の下にあるものですが、
私の下にも兵士たちがいまして、
そのひとりに『行け』と言えば行きますし、別の者に『来い』と言えば来ます。
また、しもべに『これをせよ』と言えば、そのとおりにいたします」、と。

 これを聞いて、イエスは驚かれ、ついて来た群衆(ユダヤ人)に
「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません」と言われ、
使いに来た人たちが家に帰ってみると、しもべはよくなっていたのだそうです(ルカ7:1~10)。

 

 

 別のとき、イエスはこういう話をされたのだそうです。

「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。

ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、
金持の食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。
犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。

 

 さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。
金持ちも死んで葬られた。

 その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。

しかも、そのふところにラザロが見えた。
彼は叫んで言った。
『父アブラハムさま。私をあわれんでください。
ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。
私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』

アブラハムは言った。
『子よ。思い出してみなさい。
おまえは生きている間、良い者を受け、
ラザロは、生きている間、悪い物を受けていました。
しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。

 そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。
ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えてくることもできないのです。』

 

 彼は言った。
『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。
私には兄弟が5人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、
よく言い聞かせてください。』

 

 しかしアブラハムは言った。
『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』


 彼は言った。
『いいえ、父アブラハム
もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、
彼らは悔い改めるに違いありません。』

 

 アブラハムは彼に言った。
『もしモーセを預言者との教えに耳を傾けないのなら、

たといだれかが死人の中から生き返っても、
彼らは、聞き入れはしない。』」(ルカ16:19~31新改訳)


 大海の嵐も、死にそうな病も、この方の言葉には従うのに、
ただ、私たち人間だけが、この方を無視し、
自分の理性による善悪の判断によって、自分の思うままをやっているのですね。

 

 それは、「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)、
「父よ。あなたがわたし(イエス)におられ、わたし(イエス)があなた(父である神)にいるように、
彼らもわたしたちにおるようになり、
私たちが一つであるように、彼らも一つであるため」(ヨハネ17:21~22)という、創造の目的からズレている、的外れになっている状態なのだそうです。

 

 今は、その、嵐も沈めるお方が私たちに近くいてくださって、
エスによって、「和解しようよ。帰って来ておくれ」と呼びかけていてくださるのだそうです。
「思いを一つにし、心をひとつにする関係になろうよ」と。
今日も。

 

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この歴史を支配しておられる、その方の御思いに従う

私は永遠に生きる方をほめたたえた。
その支配は永遠に続き、

その国は代々に及ぶ。ダニエル書4:31~32(新改訳では34)

 人間に従うよりも、
神に従わなくてはなりません。
使徒5:29

 ヤコブ書1:1 ~6(7~11)12~13
 ルカ16:10~18(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句10/10;火)

 紀元前600年頃のことなのだそうです。
バビロンの王、ネブカデネザルは、一つの夢を見たのだそうです。
それで恐れ、おびやかされ、バビロンの知者をことごとく連れて来させ、その夢の解き明かしをさせようとしたのだそうですが、だれも、その夢をと明かすことができなかったのだそうです。

 それで、ダニエルが呼び出されたのですが、
王がダニエルに告げたその夢は、
「地の中央に木があり、その木は成長して高くなり、
その高さは天に届いて、地の果てのどこからでもそれが見え、
葉は美しく、実も豊かで、
その下で野の獣がいこい、その枝には空の鳥が住み、すべての肉なる者はそれによって養われた。

 見るとひとりの聖なる者が天から降りて来た。
彼は大声で叫んで、こう言った。
『その木を切り倒し、枝を切り払え。
その葉を振り落とし、実を投げ散らせ。獣をその下から、鳥をその枝から追い払え。
ただし、その根株を地に残し、これに鉄と青銅の鎖をかけて、野の若草の中に置き、
天の露にぬれさせて、地の草を獣と分け合うようにせよ。
その心を、人間の心から変えて、獣の心をそれに与え、7つの時をその上に過ごさせよ。

