風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

栄光の王が入って来られて

見よ、あなたの王が来る。
彼は神に従い、
勝利を与えられた者。
ゼカリヤ書9:9(12/3の週の聖句)

 新しい歌を主に向かって歌え。
地の果てから主の栄誉を歌え。
イザヤ書42:10

 父ザカリヤ聖霊に満たされ、こう預言した。
「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。
主はその民を訪れて解放された。」
ルカ1:67~68

 マタイ21:1~9
 詩24(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句12/3:Ⅰ日)

 紀元前520年頃のこと、
天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
ゼカリヤを通して預言して言われたのだそうです。
「シオンの娘よ。大いに喜べ。
エルサレムの娘よ。喜び叫べ。
見よ。あなたの王があなたのところに来られる。
この方は正しい方で救いを賜り、
柔和で、ろばに乗られる。
それも、雌ろばの子の子ろばに。
わたしは戦車をエフライムから、
軍馬をエルサレムから絶やす。
戦いの弓も絶たれる。
この方は諸国の民に平和を告げ、
その支配は海から海へ、
大川から地の果てに至る」(ゼカリヤ9:9~10新改訳)と。

イザヤを通しては、
「主、『わたしはある』と名乗られる方に向かって新しい歌を歌え。
その栄誉を地の果てから」と。

エスの先駆けとして世に現れたバプテスマのヨハネ
彼が生まれたとき、
ザカリヤは、聖霊に満たされ、預言して言ったのだそうです。
「ほめたたえよ。
イスラエルの神である主を。
主はその民を顧みて、贖(あがな)いをなし、
救いの角を、
われらのために、しもべダビデの家に立てられた」と。

 そして、イエスは、
キリストとしての3年半の公生涯の終わり、
最後のエルサレム入場に際して、
エルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのべテパゲまで来た。
そのとき、イエスは、弟子をふたり使いに出して、言われた。
『向こうの村へ行きなさい。
そうするとすぐに、ろばがつながれていて、
いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。
それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。
もしだれかが何か言ったら、
「主がお入用なのです」と言いなさい。
そうすれば、すぐに渡してくれます』」と。

 そして、イエスは、その、
まだ人を乗せたことのない子ろばのほうに乗られて、
エルサレムへ入場されたのだそうです。
柔和な王として(マタイ21:1~9新改訳)。

紀元前1000年頃、ダビデはうたっています。

「門よ。おまえのかしらを上げよ。

永遠の戸よ。あがれ。

栄光の王が入って来られる。

栄光の王とは、だれか。

強く、力ある主。

戦いに力ある主。

門よ。おまえたちのかしらを上げよ。

永遠の戸よ。あがれ。

栄光の王が入って来られる。

その栄光の王とはだれか。

万軍の主。これぞ、栄光の王」(詩篇24:7~10新改訳)と。

 2000年ほど前、
エスが、ろばの子に乗って入場されたエルサレムの東側の門。
世の終わりには、その、今は閉ざされている東側の門「黄金門」から、
エスが、今度は「栄光の王」として入場されるのだそうです。

 そのイエスが、私たちにも〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣して、

御思いを心に置いてくださり、
私たちをご計画の実現のために用いようと思っていてくださるのだそうです。
この新しい週も。

 

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高ぶり、おごり、高慢が、つまずき、破滅に先立って

痛手に先立つのは驕(おご)り、
つまずきに先立つのは高慢な霊。箴言16:18
 実際には何者でもないのに、
自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、
その人は自分を欺(あざむ)いています。
自分の行いを吟味してみなさい。
自分にだけは誇れるとしても、
他人に対して誇ることができないでしょう。ガラテヤ書6:3~4
 ヘブル書13:10~16
 Ⅱテサロニケ2:13~17(通読箇所)  
  (ローズンゲン日々の聖句12/1;金)

立ち帰って、悪の道と悪事を捨てよ。エレミヤ書25:5

 悔い改めにふさわしい実を結べ。ルカ3:8

 黙示録21:10~14、21~27
 Ⅱテサロニケ3:1~18(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句12/2;土)
 破滅し、痛手を負うようなことの前には、高ぶり、驕りが先立っており、
つまずき倒れることには、高慢が先立っているのだそうです。

 神に聞き、神と心を一つにしていく場からはずれて、
神のひとりのようになり、善悪を知る者になっている私たち人間は、
自分を立派な者、ひとかどの者、
神のひとりにでもなったかのように思い、
造り主である、天の神、主が備えられたものの中で生きていながら、
まるで、自分の力だけで生きていけているかのように、
思い高ぶっているのだそうです。

