風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

知恵と理解力をいただけるのだそうです。聖である霊と呼ばれる方によって

主を畏れることは知恵の初め。箴言1:7

 パウロの手紙:
私たちは、絶えずあなたがたのために祈り、
“霊”によるあらゆる知恵と理解によって、
神の御心を十分に悟るように願っています。
コロサイ書1:9

 ルカ5:33~39
 申命記19:1~13(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句2/13;火)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方を畏敬すること、
愛し、尊敬することは知恵の初め、なのだそうですね。

 私たちも、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心に来る知恵と理解によって、
〔父である神〕の御思いを十分に悟ることが出来るようにしていただけるのだそうです。

 イスラエルにおいては、天の神、主の知恵と御心によって、
今から3500年ほど前においてさえ、
殺人者が復讐する者の手から逃れ、生きることが出来るよう、
一定の距離のところに、逃れの町を制定していたのだそうです。

 以前からその人を憎んでおらず、
知らずに隣り人を殺してしまった人が生きられるように。

 血の復讐をする者が、憤りに燃え、その殺人者を追いかけ、
道が遠いために、その人に追いついて、打ち殺すようなことがあってはならない。
その人は、以前から相手を憎んでいたのではないから、
死刑には当たらないから(申命記19:1~13)、と。

 十字架刑での処刑を受けてくださり、墓に葬られ、
三日目に死人のうちより、新しい霊のからだに復活されたイエス

 そのイエスを通して来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
私たちの内にも来て、
知恵に満ちた〔父である神〕の御思いを、
私たちの心に置いてくださるのだそうですから。
今日も。

 

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“霊”のままに、他の言葉で話し始めて

さまざまな風を伝令とし、
燃える火を御もとに仕えさせられる。
詩104:4

 突然、激しい風のような音が天から聞こえ、
彼らの座っていた家中に響いた。
そして炎のような舌が現れ、
一人一人の上にとどまった。
一同は聖霊に満たされ、
“霊”のままに、
ほかの国々の言葉で話し出した。
使徒2:2~4

 ルカ13:31~35
 申命記18:9~22(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句2/12;月)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
風を伝令、ご自分の使いとし、
燃える火、焼き尽くす火をご自分に仕えるもの、召使として用いられる方なのだそうです。

 あの日も、激しい風の音をとどろかせ、
舌のような炎を送られたようですね。
“霊”、〔聖である霊」と呼ばれる方が、約束のとおりに、
エスの弟子たちのところに来られたことを具体的に表すために。

天の神、主は、モーセを通しても言われました。
「あなたの神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
あなたのうちから、あなたの同胞の中から、
私(モーセ)のようなひとりの預言者をあなたのために起こされる。
彼に聞き従わなければならない」(申命記18:15新改訳)。

「わたし(天の神、主)は、彼らの同胞の内から、
彼らのためにあなた(モーセ)のようなひとりの預言者を起こそう。
わたしは彼の口にわたしのことばを授けよう。
彼は、わたしが命じることをみな、彼らに告げる。
わたしの名によって彼が告げるわたしのことばに聞き従わない者があれば、
わたしが彼に責任を問う」(申命記18:18~19)。と。

 そして、さらに、
「預言者が主の名によって語っても、
そのことが起こらず、実現しないなら、
それは主が語られたことばではない」(申命記18:22)、と。

エスは、モーセが言っている「あの預言者」(ヨハネ1:21)として来られた方なのだそうです。
エスは言われました。
「よく見なさい。
わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人をいやし、
三日目に全うされます。
だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んでいかなければなりません。
預言者がエルサレム以外のところで死ぬことはありえないからです」(ルカ13:32~33)、と。

そして、そのイエスの言葉はそのとおりに実現したのだそうです。
エスは、エルサレムで十字架刑での処刑を受けられ、
近くにあった、アリマタヤのヨセフが自分のために掘っておいた墓に葬られ、
三日目の日曜日の早朝、新しい霊のからだに復活し、
私たちのための救いの御業を全うされたのだそうですから。