 この宣言は見張りの者たちの布告によるもの、
この決定は聖なる者たちの命令によるものだ。
それは、いと高き方が人間の国を支配し、
これをみこころにかなう者に与え、
また人間の中の最もへりくだった者をその上に立てることを、
生ける者が知るためである。』」

 ダニエルは、その夢は、ネブカデネザル王についてのことであると解き明かし、
「それゆえ、王さま。
正しい行いによってあなたの罪を取り除き、
貧しい者をあわれんであなたの咎を除いてください。
そうすれば、あなたの繁栄は長く続くでしょう」と勧告したのだそうです。

 12か月の後、ネブカデネザル王が、宮殿の屋上を歩いていたとき、
王はこう言っていたのだそうです。
「この大バビロンは、私の権力によって、王の家とするために、
また、私の威光を輝かすために、私が建てたものではないか」と。

 このことばがまだ王の口にあるうちに、天から声があった。
「ネブカデネザル王。あなたに告げる。
国はあなたから取り去られた。
あなたは人間の中から追い出され、野の獣と共に住み、牛のように草を食べ、
こうして7つの時があなたの上を過ぎ、
ついに、あなたは、いと高き方が人間の国を支配し、
その国をみこころにかなう者にお与えになることを知るようになる。」

 そして、そのとおりになり、その期間が終わったとき、
ネブカデネザルが目を上げて天を見た。
すると理性が戻って来た。

 

 彼は王位に戻り、
いと高き方をほめたたえ、永遠に生きる方を賛美し、ほめたたえたのだそうです。

「その主権は永遠の主権。
その国は代々限りなく続く。
地に住みものはみな、無きものとみなされる。
彼は、天の軍勢も、地に住むものも、みこころのままにあしらう。
御手を差し押さえて、
『あなたは何をされるのか』という者もいない」(ダニエル4章、新改訳)、と。

 だから、イエスの弟子たちが、
祭司長たちの、イエスのことを語ってはならない、との命令に答えたように、
私たちも、「人間に従うよりも、神に従うべき」なのでしょうね。


 イエスの弟のヤコブは書き送っています。

私の兄弟たち。
さまざまな試練に会うときは、それをこの上もない喜びと思いなさい。
信仰がためされると忍耐が生じるということを、あなたがたは知っているからです。
その忍耐を完全に働かせなさい。
そうすれば、あなたがたは何一つ欠けたところのない、
成長を遂げた、完全な者となります。
 あなたがたの中に知恵の欠けた人がいるなら、
その人は、だれにでも惜しげなく、とがめることなくお与えになる神に願いなさい。
そうすればきっと与えられます。
 試練に耐える人は幸いです。
耐え抜いて良しと認められた人は、
神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです(ヤコブ1:2~5、12)、と。


 イエスは言われます。

小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、
小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。
ですから、あなたがたが不正の(この世の)富に忠実でなかったら、
だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。

 また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、
だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。

 しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。
一方を憎んで他方を愛したり、
または一方を重んじて他方を軽んじたたりするからです。
あなたがたは、神にも仕え、また、富にも仕えるということはできません(ルカ16:10~13新改訳)。


 私たち、この世のことを、
自分の思いによってではなく、
神に仕えることとして、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる、
この歴史を導いておられる、
〔父である神〕の御思いによって、成していく、ということでしょうか。
今日も。

 

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今の時を生かして、抜け目なく

 何事にも時があり、

天の下の出来事にはすべて定められた時がある。コヘレト3:1

 ペトロがイエスに言った。
「先生、私たちがここにいるのはすばらしいことです。
仮小屋を3つ建てましょう。
一つはあなたのため、
一つはモーセのため、
もう一つはエリヤのためです。」
ペトロは自分でも何を言っているのか、分からなかった。
ルカ9:33