 だから、自分をよく吟味し、
自分一人の力で生きていけているのではないことを認めて、
私たちが生きていくために必要なもののすべてを用意してくださっている
造り主を認めていくことが知恵の初めだと言われるわけのようです。

 イエスは、私たちが、〔父である神〕と
心を一つにして生きる生き方に立ち返れるようにと、
門の外に引き出され、
十字架刑での処刑、はずかしめを黙って受けてくださったのだそうです。

 だから、私たちもイエスのはずかしめを身に負って、
宿営の外に出て、
エスのみもとに行くようにと勧められているようです(ヘブル13:12~13)。

 イエスは言われました。
「わたしはまことのぶどうの木で、あなたがたは枝です。
枝がぶどうの木についていなければ、
枝だけでは実を結ぶことができません。
同様にあなたがたも、
わたし(イエス)にとどまっていなければ、
実を結ぶことはできません。
人がわたしにとどまり、
わたしもその人の中にとどまっているなら、
そういう人は多くの実を結びます(ヨハネ15:1~5新改訳)と。
 悔い改めにふさわしい実を結ぶ。
エスに合わせていただいて、
エスと一体のものとしていただき、
エスの十字架刑での処刑にも合わせていただいて、
私自身である〔生まれた時からの私〕という霊を
処刑されたもの、死んだものとみなしていただいて、
私が新しく生きるための霊として、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣していただき、
この方が心に置いてくださる
〔父である神〕の、〔御子である神〕イエスの、
御思いをわが思いとして生きる者は、
天の神、主に立ち帰った、豊かな実を結ぶようになるのだそうですから。
栄光の御国(黙示録21:10~14、21~27)に直接、
そのまま、つながる実を。
 今日も。
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「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう」と

主はモーセに言われた。
「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう。
わたしはあなたに好意を示し、
あなたを名指しで選んだからである。」
出エジプト記33:17

 天使は、彼女のところに来て言った。
「おめでとう、恵まれた方。
主があなたと共におられる。」
ルカ1:28

 Ⅰテサロニケ5:9~15
 Ⅱテサロニケ2:1~12(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句11/30;木)

 奴隷にされていたエジプトから脱出し、
50日ほどをかけて神の山ホレブ(シナイ山)まで来たイスラエルの民は、
「神、主の仰せられたことはみな行い、聞き従います」と神に答えて、
神の民となる契約を結びました。

 しかし、神の言葉を聞くために山に登ったモーセが下りてくるのが遅いのを見て
モーセは40日40夜、山にいたようですから)、
民はアロンに迫り、金の子牛を作って、
「これこそ、私たちをエジプトから導き出された神だ」とお祭りを、
どんちゃん騒ぎを始めたのだそうです。

 それで、天の神、主は、この民を滅ぼそうとされたのですが、
モーセは民のために執り成し、赦してもらったのだそうです。

 それで、天の神、主は、モーセ
「あなたも、あなたがエジプトの地から連れ上った民も、
わたしがアブラハム、イサク、ヤコブに誓って、
『これをあなたの子孫に与える』と言った地にここから上って行け。
わたしはあなたがたの前にひとりの使いを遣わし、
わたしが、カナン人、エモリ人、ヘテ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人を追い払い、
乳と蜜の流れる地にあなたがたを行かせよう。

わたしは、あなたがたのうちにあっては上らないからである。
あなたがたはうなじのこわい民であるから、
わたしが途中であなたがたを滅ぼすようなことがあるといけないから」と言われ、
民はこれを聞いて悲しみ痛んだのだそうです。

それで、モーセは、神である主、
「『わたしはある』という者」と名乗られる方に申し上げたのだそうです。
「今、もしも、私があなたのお心にかなっているのでしたら、
どうか、あなたの道を教えてください。
そうすれば、私はあなたを知ることができ、
あなたのお心にかなうようになれるでしょう。
この国民があなたの民であることをお心に留めてください。
もし、あなたご自身がいっしょにおいでにならないなら、
私たちをここから上らせないでください。
私とあなたの民とが、あなたのお心にかなっていることは、
いったい何によって知られるのでしょう。
それは、あなたが私たちといっしょにおいでになって、
私とあなたの民が、地上のすべての民と区別されることによるのではないでしょうか」と。
それで、神である主はモーセに答えられたのですね。
「わたしは、あなたのこの願いもかなえよう」と。

