風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

イザヤ書25章1節~8節

 

ローズンゲン日々の聖句(12/11;月)のうち、1か所、引用を間違いました。
お詫びし、訂正いたします。

イザヤ書29:1~8は、→イザヤ書25:1~8でした。

イザヤ書25:1節から8節には次のように書かれています。
 「主よ。あなたは私の神。

私はあなたをあがめ、あなたの御名をほめたたえます。

あなたは遠い昔からの不思議なご計画を、
まことに、忠実に成し遂げられました。

あなたは町を石くれの山とし、城壁のある町を廃墟にされたので、

他国人の宮殿は町からうせ、もう、永久に建てられることはありません。
それで、力強い民も、あなたをほめたたえ、
横暴な国々の都も、あなたを恐れます。
あなたは弱っている者のとりで、
貧しい者の悩みのときのとりで、
あらしのときの避け所、
暑さを避ける影となられたからです。
横暴な者たちの息は、
壁に吹き付けるあらしのようだからです。
砂漠のひでりのように、
あなたは他国人の騒ぎを押え、
濃い雲の陰になってしずまる暑さのように、
横暴な者たちの歌はしずめられます。

万軍の主はこの山の上で万民のために、
あぶらの多い肉の宴会、良いぶどう酒の宴会、
髄の多いあぶらみとよくこされたぶどう酒の宴会を催される。
この山の上で、
万民の上をおおっていた顔おおいと、
万民の上にかぶさっているおおいを取り除き、
永久に死を滅ぼされる。」
神である主はすべての顔から涙をぬぐい、
ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。
主が語られたのだ。」

 

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前兆に気を付けていなさい、と。

身を起こして頭を上げなさい。
あなたがたの解放の時が近いからだ。
ルカ21:28(12/10の週の聖句)

 アブラハムはロトに言った。
「私たちは親類同士だ。
私とあなたの間ではもちろん、
お互いの羊飼いの間でも争うのはやめよう。」
創世記13:8

 多くの部分があっても、
一つの体なのです。
Ⅰコリント12:20

 ルカ21:25~33
 サムエル記上2:1~10(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句12/10;Ⅱ日)


主があなたを祝福し、
あなたを守られるように。
民数記6:24

 祝福を祈りなさい。
祝福を受け継ぐために
あなたがたは召されたのです。
Ⅰペテロ3:9

 イザヤ書29:1~8
 ゼカリヤ書5:1~11(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句12/11;月)

 イエスは、弟子たちの
「これらのことはいつ起こるのでしょう。
どんな前兆があるのでしょう」との質問に答えて言われたのだそうです。
「日と月と星には、前兆が現れ、
地上では、諸国の民が、海と波があれどよめくために不安に陥って悩み、
人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、
恐ろしさのあまり気を失います。
天の万象が揺り動かされるからです。
 そのとき、人々は人の子(イエスは自分のことをよく、「人の子」と言われた)は、
力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。
これらのことが起こり始めたなら、
からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。
解放のとき、贖(あがな)いが近づいたのです。
いちじくの木や、すべての木を見なさい。
木の芽が出ると、それを見て夏の近いことがわかります。
そのように、これらのことが起こるのを見たら、
神の国は近いと知りなさい。
天地は滅びます。
しかし、わたしのことばは決して滅びことがありません」(ルカ21:25~33)と。

天の神、主、「『私はある』という者」と名乗られる方は、
すべての人を祝福し、守りたいと思っておられるようです。
それで、私たちにも祝福を受け継いでほしいと願われ、
私たちの心にも、周りの人の祝福を願う思いを置こうと思っておられるようです。
私たち、一人ひとり、それぞれちがいますけれど、
一つのからだのよう、なのだそうですから。
からだが、部分部分は違っていながら一つであり、
一つの頭につながり、
頭の思うとおりに動いていくように、
愛において一つにしていただけるのだそうです。
祝福を受け継ぎ、祝福し合うようにと。