 ヘブル書11:1~7(8~10)
 ルカ16:1~9(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句9/9;月・祝)

 コヘレト(伝道者)は言います。
「天の下では、何事にも定まったときがあり、すべての営みには時がある。

生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。

植えるのに時があり、植えた物を引き抜くのに時がある。

戦うのに時があり、和睦するのに時がある。

神のなさることは、すべて時にかなって美しい」と。


 ある時、イエスは、
弟子のうちのペテロとヨハネヤコブを連れて、祈るために、山に登られたのだそうです。
祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝き、
しかも、二人の人、モーセとエリヤがイエスと話し合っていたのだそうです。
エスエルサレムで遂げようとしておられるご最期について。
眠くてたまらなかったペテロたちが、はっきり目が覚めて、
エスの栄光とイエスといっしょに立っているふたりの人を見た時、
ペテロは何を言っていいかわからず、思わず、このように言ったのだそうです。
 旧約を代表するモーセと、預言者を代表するエリヤ、そして、イエスがいっしょにいれば、
鬼に金棒のようだからと。
彼がこういっているうちに、雲がわき起こって、その人々をおおい、雲に包まれたのだそうですが、
雲の中から、「これは、私の愛する子、私の選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい」という声がし、
そこに見えたのはイエスだけだったのだそうです(ルカ9:28~36新改訳)。


 ヘブル書の記者は書きしるしています。

信仰は望んでいる事柄を保証し、目に見えないものを確信させるものです。

昔の人々はこの信仰によって賞賛されました。
信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、
したがって、見えるものが目に見えるものからできたのではないことを悟るのです。
信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえをささげ、
 ~~
信仰によって、エノクは死を見ることがないように移されました。
信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、神がおられることと、
神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
信仰によって、ノアは、まだ見ていない事がらについて神から警告を受けたとき、
恐れかしこんで、その家族の救いのために箱舟を造り、
その箱舟によって、世の罪を定め、信仰による義を相続する者となりました(ヘブル11:1~7)、と。


 あるとき、イエスは、弟子たちに、次のような話をされたのだそうです。

「ある金持ちにひとりの管理人がいた。
この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。
主人は、彼を呼んで言った。
『おまえについてこんなことを聞いたが、なんということをしてくれたのか。
もう管理を任せておくことはできないから、会計報告を出しなさい。』

管理人は心の中で言った。
『主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。
土を掘るには力がないし、物乞いするのは恥ずかしいし。
ああ、わかった。こうしよう。
こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。』
そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、
まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか』というと、
その人は、『油百バテ』と言った。
すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって50と書きなさい』と言った。

それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがあしますか』と言うと、『小麦百コル』と言った。
彼は、『さあ、あなたの証文だ。80と書きなさい』と言った。

この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、
主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。

そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。
そうしておけば、富がなくなったとき、
彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです」(ルカ16:1~9新改訳)。


 私たちが、こちら側の世に生きている時間は、
この管理人がやめさせられるまでのわずかな時間のよう、のようです。
だから、その時間を、永遠の住まいに迎えてくれる友をつくるために、
また、天の神、主との信頼関係を深め、思いを一つにするために用いていってほしい、ということでしょうか。
今日も。

 

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この方を愛し、信頼して

 世に打ち勝つ勝利、
それは私たちの信仰です。
Ⅰヨハネ5:4(10/8の週の聖句)

 悪を憎み、善を愛せよ。
また、町の門で正義を貫け。
あるいは、万軍の神なる主が
ヨセフの残りの者を憐れんでくださることもあろう。
アモス書5:15

 今は、そのすべてを、
すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、
口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。
コロサイ書3:8~9

 マタイ15:21~28
 詩25(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句10/8;Ⅱ日)

