風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

私たちの心の奥底までもご存知のうえで

 主はすべての心を探り、
すべての考えの奥底までも見抜かれる。
歴代誌上28:9

 ナタナエルが、
「どうして私を知っておられるのですか」というと、
エスは答えて、
「わたしは、あなたがフィリポに話しかけられる前に、
いちじくの木の下にいるのを見た」
と言われた。
ヨハネ1:48

 ヨナ書1:48
 アモス書4:1~13(通読箇所)
   (通読箇所)(ローズンゲン日々の聖句6/9;土)

 ダビデ王は、その子、ソロモンに遺言したのだそうです。
「わが子ソロモンよ。
今あなたはあなたの父の神を知りなさい。
全き心と喜ばしい心持をもって神に仕えなさい。
主、「『わたしはある(I AM)』という者」名乗られる方は、
すべての心を探り、
すべての思いの向かうところを読み取られるからである。
もし、あなたが神を求めるなら、
神はあなたにご自身を現される。
もし、あなたが神を離れるなら、
神はあなたをとこしえまでも退けられる。
今、心に留めなさい。
主、「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
聖所となる宮を建てさせるため、あなたを選ばれた。
勇気を出して実行しなさい」(Ⅰ歴代誌28:9~10新改訳)、と。


 イエスが、
キリスト
(神の子、救い主)としての活動を始められたころのこと、
ピリポが、イエスの所にナタナエルを連れて来たのだそうです。
(イエスがキリストかどうかを)来て、
そして、見なさい」と。

 イエスはナタナエル
バルトロマイが自分のほうに来るのを見て、
「これこそ、ほんとうのイスラエル人だ。
彼の内には偽りがない」と言われた。
ナタナエルはイエスに言った。
「どうして私をご存じなのですか。」
エスは言われた。
「わたしは、ピリポがあなたを呼ぶ前に、
あなたがいちじくの木の下にいるのを見たのです。」
ナタナエルは答えた。
「先生。あなたは神の子です。
あなたはイスラエルの王です。」(ヨハネ1:45~49)。

 ナタナエルは、イエスが、
自分の、知るはずのないことを言い当てられたので、
エスが、すべてを知っておられる方、
神の子、キリストであることを認めて、
エスについて行く者になったのだそうです。


 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は、
ヨナをアッシリア帝国の首都ニネベに派遣して、
「もう40日すると、ニネベは滅ぼされる」
と伝えさせようとされたのだそうです。

 けれども、天の神、主は、ご存知だったのですね。
ヨナが、言うことを聞かず、
タルシシュ
(スペイン)行の舟に乗って、
ニネベとは逆方向に逃げようとすることを。

 愛国者であるヨナは、
自分が、イスラエルを滅ぼそうとする敵国、ニネベで、
この神からのメッセージを伝えるなら、
アッシリアの王をはじめ、ニネベの人たちが神に立ち返り、
天の神、主は、ニネベの人たちを赦して、滅ぼさないであろうから、
伝えるのをやめて、ニネベが滅ぼされるのを見よう、
と考えるであろうことを。

 それで、嵐を起こして、船から海へヨナを投げ出すようにさせ、
大きな魚を用意して、ヨナを飲み込ませ、
ニネベに近い海岸にヨナを吐き出すようにされたのだそうです(ヨナ1~2章)。

 それで、異邦人であるニネベの人たちは、
ヨナの伝えたメッセージで、へりくだり、神に立ち返ったので
滅びを免れたのだそうです。

 すべての人の心を知る天の神、主は、
ご自分の民、北イスラエル王国の人たちが、
預言者を送っても、
また、飢饉でパンに欠乏させ、
食べる物がなくて歯がきれいになる状態にしても、
雨を降らせなくして、飲む水がないようにしても、
立ち枯れと黒穂病で麦を打ち、
いちじくとオリーブをイナゴが食い尽くすようにしても、
疫病で多くの人が死ぬようにしても、
「それでも、彼らが、ご自分のもとに帰って来ない」ことを
ご存知だったのですね(アモス4:1~13)。

 それでも、〔父である神〕はメッセージを送り続け、
最後には、ご自分の独り子を派遣して、
この方を、私たちすべての人間の身代わりとして、
すべての人のそむき、「的外れ」の責任をこの方に負わせ、
十字架刑で処刑して、
私たちのそむき、「的外れ」を処刑済み、処罰済みと
してくださっているのだそうです。

 そして、このイエスを通して、
受け入れる者に、もう一人の方、
「聖である霊」と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって、
ご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを、
私たちそれぞれの心に置いてくださって、
受け入れる者がご自身と同じ思いを思い、
一つ心になるようにしようとしていてくださるのだそうです。