 イエスは、天の〔父である神〕の右の座に帰られるとき、
弟子たちに言い残していかれたのだそうです。
エルサレムを離れないで、
わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
ヨハネは水でバプテスマを授けたが、
もう間もなく、あなたがたは聖霊バプテスマを受けるからです」(使徒1:4~5)、と。

 そして、それから10日後のペンテコステ(五旬節)の祭りの日、
待ち望んでいた弟子たちに、そのイエスの言葉のとおりに、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が来られて、
弟子たちは、〔聖である霊〕が心に置かれる
〔父である神〕の御思いのままに語ることを始めたのだそうです。

 エレミヤやエゼキエルが預言していたとおりに(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。
そして、2000年を経ている私たちにも。

今日も。

 

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心に行き来する思いの、一つ一つを見ていただきながら

今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。
人の子について預言者が書いたことは
みな実現する。
ルカ18:31(2/11の週の聖句)

 災いだ、
主を避けてその謀
(はかりごと)を隠す者は。
彼らの業は闇の中にある。
彼らは言う。
「誰が我らを見るものか。
誰が我らに気づくものか」と。
イザヤ書29:15

 イエスの言葉:
真理に属する人は皆、
わたしの声を聞く。
ヨハネ18:37

 マルコ8:31~38
 詩31(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句2/11;Ⅱ日)

 イエスは、これから、
最後のエルサレム上りをしようとされている時、
こう言われたのだそうです。

 

ヨルダン川ヨハネから洗礼を受けられて、
キリストとしての活動を始められてから三度目のエルサレム上りをしようとされている時。

預言者を立て、予告しておられたそのこと、
「人の子は異邦人に引き渡され、
そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。
彼らは人の子をむちで打ってから殺します。
しかし、人の子は三日目によみがえります」(ルカ18:32~33新改訳)。

「人の子は必ず多くの苦しみを受け、
長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、
三日目によみがえらなければならない。
だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、
自分の十字架を負い
(自分がこれから十字架刑で処刑される者として、
自分が処刑される、その十字架を負って。
エスの十字架刑の処刑が完了している今は、
自分は十字架刑で処刑された者、死んだもの、と認めて)、
わたしについて来なさい」(マルコ8:31、34)、と。

 このように天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
これからしようとしておられることを、
預言者たちをとおし、
また、それが記録された「聖書」をとおし、
また、内に来てくださっている〔聖である霊〕と呼ばれる方によって
私たちに示し、
私たちの願いとし、こころざしとして、
私たちと思いを一つにしようとなされる方なのだそうです。

しかし、私たち、「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になって(創世記3:5、22)、
天の神、主に背き、対立、対抗している「的外れ」の者は、
自分の心を、謀(はかりごと)を隠し、
隠れて、暗やみで事を行おうとする性質を持っているようです。
アダムとエバが、自分の裸をいちじくの葉で隠し、
神から隠れようと、木の間に身を隠したように(創世記3:7~8)。

しかし、私たちに代わって十字架刑での処刑を受けてくださり、
墓に葬られ、三日目に死人の中から新しい霊のからだに復活したイエスのもとに行くなら、
「的外れ」のままの、真実の、本当の、ありのままの思いを差し出し、
見ていただき、知っていただくなら、
光に照らされた、光の中の出来事、
明るい、解放された出来事にしていただけるのだそうです(エペソ5:13~14)。

 私たち、暗闇の者で、自分のダメなところ、失敗を隠していく者ですが、
光である方の前に差し出し、見ていただき、知っていただいて、
光に照らされた、光の中の出来事、
私の思いのすべてが神の中にあるようにしていただいて、
明るみの中を生きるようにしていただけるのだそうです。
天の神、主と、思いを一つにする者に、と。