天使長のひとり、ガブリエルが、
ガリラヤのナザレという町の、
ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけであった一人の処女、
マリヤのところに来て言ったのだそうです。
「おめでとう。恵まれた方。
主があなたと共におられます。
御覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。
名をイエスとつけなさい。
その子は優れた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。
また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。
彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません」と。

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方が、
共にいてくださること、
この方のお心がわかるようになることが、
私たちの生きる道、私たちの幸せのようです。

このマリヤから生まれたイエスが、
十字架刑での処刑を受けて死んでくださったのは、
私たちが、目覚めていても、眠っていても、
主と共に生きるため(Ⅰテサロニケ5:10)、なのだそうですから。

このイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
この方によって、心に、
〔父である神〕の私に関わる御思いを置いていただき、
〔父である神〕と心を一つにして、
御思いの中を、
御思いが分かりながら生きるという。

今日も。

 

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イエスのおられる所に、私たちも住まわせようと

お前たちの道と行いを正せ。
そうすれば、
わたしはお前たちをこの所に住まわせる。
エレミヤ書7:3

 信者たちは財産や持ち物を必要に応じて分け合った。
毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、
家ごとに集まってパンを裂き、
喜びと真心をもって食事をし、
神を賛美していたので、
民衆全体からも好意を寄せられた。
使徒2:45~47

 Ⅰコリント3:9~15
 Ⅱテサロニケ1:1~12(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句11・29;水)

紀元前600年頃のことです。
天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
ユダヤのアナトテの人エレミヤをご自身の預言者として立て、
ユダヤの人々に語りかけられたのだそうです。
「わたしがあなたがたに絶えず、しきりに語りかけたのに、
あなたがたは聞こうともせず、
わたしが呼んだのに、答えもしなかった。」(エレミヤ7:13新改訳)。

「あなたがたの行いと、わざを改めよ。
そうすれば、わたしは、あなたがたをこの所に住ませよう。
あなたがたの間で、公義を行い、
在留異国人、みなしご、やもめをしいたげず、
罪のない者の血をこの所で流さず、
ほかの神々に従って自分の身にわざわいを招くようなことをしなければ、
この地にとこしえからとこしえまで住ませよう」(7:3~7)と。

エスが十字架刑での処刑を受けられ、
墓に葬られ、
三日目の日曜日の朝、死人の中から、新しい霊のからだに復活され、
40日に渡って、何度も弟子たちに現れ、神の国のことを語った後、
弟子たちの見ている前で、
オリーブ山から、天の〔父である神〕の右の座に帰られ、
10日後の、五旬節(ペンテコステ)の日に、
待ち望んでいた弟子たちに、
約束の〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣され、
この方が、弟子たちの心に〔父である神〕の御思いを置かれ、
弟子たちが、〔父である神〕と心を一つにして、
その御思いのとおりに、行動するようになっていったとき、
弟子たちは、このことばのような、
心を一つにする、共同生活をするようになっていったのだそうです。

この〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れ、
神と心を一つにして生きる者は神の協力者としていただき、
ちょうど、建築家が家の土台を据え、その上に家を建てていくように、
心にイエス・キリストという土台を据え、
その上に、神と心を一つにした生活という家を建てていくようにと
用いていただけるのだそうです(Ⅰコリント3:9~15)。

 イエスが、二度目に、
今度は、炎の中に力ある御使いたちを従えて来られて、
私たちにも栄光を与えて、(Ⅱテサロニケ1:5~12)、
御国に住まわせてくださるその日に向かって。
今日も。

 

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自分の思いに死に、新しく、神の思いに生きるようにと

もしお前が正しいのなら、
顔を上げられるはずではないか。
正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、
お前を求める。
お前はそれを支配せねならない。
創世記4:7

 あなたがたは、
罪から解放され、
義に仕えるようになりました。
ロマ書6:18

 Ⅰペテロ1:13~21
 Ⅰテサロニケ5:12~28(通読箇所)
  (ローズンゲン日々の聖句11/28;火)

 

  【大地のもろもろの柱は主のもの、主は世界をそれらの上に据えられた。サムエル記上2:
 神は、御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました。
御子は神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れであって、万物をご自分の力ある言葉によって支えておられます。ヘブル書1:2~3
 ヘブル書12:18~25
 Ⅰテサロニケ5:1~11
  (ローズンゲン日々の聖句11/28;月)】

 

天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方が、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26新改訳)と願われて創造された最初の人、アダムとエバ。
彼らは、その、天の神、主と思いを同じくし、心を一つにしていく場に留まることをせず、
天の神、主のようになろう、
神の位よりももっと上の位に座る者になろうとして、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になる道を選び、
創造の目的から「的外れ」の存在になってしまったのだそうです(創世記3:5、22)。

