風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

心安らかな、愛し合う関係に、私たちを回復して

肥えた牛を食べて憎み合うよりは、
青菜の食事で愛し合うほうがよい。
箴言15:17

 パウロの手紙:
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、
愛がなければ、
私は騒がしいどらや、やかましいシンバル。
Ⅰコリント13:1

 ヨブ記9:14~23、32~35
 ヨハネ14:1~14(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句3/13;火)

 青菜、野菜を食べて愛し合うのは、
高級な牛肉を腹いっぱい食べて憎み合うより良い、

わずかな物を持っていて、
天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方を畏れ敬うのは、
多くの財宝を持っていて恐慌、恐怖のうちにいるよりはよい、のだそうです。

深い霊的体験をし、霊的な大きな業が出来るようになっても、
愛がなければ、邪魔なだけ、うるさいだけのようです。

私たちは、時には、
悪いことをしていないのに、潔白であるのに、悪いとされる、
ゆえなく、苦しみに遭うことがあります。

 そして、正しいさばきを求めて神に叫び求めても、
神は返事をなさらない、
私たちの声に耳を傾けてくださるとは思えないような時が(ヨブ9:14~23)。

けれども、〔父である神〕は、私たちを愛し、大切に思っていてくださって、
〔御子である神〕を、私たちを仲裁する者、弁護する者として
立てていてくださるのだそうです(ヨブ9:32~35)。
私たちが、心騒ぐときも、安心しておられるように(ヨハネ14:1~3)と。

 

この方、イエスが、ご自分のいのちを、
私たちの贖い代(あがないしろ)、買い戻しの代金、
なだめの供え物として差し出し、
私たちに代わって十字架刑での処刑を受けてくださって、
仲介者、弁護者となってくださり、
私たちが、〔父である神〕に帰る道となっていてくださるのだそうですから(ヨハネ14:6~9)。

エスは、処刑され、
墓に葬られ、
三日目に新しい霊のからだに復活され、
40日に渡って何度も弟子たちに現れて神の国のことを語り、
ご自分が生きていることを見せたのち、
オリーブ山から、
弟子たちが見守る中で、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたのだそうです。

その、〔父である神〕の右の座にあって、
もう一人の助け主、〔聖である霊〕と呼ばれる方を
受け入れる者に派遣してくださるのだそうです。

この方が、私たちの心に、
〔父である神〕が、私たちひとりひとりに思っておられる御思いを
置いてくださり(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)、

 また、私たちの思いを〔父である神〕に届け、
執り成してくださるので(ロマ8:26~27)、
〔父である神〕の御思いが私たちの内にあり、
私たちの思いが〔父である神〕の内にあるようになり、
受け入れる者は、〔父である神〕と心を一つにする者にしていただいて、
〔父である神〕が一人一人を通してしようと思われることをしていく者になるのだそうです。

 それで、イエスは、
これを受け入れている者が、
エスの名によって何かを求めるなら、
「それをしましょう」と仰ってくださっているのですね(ヨハネ
141020)。
〔父である神〕の愛の思いが、
私たちの間に実現するために。
今日も。

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岩の上を、しっかりとした、確かな歩みを

主は、滅びの穴、泥沼から私を引き上げ、
私の足を岩の上に立たせ、
しっかりと歩ませてくださった。
詩40:3

 イエスの言葉:
はっきり言っておく。
死んだ者が神の子の声を聞く時が来る。
今やその時である。
その声を聞いた者は生きる。
ヨハネ5:25

 ヨハネ6:26~35
 ヨハネ13:31~38(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句3/12;月)


 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
ご自身を待ち望む者、
ご自身に叫び求める者の声を聞き、
滅びの穴、底なしの泥沼から私たちを引き揚げ、
堅い岩の上に立たせ、
しっかりとした、確かな歩みを歩ませてくださる方なのだそうですね。
岩盤を土台として建てた家のように(ルカ6:46~49)。

私たちは、天の神、主からさまよい出て、
神なく、望みなく、滅びに向かって歩んでいる者、
滅びが定まっている者なのですが、
神の声を聞き、生きるものになる、その時が来ているというのですね。