ダビデのようにうたいながら。

「主よ。私はあなたに身を避けています。
私が決して恥を見ないようにしてください。
あなたの義によって、私を助け出してください。
私に耳を傾け、早く私を救い出してください。
私の力の岩となり、強い砦となって、私を救ってください。
あなたこそ、私の巌、私の砦です。
あなたの御名のゆえに、私を導き、
私を伴ってください。
私をねらってひそかに張られた網から、
私を引き出してください。
あなたは私の力ですから。」(詩篇
3114)、と。
この新しい週も。



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キリストの平和が、内にも、周りにも満ちて

主は、
あなたの国境に平和を置いてくださる。
詩147:14

 キリストの平和にあずからせるために、
あなたがたは召されて
一つのからだとされたのです。
コロサイ書3:15

 マタイ13:31~35
 申命記17:14~20(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句2/10;土)

天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
私たちの国境に、地境に平和を置いてくださる方なのだそうです。
私たちの家の門のかんぬきを強め、
その中にいる子らを祝福し、
最良の小麦で私たちを満たしてくださる方。

 〔御子である神〕、イエスの十字架刑での処刑と死者の中からの復活、
そして、そのイエスを通して来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
私たち自身の内面にも、周りとの関係においても
平和を与えてくださるのだそうです。

 ちょうど、からだにはいろいろな部分がありながら、
それぞれの部分が、自分の思いで、自分勝手に動くのではなく、
一つの人格によって、その思いのとおりに、一つのからだとして調和された動きをするように。

そして、イエスは、この出来事は、
イスラエル地方の「からし種」のようなものだと言われるのですね。
野菜の中で最も小さい、針の先でちょっと突いた跡くらいの大きさの種。
最初は、あるのか、ないのか、分からないような小さな出来事が、
そうこうしているうちに成長して、どの野菜よりも大きくなり、
空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどに大きくなる。
その「からし種」のようだと。

 また、「パン種」のようだと。
指の先一つまみのパン種、酵母菌が、
3サトン(39リットル)の小麦粉の全体を膨らませるようだ(マタイ13:31~33)、と。

 そして、モーセを通しても言われるのですね。
王(治世者)を立てるときは、神である主が選ばれた者を立てるように、と。
自分の思いで国を治めるのではなく、
天の神、主の御心を聞きながら、
主の御心のとおりに治める者を王(治世者)とするように、と。

 そして、王は、馬を多く増やしてはならない。
多くの妻をもってはならない。
自分のために金銀を非常に多く増やしてはならない。
聖書を通して神の御思いを学び、
高ぶることなく、これを行うなら、
長くその国を治めることが出来るから(申命記171420)、と。

 キリストの平和は、私たちの内にも来て、
成長し、ふくらみ、満ちあふれて流れ出し、
周りにも大きく影響していくようになるのだそうですね。
自分の内に、家庭に、地域社会に、国に、そして、世界へと。
天の神、主との対立、対抗ではなく、
御思いと一つに、調和していく在り方へ、と。
〔聖である霊〕と呼ばれる方は、働いておられるのだそうですから。
今日も。

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救いと祝福は、天の神、主から来るのだそうですから

救いは主のもとにあります。
あなたの祝福があなたの民の上にありますように。
詩3:9

 神が私たちを救い、
聖なる招きによって、呼び出してくださったのは、
イエス・キリストにおいて与えられた
ご自身の計画と恵みによるのです。
Ⅱテモテ1:9

 Ⅱテモテ3:10~17
 申命記16:18~20(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句2/9;金)

天の神、主、「『わたしはある』という者と名乗られる方は、
世界の始まる前から、創造の初めから、
ご自身の計画を立てていてくださったのだそうですね(エペソ1:4)。
私たち人間を救い、祝福する恵みの計画を。

 私たち人間を、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)、
ご自身と同じように、心を一つにする者として造っても、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」(創世記3:5、26)になって、
サタンと同じようにご自分に背き、対立、対抗する者になってしまうことを見越したうえで。


 〔父である神〕は、その計画のとおりにこの人間の歴史を導き、
〔御子である神〕は、その計画の時が満ちて、
人として、「女の子孫」(創世記3:15)として、
処女マリヤの胎を通して人の世に宿られ、
ご計画のとおりに、神に呪われた者として、木にかけられ、
十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。