 そして、エルサレムに起こる前兆については、イザヤを通して言われます。
「ああ、エルサレムエルサレムダビデが陣を敷いた都よ。
わたしはエルサレムをしいたげるので、そこにはうめきと嘆きが起こる。
わたしは、あなたの回りに陣を敷き、あなたを前哨部隊で囲み、あなたに対して塁で囲む。
あなたは倒れて、地の中から語りかけるが、あなたの言うことは、ちりで打ち消される。

しかし、あなたの敵の群れも、細かいほこりのようになり、
横暴な者の群れは、吹き飛ぶもみがらのようになる。
しかも、それはにわかに、急に起こる。
万軍の主は、雷と地震と大きな音をもって、
つむじ風と暴風と焼き尽くす火の炎をもって、あなたを訪れる。
エルサレムに戦いをいどむすべての民の群れ、
これを攻めて、これを取り囲み、これをしいたげる者たち、
シオンの山に戦いをいどむすべての民の群れも、そのようになる(イザヤ29:1~8)、と。

 それで、天の神、主は、
エルサレムの平和のために祈れ。
おまえを愛する人々が栄えるように」(詩篇122:6)とも、言っておられるのだそうです。

今日も。

 

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からし種、一粒ほどの信仰もない者を

御救いの喜びを再び私に味わわせ、
自由の霊によって支えてください。
詩51:14

 使徒たちは主に
「私どもの信仰を増してください」と言った。
ルカ17:5

 エゼキエル書37:24~28
 ゼカリヤ書3:1~10(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句12/8;金)

 天の神、主、「『私はある』という者」と名乗られる方は、
そむく者、さまよい出ている者の罪を、
エスが受けてくださった十字架刑での処刑によって赦し、
〔自由の霊〕、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
御救いの喜びを私たちに返し、再び味わわせてくださるのだそうです。

 からし種1粒ほどの信仰もない、
ある価値のない、
いると場所ふさぎになる、
マイナスだけの者を憐み(ルカ17:5~10)、
不義を取り除き、汚れた服を脱がせて、礼服を着せ、
頭にきよいターバンをかぶらせ、
御思いを私たちの心に置いて、
ご自身と一つ心になって、
御前に出入りするように(ゼカリヤ31~10)して。

 「わたしのしもべダビデが彼らの王となり、
彼ら全体のただひとりの牧者となる。
彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行う。
彼らは、わたしがわたしのしもべヤコブに与えた国、
先祖が住んだ国に住むようになる。
そこには彼らとその子らとその子孫たちとがとこしえに住み、
わたしのしもべダビデが永遠に彼らの君主となる。
わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。
これは彼らとのとこしえの契約となる。
わたしは彼らをかばい、彼らをふやし、
わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。
わたしの住まいは彼らとともにあり、
わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。
わたしの聖所が永遠に彼らのうちにあるとき、
諸国の民は、
わたしがイスラエルを聖別するであることを知ろう」(エゼキエル37:24~27)と仰って。
今日も。

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賜っている恵みの、善き管理者として

主よ、この地はあなたの慈しみで満ちています。
あなたのおきてを私に教えてください。
エゼキエル書34:22

あなたがたはそれぞれ、
賜物を授かっているのですから、
神のさまざまな恵みの善い管理者として、
その賜物を生かして互いに仕えなさい。
Ⅰペテロ4:10

 Ⅰテサロニケ5:(1~3)4~8
 ゼカリヤ書2:10~17(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句12/7;木)

 天の神、主、
「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして。われわれに似せて」と仰られた方は、
造られた人間が困らないようにと、
人間の住まいとして、
この天地万物、この地球の自然環境を造り、整え、
すべての準備が出来上がったたところで、最初の人間アダムを造り、
エデンの園に置かれたのだそうです。
愛によって、自由意思で、自発的に、
「われわれが一つになっているように、
わたしたちと心を一つにして、
海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、
地をはうすべてのものを支配(統治、管理)するように」(創世記1:26)と。

だから、この地は、
私たち人間に対する、天の神、主の慈しみで満ちているのだそうです。
それで、私たち人間は、
天の神、主の御思いを知り、
その御思いに従って、
自分に与えられている賜物、能力や環境、立場、時間などを、
善い管理者として、互いに仕え合うために用いて行ってほしいようです。