そして、その二人から生まれたカイン。
彼も、この「的はずれ」の性質を受け継いでいたのだそうです。
不完全なものから、完全なものは生れない、ということでしょか。

それで、カインは、自分の努力の結果である、自信作の農作物、
自分が「善し」と判断するものを、
神へのささげものとして持って来たのだそうですが、
天の神、主は、これに目を留められなかったのだそうです。

 そして、弟のアベルが、
「あなたが、私に預けられた羊が、こんなかわいい子を産みましたよ」と、
神の恵みをささげた、そのささげ物に目を留められたのだそうです。

それで、カインは、ひどく怒って顔を伏せていたのだそうです。
そこで、神である主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
その、怒って顔を伏せているカインに仰せられたのだそうです。
「なぜ、憤(いきどお)っているのか。
なぜ、顔を伏せているのか。
あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。
だだし、あなたが正しく行っていないのなら、
罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。
だが、あなたは、それを治めるべきである」(創世記4:1~7新改訳)と。

けれども、カインは、自分の、その、「的外れ」になっている思いを治めることができないで、
その思いのままに、弟アベルを野に連れ出して襲いかかり、殺してしまったのだそうです(創世記4:8)。

私たちも、このアダムとエバの子孫であって、
カインと同じように、天の神、主と思いを一つにしようとしないで、
自分の理性の善悪の判断のままに生きる者、
これを治めることのできないでいる者、のようです。

そのような私たちを、
天の神、主は、この「的外れ」から解放し、
義に仕える者、
神と心を一つにして生きる者にしてくださっているのだそうです。

 御子である方を、人間イエスとして、
約束の「女の子孫」(創世記3:15)として人の世に派遣し、
すべての人の身代わりとし、
すべての人間の「的外れ」の責任をこの方に負わせて、
この方がおよそ33歳のころ、
この方を、ユダヤ人の指導者のねたみとローマ兵を用いて十字架刑で処刑されたのだそうです。

 そして、私たちを、このイエスに合わせられた者として、
十字架刑で処刑されたもの、死んだものとしてくださっているのだそうです


 そのうえで、もう一人の方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣して、
この方によってご自身の、
私たち一人ひとりに思っておられる御思いを私たちの心に置き、
受け入れる者がご自身と同じ思いを思い、
一つ心になって生きるようにしてくださっているのだそうです。
「自分は罪に対しては死んだものであり、
神に対してはキリスト・イエスにあって生きたものだと思いなさい」(ロマ6:11)、と。

それで、〔父である神〕の御思いを心に置いていただくとき、私たちも
「心を引き締め、身を慎み、
イエス・キリストの現れのときにもたらされる恵みを、ひたすら待ち望む」希望を持ち、
以前の無知であったときの欲望に従わず、
召してくださった聖なる方にならって聖なるものとなることを願う心にもしていただけるのだそうです。
人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を「父」と呼ぶ者として(Ⅰペテロ1:13~21)。

天の神、主は、気ままな者を戒め、小心な者を励まし、
弱い者を助け、すべての人に寛容な方。
悪をもって悪に報いないで、いつも善を行ってくださる方。
私たちを全く聖なるものとしてくださり、
イエス・キリストの来臨のとき、責められることのないように、
私たちの霊、たましい、からだを完全に守ってくださる方なのだそうですから。

私たちに、いつも喜んでおり、
絶えず祈り、
すべてのことに感謝する思い、
御霊の働きを待ち望み、
預言の言葉を大切にし、
悪を避け、良いものを堅く守っていく思いも心におこして下さるのだそうです。
今日も。

 

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花婿を出迎える乙女たちのように

腰に帯を締め、
ともし火をともしていなさい。
ルカ12:35(11/26の週の聖句)

 

私たちは、何をすべきか分からず、
ただあなたを仰ぐことしかできません。
歴代誌下20:12

 私たちも信仰の創始者また完成者である
エスを見つめながら走り抜きましょう。
ヘブル書12:2

 マタイ25:1~13
 詩46(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句11/26;Ⅳ日)

エスがこの世におられた当時、
ユダヤの婚礼は1週間も続いたのだそうです。
それで、婚礼に出かけた主人がいつ帰って来るのか分からないのだそうです。
真夜中か、夜明けなのか。
それで、主人が帰って来て戸をたたいた時、
すぐに戸を開けられるようにと、
腰に帯を締め、ともし火をともして待っているしもべのようでありなさい、とイエスは言うのですね。