〔父である神〕は、墓に葬られた、人となられた〔御子である神〕、イエスを、
三日目、日曜日の早朝、墓より、死人の中より新しい霊のからだに復活させ、
天のご自身の右の座に帰らせ、
このイエスを通して、
もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる神を受け入れる者に派遣し、
この方によってご自身の御思いを、私たち人間の心に置いてくださって、
受け入れる者が、愛において、自由意思で、自発的に、
ご自身と思いを同じくし、心を一つにすることが出来るようにしていてくださるのだそうです。
「われわれのかたち、われわれに似た」者に回復しようと。

 〔父である神〕は、この救いの計画を、
イスラエルの歴史の中で啓示し、実行して、
それを「聖書」として記録させ、
今、東の果ての日本にいる私たちにも知らせ、招いていてくださるのだそうです。


「聖書」はすべて、神の霊感によるもので、
教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益(Ⅱテモテ3:16)、なのだそうですから。「聖書」によって、私たちも、
すべての良い働きのためにふさわしい十分に整えられた者としていただけるのだそうです。

モーセが、町ごとに、部族ごとに、さばきつかさと、つかさたちを任命し、
正しいさばきをもって民をさばかせたように(申命記16:18)。

〔父である神〕の御思い、〔父である神〕がしようと思われること、
その救いと祝福が、
今、私たちが置かれている、その場に成っていくようにと。
今日も。

 

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安息日の休みを残してくださっているのだそうですね。私たちにも。

彼らは安らかに住み、
彼らを恐れさせるものはない。
エゼキエル書34:28

 安息日の休みが
神の民に残されているのです。
ヘブル書4:9

 Ⅰテサロニケ1:2~10
 申命記16:1~17(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句2/8;木)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
預言者エゼキエルを通して言われます。

「わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデを起こす。
彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。
わたしは彼らと平和の契約を結び、悪い獣をこの国から取り除く。
彼らは安心して荒野に住み、森の中で眠る。
わたしは彼らと、わたしの丘の回りとに祝福を与え、季節にかなった雨を降らせる。
それは祝福の雨となる。
野の木は実をみのらせ、地は産物を生じ、
彼らは安心して自分たちの土地にいるようになる。
彼らは二度と諸国の民のえじきとならず、この国の獣も彼らを食い殺さない。
彼らは安心して住み、もう彼らを脅かす者もいない。
わたしは彼らのためにりっぱな植物を生やす。
彼らは二度のその国でききんに会うこともなく、
二度と諸国の民の侮辱を受けることもない。
そのとき、彼らは、わたしが主で、彼らとともにいる彼らの神であり、
彼らはイスラエルの家がわたしの民であることを知ろう。
 ――神である主の御告げ―― 
あなたがたはわたしの羊、わたしの牧場の羊である。
あなたがたは人で、わたしはあなたがたの神である。
 ――神である主の御告げ――」(エゼキエル34:23~31新改訳)、と。

 

 そして、この国に入る、安息の休みは、

エスによって神の民としていただいた者のためにも、
まだ残っているのだそうです。

 それは、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、
すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエス
(二度目に)天から来られる(Ⅰテサロニケ1:10)、その日に実現するのだそうです。

 それで、イスラエルの民が、
神が創造の御業を完成されて休まれた週の終わりの日を
安息日として休み、
年に三度、出エジプトのとき小羊がほふられた過ぎ越しの祭り、
七週の祭り(ペンテコステ、五旬節)、
仮庵の祭りを守り、
神の前に出て、食べて喜んだように(申命記16:1~17)、
エスによって、この安息の休みに入る希望をいただいた者たちは、
エスが復活された週の初めの日、日曜日に集まるのだそうです。
落後する者がないように(ヘブル4:11)、
待ち望み続けるように、と。
今日も。