 ヨハネは記しています。

エスがキリストであることを信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。
生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者を愛します。
私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。
代に勝つ者とはだれでしょう。
エスを神の御子と信じる者ではありませんか。
神は私たちに永遠のいのちを与えられました。
そしてこのいのちは御子のうちにあります。
御子を持つ者はいのちを持っており、
神の御子を持たない者はいのちを持っていません(Ⅰヨハネ5:1~12より、新改訳)、と。

 

 預言者アモスは言います。

主を求めて生きよ。
さもないと、主は火のように、ヨセフの家に激しく下り、これを焼き尽くし、
ベテルのためにこれを消す者がいなくなる。
彼らは公義を苦よもぎに変え、正義を地に投げ捨てている。

 すばる座やオリオン座を造り、
暗黒を朝に変え、昼を暗い夜にし、
海の水を呼んで、これを地に注ぐ方、
その名は主、「わたしはある」という者。
主は強い者を踏みにじり、要塞を破壊する。
彼らは門で戒めを与える者を憎み、
正しく語る者を忌みきらう。
あなたがたは貧しいものを踏みつけ、彼らから小作料を取り立てている。
それゆえあなたがたは、切り石の家々を建てても、その中に住めない。
美しいぶどう畑を作っても、その酒を飲めない。
私は、あなたがたの罪がいかに重いかを知っている。
あなたがたが正しいものをきらい、まいないを取り、門で貧しい者を押しのける。
それゆえ、このようなときには、賢い者は沈黙を守る。
それは時代が悪いからだ。

 善を求めよ。悪を求めるな。
そうすれば、あなたがたは生き、
あなたがたが言うように、
万軍の神、主、「『私はある』という者」と名乗られる方が、あなたがたとともにおられよう。
悪を憎み、善を愛し、門で正しいさばきをせよ。
万軍の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
もしや、ヨセフの残りの者をあわれまれるかもしれない(アモス5:6~15新改訳)、と。


 パウロは手紙で書き送っています。

こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、
上にあるものを求めなさい。
そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。
あなたがたは地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
あなたがたはすでに死んでおり、
あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。
私たちのいのちであるキリストが現れると、
そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現れます。
ですから、地上のからだの諸部分、
すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。
このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。
このようなことのために、神の怒りが下るのです。
あなたがたも、以前、そのようなものの中で生きていたときは、そのような歩み方をしていました。
しかし今は、あなたがたも、すべてこれらのこと、
すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、あなたがたの口から出る恥ずべきことばを、捨ててしまいなさい。
互いに偽りを言ってはいけません。
あなたがたは、古い人をその行いといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。
新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、
真の知識に至るのです(コロサイ3:1~10)。


 イエスがツロとシドンのほうに立ちのかれたとき、
その地方のカナン人の女が出て来て、叫び声をあげていったのだそうです。
「主よ。ダビデの子よ。私をあわれんでください。娘が、ひどく悪霊に取りつかれているのです」と。
しかし、イエスは一言もお答えにならなかったのだそうです。
それでも、彼女は叫びながらついて来たのだそうです。
そして、イエスの前にひれ伏して、「主よ。私をお助けください」と言ったのだそうです。
エスは、「子どもたち(イスラエルの人々)のパンを取り上げて、
小犬(異邦人であるあなた)に投げてやるのはよくないことです」と言われると、
女は「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます」と答え、
エスは、「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどうりになるように」と言われ、
彼女の娘はその時から直った(マタイ15:21~28)のだそうです。