 また、花婿は、花嫁を迎えに、花嫁の家に行き、そこで宴会があり、
それから花婿の家での宴会が始まるののだそうです。
それで、花婿がいつ来るかわからないので、
花婿を出迎える賢い乙女は、
ともし火の油がなくならないように、予備の油を用意するのだそうです。

エスが2000年ほど前に来られた、その時は、
私たち、すべての人間の、
すべての「的外れ」の責任をご自身に負って、
身代わりの犠牲の小羊として、
十字架刑での処刑を受けて、
私たちに、神の怒りが残っていないようにするために来られたのだそうです。
が、今度は、花婿が花嫁を迎えに来るように、
私たちを迎えるために来られるのだそうです。
その時を待ち望む者は、主人の帰りを待つしもべのように、
また、花婿を迎える乙女たちのようにしていなさい、とイエスは言われるのですね。

また、紀元前850年頃のこと、
ユダのヨシャバテ王は、隣国のモアブ、アモンの大軍が侵入して来て、
今まさに国が滅びようとしているとき、
ただひたすら天の神、主に求め、
ユダ全国に断食を布告し、
ユダの人たち全員、幼子、妻たち、子どもたちも集まって
天の神、主の助けを求めたたのだそうです。
「ご覧ください。彼らが私たちにしていることを。
彼らは、あなたが私たちに得させて下さったあなたの所有地から
私たちを追い払おうとしています。
私たちの神よ。あなたは彼らをさばいてくださらないのですか。
このおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません。
私たちとしては、どうすればよいのかわかりません。
ただ、あなたを仰ぎ、あなたに目を注ぐのみです」と。

私たちにも、
日々の一つ一つの出来事の中で、
天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方に、
信仰の創始者であり、完成者であるイエスによって、
「天の父よ」と呼びかけ、
目を注いでいってほしいようですね。
この新しい週も。

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愛は、恐れを取り除いてくれるのだそうですから

あなたたちは心を込めて、
あなたたちの神、主を愛しなさい。
ヨシュア記23:11

 神は愛です。
愛にとどまる人は、神のうちにとどまり、
神もその人のうちにとどまってくださいます。
Ⅰヨハネ4:16

 黙示録20:11~15
 Ⅰテサロニケ4:13~18(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句11/25;土)

 神はそのひとり子を世に遣わし、
その方によって私たちに、
いのちを得させようとしていてくださるのだそうです。

 私たちが神を愛したのではなく、
神が私たちを愛し、
私たちの罪のために、
なだめの供え物としての御子を遣わしてくださったのだそうです。

 このようにして神は私たちに対する愛を現してくださっているのだそうです。
だから、この愛を無視しないで、
受け取って、この愛の中に留まり続けてほしいのだそうです。

 自分の大切な人とは、いつも一緒にいたいし、
何を思っているのかを知りたいし、
お互い、心を明かし合って、心が通じる者になりたいのですね。

エスが、自分からは何事もせず、
ただひたすら、〔父である神〕の御思いが実現することを願っていかれた(ヨハネ8:28、12:50))、
そのイエスと〔父である神〕との関係に私たちも似ていくようにと。

そして、愛には恐れがないのだそうです。

ヨハネは黙示録に記しています。
「また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。
地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。
そして、数々の書物が開かれた。
また、別の一つの書物も開かれた。
それは、いのちの書であった。
死んだ人々は、これらの書物に記されているところに従って、
自分の行いに応じてさばかれた。」(黙示録20:11~12新改訳)と。

 けれども、神の愛を受け取り、
エスが十字架刑での処刑を受けて完了していてくださる救いのプレゼントを受け取り、
自分自身である〔生まれた時からの私〕という霊を処刑済みとしていただき、
エスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
この方によって、
〔父である神〕の私に対する御思いを心に置いていただき、
〔父である神〕と心を一つにして生きている者は、
「主イエスが、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、
ご自身天から下って来られるとき、
キリストにある死者が、まず初めによみがえり、
次に生き残っている私たちが、たちまち、
(からだを、霊のからだ、復活のからだに変えていただいて)、
彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、
空中で主イエスとお会いし、
いつまでも主イエスと共にいることになるのだそうですから(Ⅰテサロニケ4:13~18)。

 

 その希望の中で、
私たちは、〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えし、
〔父である神〕の御思いを心に置いていただきながら、
〔父である神〕が私を通してしようと思われることをしていくのだそうです。
愛と祝福の中を。
今日も。

 

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