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野ぶどうの木も、栽培種の良いぶどうを接ぎ木していただければ、

ヤコブは眠りから覚めて言った。
「ここは、なんと畏れ多い場所だろう。
これはまさしく神の家である。
そうだ。ここは天の門だ。」
創世記28:17

 言(ことば)は肉となって、私たちの間に宿られた。
私たちはその栄光を見た。
それは父の独り子としての栄光であって、
恵みと真理とに満ちていた。ヨハネ1:14

 ルカ6:43~49
 申命記15:12~18(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句2/7;水)

 双子の、弟のヤコブ
エサウのかかとをつかんで生まれて来たのだそうです。
草食系男子?だったのでしょうか。
エサウが漁師で、父イサクに愛されていたの対し、
ヤコブは羊を飼う者となり、母リベカに愛されていたのだそうです。

 そして、兄エサウが飢え疲れて野から帰って来たとき、
ちょうど、煮ていた赤いレンズ豆、一杯で長子の権利を売り渡させたのだそうです。

さらに、父イサクが、年をとり、目も見えなくなり、
長子エサウを祝福(遺言のような)しようとしたとき、
エサウに扮装して、エサウに成りすまして父をだまし、
その祝福を自分が取ったのだそうです。

 それで、エサウは、「父の喪の日も近づいている。
そのとき、弟ヤコブを殺してやろう」と思っていたのだそうですが、
それが、母リベカに知れて、
リベカはヤコブを、自分の実家、
バダン・アラム(ハラン。ユーフラテス川の上流、トルコに近い所)の、
自分の兄ラバンのもとへ逃がすのですが、
その旅の途中での野宿の時のことなのですね。
夢で、天から地に向かっての、はしご(階段)があり、
神の使いたちが上り下ししていたのだそうです。

そして、天の神、主がヤコブのかたわらに立っておられ、仰せられたのだそうです。
「わたしはあなたの父アブラハムの神、イサクの神、主、「『わたしはある』という者」である。
わたしはあなたが横たわっているこの地を、あなたとあなたの子孫とに与える。
あなたの子孫は、西、東、北、南へと広がり、
地上のすべての民族は、あなたとあなたの子孫によって祝福される。
見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこに行ってもあなたを守り、
あなたをこの地に連れ戻そう。
わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」、と。

そして、それから歴史は1800年ほど降って、
そのヤコブの子、ユダ、その子孫であるダビデの子孫、マリヤの胎を通して、
〔父である神〕の言(ことば)の位置におられる〔独り子である神〕が、
人として、人間の歴史の中に幕屋(神殿)を張られた(肉体をとって来られた)のだそうです。

エスは、そのような方だから、


「この神殿をこわしてみなさい。
わたしは、三日でそれを建てよう」と仰ったのでしょうね(ヨハネ2:19)。

エスは、「悪い実を結ぶ、良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。
いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。
良い人は、その心の良い倉から良いものを出し、
悪い人は、悪い倉から悪い物を出します」(ルカ6:43~45)と仰られました。

 「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている
私たちの〔生まれたときからの霊〕という倉からは、
天の神、主を愛する心、この方と心を一つにしようとする思いは出て来ないのですね。

 

 けれども、イエスは、私たちが良い木になる道を開いてくださったのだそうです。
この、私という木を、惜しむことなく、根元からバッサリと切り落として
(イエスに合わせていただいて、十字架刑で処刑されたもの、死んだものとしていただいて)、
良い木の芽を接ぎ木して(〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣して)いただいて、
この方(良い倉)から来る御思いによって生きる者にしていただけるのだそうですから。

 

 それで、私たちも、土台なしで砂の上に家を建てる
(「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている
〔生まれたときからの私〕という霊から出て来る思いによって生きる)生き方から、
岩の上に土台を据え、その上に家を建てる
(〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心に来る〔父である神〕の御思いによって生きる)
生き方(ルカ6:47~49)に取り換えていただけるのだそうです。
神の家、天の門として、恵みと真理の中へと。

今日も。

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