 bダビデは、詩篇25篇でうたっています。

主よ。

私のたましいは、あなたを仰いでいます。

わが神。

私は、あなたに信頼いたします。

どうか私が恥をみないようにしてください。

私の敵が私に勝ち誇らないようにしてください。

まことに、あなたを待ち望む者はだれも恥を見ません。

ゆえもなく裏切る者は恥を見ます。

主よ。あなたの道を私に知らせ、

あなたの小道を私に教えてください。

あなたの真理のうちに私を導き、

私を教えてください。

あなたこそ、私の救いの神、

私は、あなたを一日中待ち望んでいるのです。

主よ。あなたのあわれみと恵みを覚えていてください。

それらはとこしえからあったのですから。

私の若い時の罪やそむきを覚えていないでください。

あなたの恵みによって、私を覚えていてください。

主よ。あなたのいつくしみのゆえに。

~~

私に御顔を向け、私をあわれんでください。

私はただひとりで、悩んでいます。

私の心の苦しみが大きくなりました。

どうか、苦悩のうちから私を引き出してください。

私の悩みと労苦を見て、私のすべての罪を赦してください。

私の敵がどんなに多いかを見てください。

彼らは暴虐な憎しみで、私を憎んでいます。

私のたましいを守り、私を救い出してください。

私はあなたに身を避けています。

誠実と正しさが私を保ちますように。

私はあなたを待ち望んでいます。

神よ。イスラエルを、

そのすべての苦しみから贖い出してください、と。

 

 私たちも、この新しい週。



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もはや、死もなく、悲しみ、叫び、労苦もない、その日が

 主が民の罪を包み癒される日、
月の光は太陽の光になり、
太陽の光は7倍になり、7つの日の光となる。
イザヤ書30:26

 神が人と共に住み、人は神の民となる。
神は共にいて、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。
もはや死はなく、悲しみも嘆きも労苦もない。
最初のものは過ぎ去ったからである。
黙示録21:3~4

 ロマ書4:18~25
 ルカ15:11~32(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句10/7;土)

 今の世界が、そのままずっと続くのではなく、
そういう日が来るのだそうです。

 それは、大いなる虐殺の日、やぐらの倒れる日、なのだそうですが、
また、天の神、主が民の罪を包み、いやしてくださる日でもあるのだそうです。
自然界も、贖われて、栄光に輝くようですね。

 今の天と地は過ぎ行き、新しい天と地が実現し、
神が人と共に住み、人は神の民となり、
100パーセント、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心に置かれる〔父である神〕の御思いで生きるようにしてくださり、
もはや死もなく、悲しみ、嘆きもないのだそうです。



 アブラハムは、望みえないときに望みを抱いて、天の神、主を信じたのだそうです。
およそ100歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、
妻、サラの胎が死んでいることとを認めても、彼は、
「さあ、天を見上げなさい。
星を数えることができるなら、それを数えなさい。
あなたの子孫はこのようになる」(創世記15:5)との神の約束を疑うようなことをせず、
神には約束されたことを成就する力があることを固く信じたのだそうです。

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、私たちも、
エスを死者の中からよみがえらせた方を信じる、
その信頼を義とみなしてくださるのだそうです。
確かに、イエスは、私たちの罪のために死に渡され、
私たちが義と認められるためによみがえられたのだそうですから(ロマ4:18~25)。

 

 

 父の財産の生前贈与を要求し、
その財産を金に換えて、遠くの町に行き、
放蕩して、財産を湯水のように使い果たし、
食べる物もなく、みすぼらしく落ちぶれて帰って来た弟息子。
それをかわいそうに思い、走り寄って抱き、口づけして、
一番良い着物を着せ、
手に指輪をはめさせ、
靴をはかせ、
肥えた子牛をほふって祝宴をする父親のように、

 また、その父親を非難し、怒る、まじめにやって来たと自負する兄息子を、
「子よ。お前はいつも私といっしょにいる。
私のものは、全部おまえのものだ。
おまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。
いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぼう」と
優しくさとす父親のように(ルカ15:11~32)、
天の神、主は、イエスの十字架刑での処刑を通して、私たちも受け入れてくださり、
ご自分と思いを一つにし、心を一つにする者にして、
新しい世界を受け継ぐ者にしてくださるのだそうですから。

 その方を信頼し、約束を期待しながら、
〔父である神〕と思いを一つにする練習をしていくのですね。
アブラハムのように、私たち、今日も。

 

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