〔父である神〕が
ご自分のうちにいのちを持っておられるように、
〔子〕にも、
自分のうちにいのちを持つようにされているのだそうですから(ヨハネ5:26)。

エスは、ご自身のことを、
「天から下って来た神のパン」だと仰られました(ヨハネ6:35)。
「これを食べる者は永遠に生きる」(ヨハネ6:51)、と。

 私たちのからだは、食べた物によってできており、
食べた物がからだの中にあり、
ある意味で、からだは食べた物の中にある、
食べた物とからだが一つだ(ヨハネ17:21~22)、ということができるでしょうか。

 イエスは、十字架刑での処刑を受けて死んでくださいました。
私たちは、そのイエスに合わせていただいて、
私自身である、
「神のひとりのようになり、善悪を知る者になっている」(創世記3:5、22)、
〔生まれたときからの私〕という霊を
十字架刑での処刑が済んだもの、
死んだもの、と手続きをしていただけるのだそうです。

そして、三日目の日曜日の早朝、
死人の中から、新しい霊のからだに復活され、
40日に渡って何度も弟子たちに現れ、神の国について語った後、
オリーブ山から、
弟子たちのみている前で、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエス

そのイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方。
〔父である神〕は、
受け入れる者をこの方で覆い、
この方の中に浸し、沈め、漬け込み、満たし、バプテスマして、
ご自身が私たちひとりひとりに思っておられる御思いを
受け入れる者の心に置いてくださって、

また、この方が、
私たちの思いを〔父である神〕にとりなしてくださって(ロマ8:26~27)、

〔父である神〕の御思いが受け入れる者の内にあり、
受け入れる者の思いが〔父である神〕の中にあるようにしてくださるのだそうです。
一つになっている者。いのちのパンを食べた者に。

 それで、この、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
〔父である神〕のひとりひとりに対する愛の御思いが心に来ているなら、

その人は、イエスといういのちのパンを食べた者、
エスと一つになっている者、
エスの弟子であることが
周りの人に分かるようになる(ヨハネ15:34~35)、というのですね。

 

 底なしの泥沼に沈んでいた者が、岩の上に引き上げられ、
岩の上を(父である神の御思いの中を)歩んでいる者に、
新しい人生を生きる者になっていることが。
今日も。

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一粒の麦が地に落ちて死ぬように

一粒の麦は、
地に落ちて死ななければ、
一粒のままである。
だが、死ねば、
多くの実を結ぶ。
ヨハネ12:24(3/11の週の聖句)

 神よ、僕の祈りと嘆願に耳を傾けて、
荒廃した聖所に
主ご自身のために
御顔の光を輝かしてください。
ダニエル書9:17

 小さな群れよ、恐れるな。
あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。
ルカ12:32

 ヨハネ12:20~26
 詩57(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句3/11;Ⅱ日曜日)

ダニエルは、捕囚の地、バビロンにあって、
荒れ果てている聖所、イスラエルの神殿のために
嘆願の祈りをささげたのだそうです。

 「主よ。あなたのすべての正義のみわざによって、
どうか御怒りと憤りを、
あなたの町エルサレム、あなたの聖なる山からおさめてください。
私たちの罪と私たちの先祖たちの悪のために、
エルサレムとあなたの民が、
私たちを取り囲むすべての者のそしりとなっているからです。
私たちの神よ。
今、あなたのしもべの祈りと願いとを聞き入れ、
主ご自身のために、
御顔の光を、あなたの荒れ果てた聖所に輝かせてください」(ダニエル9:16~17新改訳)、と。

 そして、イエスは、
多くの実を結ぶために一粒の麦が地に落ちて死ぬように、
神の民、イスラエルだけでなく、
イスラエルの国籍がなく、神なく、望みなく生きている、私たち異邦人も、
天の神、主、「『私はある』という者」と名乗られる方に仕える者となり、
エスがいる所にいるようになるために(ヨハネ12:20~26)、
自分からすすんで、
十字架刑での処刑を受けて死んでくださったのだそうです。


私たちに神の国をくださろうと。

 それで、私たちも、
エスによって、この神の国をいただき、歌うのですね。

「主よ。
私は国々の民の中にあって、あなたに感謝し、
国民の中にあって、あなたにほめ歌を歌いましょう。
あなたの恵みは大きく、天にまで及び、
あなたのまことは雲にまで及ぶからです」(詩篇
57910)、と。
この新しい週も。