私たち人間は、この天の神、主の御思いから、「的外れ」になってしまって、
「神のひとりのようになり、
善悪の判断を、自分一人で決める者になり」(創世記3:5、22)、
「私は天に上ろう。
神の星々のはるか上にわたしの王座を上げ、
北の果てにある会合の山に(議長として)座ろう。
密雲(神の御座を包む)の頂に上り、
いと高き方のようになろう」(イザヤ14:13~14)とする者と同じ心になって、
天の神、主の上に自分を置き、
善きものの全部を自分一人で独占しようとする者になっているようです。

天の神、主は、
その、私自身である〔生まれた時からの私〕という霊を、
エスが受けてくださった十字架刑での処刑に合わせてくださって、
処刑が終わったもの、死んだものとしてくださるのだそうです。

そして、受け入れる者に、
新たに、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって、私たちの心に、
私たち一人ひとりに思っておられるご自身の御思いを置いてくださり、
受け入れる者が、ご自身と同じ思いを思い、一つ心になって、
ご自身と一つ行動をとるようになってほしいのだそうです。
神から授かっている恵みの善き管理者として。

 2000年ほど前、
私たち人間の身代わりとなって、十字架刑での処刑を受けるために、
数人の貧しい羊飼いのほかには知る人もなく、
家畜小屋に、人間として生まれられたイエスは、
やがて、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、
ご自身天から下って来られるのだそうです。

 そのとき、イエスによる贖(あがな)い、救いを受け取っている人たちは、
一瞬にして、この肉体を、復活の肉体、霊のからだに替えていただいて、
雲の中に一挙に引き上げられ、空中でイエスとお会いし、
エスのおられる所に、いつまでも、
エスといっしょにいるようにしていただけるのだそうです(Ⅰテサロニケ4:16~17)。

そして、この世界には、
人々が「平和だ。安全だ」と言っているそのようなときに、
突如として滅びが来るのだそうです。

 私たちのうちに来て下さる〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
私たちの心に、
その日が来ることを忘れないで、
光の子ども、昼の子どもとして、慎み深くしていく思いも、
起こしてくださるようですね(Ⅰテサロニケ5:1~8)。

「『シオンの娘よ。喜び歌え。楽しめ。
見よ。わたしは来て、あなたがたのただ中に住む。

 ――主の御告げ――
主は、聖なる地で、ユダに割り当て地を与え、
エルサレムを再び選ばれる』
すべての肉なる者よ。主の前で静まれ。
主が立ち上がって、その聖なる住まいから来られるからだ」(ゼカリヤ2:10~13)と仰って。

今日も。

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「あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ」と

わたしはわが群れを救い、
二度と略奪にさらされないようにする。
エゼキエル書34:22

 キリストは教会を愛し、
教会のためにご自分をお与えになった。
エフェソ書5:25

 コロサイ書1:9~14
 ゼカリヤ書2:1~9(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句12/6;水)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、仰せられるのだそうです。

「わたしは失われたものを捜し、
迷い出たものを連れ戻し、
傷ついたものを包み、
病気のものを力づける。

 わたしは肥えたものと強いものを滅ぼす。
わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。
見よ。わたしは、羊と羊、雄羊と雄山羊のとの間をさばく。
あなたがたは、良い牧場で草を食べて、それで足りないのか。
その牧場の残った分を足で踏みにじり、
澄んだ水を飲んで、その残りを足で濁すとは。

 わたしの群れは、あなたがたの足が踏みつけた草を食べ、
あなたがたの足が濁した水を飲んでいる。
見よ。わたし自身、肥えた羊とやせ衰えた羊との間をさばく。
あなたがたはわき腹と肩で押しのけ、
その角ですべての弱いものを突き倒し、
ついに彼らを外に追い散らしてしまったので、
わたしはわたしの群れを救い、
彼らが二度とえじきにならないようにし、羊と羊との間をさばく。

 わたしは、彼らを牧する一人の牧者、わたしのしもべダビデを起こす。
彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。
主、「『わたしはある』という者」であるわたしが、彼らの神となり、
わたしのしもべダビデはあなたがたの間で君主となる。
であるわたしがこう告げる」(エゼキエル34:16~24)と。