 ソロモンには、イスラエルを治めさせ、
神殿を立てさせたように、
私たちにも、今置かれている場で、
ご自分がしようと思われることを私たちがしていくようにと。
今日も。

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与えてくださる栄光にふさわしい、新しい名

 主の口が定めた新しい名をもって、
あなたがたは呼ばれるであろう。
イザヤ書62:2

 羊飼いは
自分の羊の名を呼んで連れ出す。
ヨハネ10:3

 エレミヤ書20:7~11
 アモス書3:1~2、9~15(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句6/8;金)

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は言われます。
「シオンのために、わたしは黙っていない。
エルサレムのために、黙り込まない。
その義が朝日のように光を放ち、
その救いが、たいまつのように燃えるまでは。

 そのとき、国々はあなたの義を見、
すべての王があなたの栄光を見る。
あなたは、主が名づける新しい名で呼ばれよう。
あなたは主の手にある輝かしい冠となり、
あなたの神の手のひらにある王のかぶり物となる。

 あなたはもう、
『見捨てられている』と言われず、
あなたの国はもう、
『荒れ果てている』とは言われない。
かえって、あなたは、
『わたしの喜びは彼女にある』と呼ばれ、
あなたの国は夫のある国と呼ばれよう。
主の喜びがあなたにあり、
あなたの国が夫を得るからである。
若い男が若い女をめとるように、
あなたの子らはあなたをめとり、
花婿が花嫁を喜ぶように、
あなたの神はあなたを喜ぶ」(イザヤ62:1~5新改訳)、と。

 羊飼いが、自分の羊に名を付け、
その名を呼んで連れ出し、
緑の牧場、いこいの水のほとりに導くように、
天の神、主は、私たちに新しい名を付け、
その名で呼んで下さるのだそうですね。
栄光に輝く名を。


 エルサレムはバビロン王の手に渡され、
人々はバビロンへ引いて行かれるとのエレミヤの預言は成就せず、
指導者たちはエレミヤを
神に反する預言をする似せ預言者として非難し、捕らえたのですね。

 しかし、それは、すべての人がご自分に立ち返るようにと
時間を与えてくださっている
神の忍耐、寛容のゆえだったのだそうです(Ⅱペテロ3:9)。
 
 天の神、主、
「『わたしはある(IAM)』という者」と名乗られる方は、
エレミヤとともにあって、恐るべき勇士のよう。
エレミヤを迫害した者たちは、勝つことができず、成功せず、
ついに、バビロン軍によってエレミヤの預言のとおりが実現して
彼らは恥を受けることになったのだそうです(エレミヤ20:7~11)。

イスラエル王国に対しても、
天の神、主は、アモスを通して預言して言われるのですね。
「彼らは、自分たちの宮殿で、暴虐と暴行を重ねている。
わたしは、イスラエルがわたしに犯したそむきの罪を罰する。
わたしは、王の冬の家と夏の家を打つ。
その象牙をふんだんに使った家々は滅び、
多くの家々は消え失せる」(アモス3:1~2、9~15)。
そして、アッシリア軍によってそのとおりが実現したのだそうです。

 天の神、主の預言、約束のことばは必ず実現するのですね。

 〔父である神〕は、
エスが私たちに代わって受けてくださった十字架刑での処刑によって、
私たち、〔生まれたときからの私〕という霊の
そむき、「的外れ」の罪を処罰済み、処刑済みとし、
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を
死んだものとしてくださるのだそうです。

 そのうえで、このイエスを通して、
受け入れる者に〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださり、
受け入れる者を、相続権を持つ「子」とし、
受け理れる者の心にご自身の御思いを置いてくださって、
受け入れる者を、ご自身と同じ思いを持つ者とし、
一つ家族としてくださるのだそうですから。
新しい名で呼んで。
今日も。

 

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本物の自由の中へ

 民はモーセのもとに来て言った。
「私たちは主とあなたを非難して、
罪を犯しました。
主に祈って、
私たちから蛇を取り除いてください。」
モーセは民のために主に祈った。民数記21:7

 イエスは言われた。
「もし子があなたたちを自由にすれば、
あなたたちは本当に自由になる。」
ヨハネ8:36

 Ⅱコリント1:23~2:4
 ヘブル書13:1~14(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句6/5;火)