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ひとことの抗弁もせず

苦役を課せられて、かがみ込み、
彼は口を開かなかった。
ほふり場に引かれる小羊のように、
毛を刈る者の前にものを言わない羊のように。
イザヤ書53:7

 はっきり言っておく、
一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、
一粒のままである。
だが、死ねば、多くの実を結ぶ。
ヨハネ12:24

 ガラテヤ6:(11~13)14~18
 ヨハネ13:21~30(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句3/10;土)

 その方、イエスは、捕らえられ、不当な裁判にかけられたのですが、
捕らえられるときにも、逃げようとせず、
裁判の時も、ひとことも、自分の無罪を訴えて抗弁することをせず、
頭をたたかれ、つばきをはきかけられ、あざけられても、
それをそのまま、静かに受けておられたのだそうです。
ほふり場に引かれていく小羊のように。

ご自身が、弟子たちに話しておられたのだそうですから。
一粒の麦は地に落ちて死ぬことで、多くの実を結ぶようになる。
そのように、自分は死ぬことになる、と。

 そして、イエスは、
12弟子たちとの最後となった過ぎ越しの食事の席で、
いよいよ、その時が迫っていることを感じられ、
「まことに、まことに、あなたがたに告げます。
あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります」と言われ、

また、イスカリオテのユダ
「あなたがしようとしていることを、今すぐにしなさい」と言われたのだそうです。

そして、ユダは、外の、夜の暗闇に出て行き(ヨハネ13:21~30)、
祭司長たちのところに行って、
銀貨30枚でイエスを売り渡したのだそうです(マタイ26:14~16、27:3~10)。

 〔父である神〕は、このように、
エスが自分から進んで、
ほふり場に引かれていく小羊のように、
一粒の麦が地に落ちて死ぬように、
十字架刑での処刑を受けてくださった、
その処刑に、私たちを合わせてくださって、
世界は私に対して十字架につけられ処刑された関係、
私も世界に対して十字架につけられ処刑された、
死んだ関係としていてくださるのだそうです。

 

 そして、受け入れる者に
新しい創造をしてくださるのだそうです(ガラテヤ
61415)。

このイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
私たちの心に、
ご自身が私たち一人一人に対して持っておられる御思いを置いてくださり、
受け入れる者が、ご自身と思いを同じくし、心を一つにして、
ご自身がしようと思われることをしていく者にしてくださる。

〔聖である霊〕と呼ばれる方によって新しく生まれた者(ヨハネ3:1~8)、
新しい契約に生きる者に(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28、ガラテヤ5:24~25)、と。

今日も。

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現在、只今の、本当の、ありのままの自分を認めて

主よ、
御目は、
真実を求めておられるではありませんか。
エレミヤ書5:3

 使徒たちは主に言った。
「私どもの信仰を増してください。」
ルカ17:5

 マタイ10:34~39
 ヨハネ13:12~20(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句3/9;金)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
私たちの真実を、
本当を求めておられる方なのですね。

エスが、弟子たちに、
「もし兄弟が罪を犯したなら、彼を戒めなさい。
そして悔い改めれば、赦しなさい、
かりに、あなたに対して一日に七度罪を犯しても、
『悔い改めます』と言って七度あなたのところに来るなら、
赦してやりなさい」と言われたのだそうです。

それで、弟子たちは、そのように赦すことなど、とてもできない、
もっと信仰が増さなければ、と思ったのでしょうか。
エスに、私たちの信仰を増してくださいとお願いしたのだそうです。

 イエスは応えて言われました。
「もしあなたがたにからし種ほどの信仰があったなら、
この桑の木に、『根こそぎ海の中に植われ』と言えば、
言いつけどおりになるのです」、と。

 そして、「しもべが主人の言いつけどおりをするように、
あなたがたも、自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、
『私たちは役に立たないしもべです。
なすべきことをしただけです』と言いなさい」(ルカ17:3~10新改訳)、と。

 

私たち、自分の力、自分の努力で、信仰を増し、
深い霊的体験をし、
あれも出来、これも出来る者になろうとしている者です。

 けれども、イエスは、私たちに、
からし種ほどの、針の先でちょっと突いた痕ほどの信仰もない者、
役に立たない、あると場所ふさぎになる、ない方がいい者であると認めていきなさい、
と言われるのですね。