この預言から600年ほど後、
ユダヤの地に現れ、
ユダヤの指導者たちのねたみにより、ローマ兵によって十字架刑で処刑されたイエス

 イエスがその十字架での処刑を受けられたのは、
エスが私たちすべての人間を愛し、
私たちすべての人間のためにご自身をささげられた出来事だったのだそうです。

そして、イエスは、みことばにより、水の洗いをもって、
受け入れる人々をきよめて聖なるものとしてくださり、
ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、
聖く、傷のないものとして、
ご自身の前に立たせようとしていてくださるのだそうです(エペソ5:25~27新改訳)。


 〔父である神〕は、私たちを暗やみの圧政から救い出して、
愛する御子、イエスのご支配の中に移し、
この御子のうちにあって、私たちを贖(あがな)い、
罪の赦しを与えようとしていてくださるのだそうです。

エスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
私たちを、あらゆる霊的な知恵と理解力によって、
神の御心に関する真の知恵に満たし、
主イエスにかなった歩みをし、
あらゆる点で主に喜ばれ、
あらゆる善行のうちに実を結び、
神を知る知識を増し加えてくださり、
神の栄光ある権能に従い、あらゆる力をもって強くしてくださり、
忍耐と寛容を尽くすものとし、
光の中にある、聖徒の相続分にあずかる資格を
私たちに与えようとしていてくださるのだそうですから(コロサイ1:9~14)。

 

 イエスは、栄光の王として、
その聖なる御住まいから再び来られて、
私たちのただ中に住んでくださり、
正しく、公正な裁きをし、
火の城壁となって守ってくださるのだそうです。
「あなたがたに触れる者は、わたしのひとみに触れる者だ」と(ゼカリヤ2:1~13)。

 この方の御思いの中へと。

今日も。

 

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イエスに関する証言の言葉を心に留めながら

モーセの言葉:
あなたたちは、
今日私が証言するすべての言葉を心に留めなさい。
それは、決してむなしい言葉ではなく、
あなたたちの命である。
申命記32:46、47

 神から遣わされた一人の人がいた。
その名はヨハネである。
彼は光ではなく、
光について証しするために来た。
ヨハネ1:6、8

 ヘブル書10:32~39
 ゼカリヤ書1:7~17(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句12/5;火)

 イスラエルの民をエジプトでの奴隷状態から脱出させ、
40年にわたって、荒野での生活を指導したモーセは、
この地上での生涯を終えるに際し、民にこのように語ったのだそうです。
「私が証言するすべての言葉を心に留め、心に納めなさい。
それは空しい言葉ではなく、いのちのことばだから」と。

使徒ヨハネは、
エスがキリスト(救い主)としての公生涯に入られる直前に世に現れ、
人々に、心を方向転換して神に立ち返るよう説いたバプテスマのヨハネのことを、
「光について証しする者」と言っています。

エスは、旧約聖書のすべてが、
「わたしについての証言」だと言っておられるのだそうです(ヨハネ5:39)。

 それは、むなしい言葉ではなく、私たちの命だから、
心に留めていなさいということでしょうか。

 ヘブル書の記者は言います。
「あなたがたは、光に照らされて後、
苦難に会いながら激しい戦いに耐えた初めのころを、思い起こしなさい。
人々の目の前で、そしりと苦しみを受けた者もあれば、
このようなめにあった人々の仲間になった者もありました。
あなたがたは、捕らえられている人々を思いやり、
また、もっとすぐれた、いつまでも残る財産を持っていることを知っていたので、
自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。
ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。
それは大きな報いをもたらすものなのです。
あなたがたが神のみこころを行って、
約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。
『もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。
おそくなることはない。
わたしの義人は信仰によって生きる。
もし、恐れ退くなら、私のこころは彼を喜ばない。』

私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、
信じていのちを保つものです」(ヘブル10:32~39新改訳)と。

天の神、主、「『私はある』という者」と名乗られる方は、
「万軍の主よ。
いつまであなたはエルサレムとユダの町々に、あわれみを施されないのですか」との問いに答えて言われたのだそうです。
「わたしは、エルサレムとシオンを、ねたむほど愛した。
しかし、安逸をむさぼっている諸国の民に対しては大いに怒る。
わたしが少ししか怒らないでいると、彼らはほしいままに悪事を行った。
わたしは、あわれみをもってエルサレムに帰る。
そこにわたしの宮が建て直される。
  ――万軍の主の御告げ――
測りなわはエルサレムの上に張られる。
わたしの町々には、再び良いものが散り乱れる。
主は、再びシオンをなぐさめ、
エルサレムを再び選ぶ」(ゼカリヤ1:12~17)と。

これは、直接には、
バビロン捕囚からの帰還によって第二神殿が建てられる預言のようですが、
この歴史の終わりには、
今はない神殿が、
第三神殿が建てられると受け取っている人も多いようです。

そして、イエスが、三度目に来られて、オリーブ山に立たれ(地上再臨)、
エルサレムの、今は閉じられている東側の門、「黄金門」から入られると。

 「神は、天の高い所におられて、すべて世はこともなし」ではなく、
天の神、主はのこの世界に働いておられる方、
この人間の歴史を導いておられる方、なのだそうです。


 その計画に従って、
私たち一人ひとりにも計画を持っていてくださり、
エスを通して私たちに来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
その御思いを、私たち、それぞれの心に置いてくださり、
私たちも、ご自身と心を一つにする者として用いようと思っていてくださるようです。
だから、証言の言葉を心に留めていなさいと。

今日も。

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新しい天と新しい地を受け継ぐ者にしていただいて

見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。
初めからのことを思い起こす者はない。
それはだれの心にも上ることはない。
イザヤ書65:17

 主人の帰りを、
すぐに戸を開けようと
待っている人のようにしていなさい。
ルカ12:36

 Ⅰペテロ1:(8~9)10~13
 ゼカリヤ書1:1~6(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句12/4;月)

天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方が仰っているのだそうです。

「わたしは新しい天と新しい地を創造する」と。
それは今の世界のことをだれも思い出しもしないほど、素晴らしいのだそうです。

 それで、主人が婚礼から帰って来るのが夜中であろうと明け方であろうと、
すぐに戸を開けようと待っている人のように、
エスが私たちを迎えに、2度目に来られるその日を待ちながら、
一日一日を、落ち着いた生活をしていなさい(Ⅰテサロニケ4:11)と言っておられるのだそうです。

 昔の預言者たちも、この救いについて、
自分たちのうちにおられるキリストの御霊が、
キリストの苦難とそれに続く栄光を前もってあかしされたとき、
だれを、また、どのような時をさして言われたのか、熱心に尋ね、細かく調べたのだそうです。

 そして今や、それらのことは、
天から送られた聖霊によって、私たちに福音を語った人々を通して、
告げ知らされているのですね。


 ですから、心を引き締め、身を慎み、
イエス・キリストの現れのときにわたしたちにもたらされるという、
その恵みを、ひたすら待ち望んでいなさい(Ⅰペテロ1:10~13)、と勧められているのだそうです。

 万軍の主はこう仰せられる。
「わたしに帰れ。
そうすれば、わたしもあなたがたに帰る」と(ゼカリヤ1:3)。

 天での、神の独り子の座を後にして、
人として人の世に来られ、
私たちの身代わりになり、
私たちのそむきの責任のすべてをご自分の身に背負って、
十字架刑での処刑を受けてくださり、
墓に葬られ、
三日目に死人の中からよみがえり、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエス

 そのイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方。
この方が、
〔父である神〕が私たち一人一人に思っておられる御思いを
私たちの心に置いてくださるので、
私たちの心にも、〔父である神〕の御思いが来るようになり、
私たちも、〔父である神〕と思いを同じくし、心を一つにして、
〔父である神〕が私たちを通してしようと思われることをしていくように
してくださっているのだそうですから。

 もはや、死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない、
神ご自身がともにいてくださる、素晴らしい御国を
わが故郷と望みつつ。

今日も。

 

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