そういう、真実の、本当の自分を認めることができて、はじめて、
そのような自分自身を憎む者になり、
自分は、十字架刑で処刑されるはずの者だと認めることができて、
エスについて行く者になれ、
永遠のいのちを自分のものとすることができるようになるのだそうです(マタイ10:34~39)。

 「神のひとりのようになり、善悪を知る者になっている」(創世記3:5、22)
〔生まれたときからの私〕という霊を、
エスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、
処刑されたもの、死んだものと認め、計算し(ロマ
611)、
三日目に死人のうちより新しい霊のからだに復活した、
そのイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
この方が心に置いてくださる
〔父である神〕の私に対する御思いを私の思いとして生きる生き方を
受け取ることができるようになるのだそうですから(エレミヤ
313134、エゼキエル362528、ガラテヤ52425)。
今日も。

 

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救ってくださるのだそうですね。人も、動物も

主よ、
あなたは人をも獣をも救われる。
詩36:7

 空の鳥をよく見なさい。
種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。
だが、あなたがたの天の父は
鳥を養ってくださる。
マタイ6:26

 マタイ19:16~26
 ヨハネ13:1~11(通読箇所)

  (ローズンゲン日々の聖句3/8;木)

天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
人間も、獣も、救い、栄えさせてくださるのだそうですね。

 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのだそうです。
被造物自体も、滅びの束縛から解放され、
神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられるのだそうですから(ロマ:19~21新改訳)。

天の神、主は、空の鳥を養っていてくださる方。
雲で天をおおい、
地のために雨を備え、
山々に草を生えさせ
、獣に、また、鳴く烏の子に食物を与える方(詩篇147:8~9)。

私たちは、自分の力、努力で、
天の神、主と心を一つにすることができない者、
天に宝を積むよりも、
この地上の財産のほうを大切に思い、手放せない者なのですが、
私たちにはできないことも、神にはできるのだそうです。

 私たちに永遠のいのち、
天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方と
思いを同じくし、心を一つにして生きる生き方ができるようにしてくださる方(マタイ19:16~26)。

 

 私たちを愛し、
私たちの全身をきよめ、
日々、私たちの足を洗ってくださる方(ヨハネ
13111)なのですね。
今日も。

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帰りますか。招きに応えて

 見よ、
わたしは彼らを地の果てから呼び集める。
盲目の人も、歩けない人も、
身ごもっている女も、臨月の女も共に、
彼らは大いなる会衆となって帰って来る。
エレミヤ書31:8

 イエスの言葉:
わたしの食べ物とは
わたしを遣わされた方の御心を行い、
その言葉を成し遂げる事である。
目を上げて畑を見るがよい。
色づいて刈り入れを待っている。
ヨハネ4:34~35

 マタイ13:44~46
 ヨハネ12:37~50(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句3/7;水)

 天の神、主、「『わたしはある』という者」と名乗られる方は、
ご自身に属する者を地の果てから呼び集めようと思っておられるようですね。

 イエスは、その、〔父である神〕の御心を成し遂げ、実現することが、
自分の食べ物だと仰るのですね。
機は熟し、そのことはまさに起ころうとしている、と。

 イエスによるこの招きは、
畑に隠された宝を見つけた人が、
持ち物を全部売ってでも、その畑を買い取るように、

すばらしい真珠を一つ見つけた者が、
行って、持ち物先負を売り払ってそれを買い取る(マタイ13:44~46)、ように
価値のあることなのだそうです。

 イエスは、〔父である神〕と一つになっておられる方。
自分からは何事もせず、
〔父である神〕が言おうとされていること言い、
〔父である神〕が話そうとしておられることをそのまま、話しておられる、
〔父である神〕の御思いを実現なさる方(ヨハネ12:49~50)。


 〔父である神〕は、十字架刑での処刑を受けて、死に、
三日目に死人のうちから新しい霊のからだに復活された
エスが派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
ご自身が私たちひとりひとりに思っておられる御思いを、
私たちの心に置いてくださって、
私たちが、イエスのように、
〔父である神〕と心を一つにして、
「御心を行うことが、私の食べ物」と思えるようにまで、してくださるのだそうです。
神からの招きを伝えるようにと。
今日も。

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