 出エジプトをしたイスラエルの民、
不信仰のゆえに、荒野での40年を過ごし、
いよいよ、約束の地に向かって進み始めました。

 しかし、民は、途中でがまんできなくなり、
民はモーセに逆らって言ったのだそうです。
「なぜ、あなたがたは私たちをエジプトから連れ上って、
この荒野で死なせようとするのか。
パンもなく、水もない。
私たちはこのみじめな食物に飽き飽きした。」

 そこで主、
「『わたしはある(I AM)』という者と名乗られる方は、
民の中に燃える蛇を送られたので、
蛇は民にかみつき、
イスラエルの多くの人々が死んだ」(民数記21:4~6)のだそうです。

 モーセは民のために祈り、
主はモーセに仰せられた。
「あなたは燃える蛇を作り、
それを旗ざおの上につけよ。
すべてかまれた者は、
それを仰ぎ見れば、生きる。」

 それで、モーセは一つの青銅の蛇を作り、
それを旗ざおの上につけたので、
蛇にかまれた人が、その青銅の蛇を仰ぎ見ると、
生きた(民数記21:7~9新改訳)のだそうです。

 イエスは言われます。
「罪を行っている者はみな、罪の奴隷です。
奴隷はいつまでも家にいるのではありません。
しかし、息子はいつまでもいます。
ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、
あなたがたはほんとうに自由なのです」、と。

 そして、神の独り子であるイエスが、
私たちの、罪、「的外れ」を赦し、自由にするために、
ご自身を私たちの身代わりに差し出し、
十字架刑での処刑を受け、木に架けられてくださったのですね。
青銅の蛇が旗ざおに上げられ、
それを仰ぎ見た者は生きたようにするために。

 使徒パウロは、
コリントの弟子たちの中にいた不品行な者、
父の妻を妻にしている者を、
彼の肉が滅ぼされても、彼の霊が救われるようにと、
彼を弟子の仲間から外してしまうようにと命じています(Ⅰコリント5:1~4、13)。
あふれるばかりの愛をもって。

 だから、その人が、その処罰によって、
自分の不品行を悲しみ、立ち返ったとき、
その人を赦し、慰めてあげるように勧めているのですね。
その人があまりにも深い悲しみに
押しつぶされてしまわないようにと(Ⅱコリンント2:4~7)。

 このイエスの十字架刑での処刑により、
「子」であるイエスによって「的外れ」を赦され、
自由な者としてもらった者に来てくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
私たちの心にも、〔父である神〕の御思い、
兄弟を愛する思い、
旅人をもてなす思い、
エスの弟子であるゆえに牢につながれている人々、
苦しめられているを思いやる思いを置いてくださるのだそうです。

 結婚を尊び、
寝床を汚す、不品行、姦淫を避ける思いも。
金銭により頼まず、
「わたしは決してあなたを離れず、
あなたを捨てない」(申命記31:6.ヨシュア1:5)
と言ってくださる方に信頼し、
「主は私の助け手です。私は恐れません。
人間が、私に対して何が出来ましょう」(詩篇118:6)
と思わせてくださるのだそうです。

 神の御言葉を話した指導者たちのことを思い出し、
彼らの生活の結末をよく見て、
その信仰にならうように。
イエス・キリストは、昨日も今日も、
いつまでも、とこしえに同じ、変わらない方であることを
知らせてくださるのだそうですから。

 さまざまな異なった教えによって心を惑わされないように。
食物の規定に気を取られるのではなく、
恵みによって心を強めるように。

 イエスが、ご自分の血によって
私たちを聖なる者とするために、
エルサレムの門の外で苦しみを受けられたように、
私たちも、キリストの辱しめを身に負い、
宿営の外に出てみもとに行く者に。
この地上に永遠の都を求めるのではなく、
後に来ようとしている都を求める者にしてくださるのだそうです。

 上げられ、十字架に架けられた
神の御子、イエスを見上げながら、
〔父である神〕がしようと思われる御業の中へと。
今日も。

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愛してくださっている、イエスの愛にとどまり

主の言葉:
彼はわたしを慕う者だから、
彼を災いから逃れさせよう。
詩91:14

 イエスの言葉:
父がわたしを愛されたように、
わたしもあなたがたを愛してきた。
わたしの愛にとどまりなさい。
ヨハネ15:9

 使徒4:(1~3)8~21
 ヘブル12:25~29(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句6/4;月)

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者」と名乗られる方は言われます。
「彼がわたしを愛しているから、
わたしは彼を助け出そう。
彼がわたしの名を知っているから、
わたしは彼を高く上げよう。
彼が、わたしを呼び求めれば、
わたしは彼に答えよう。
わたしは苦しみのとき彼とともにいて、
彼を救い彼に誉れを与えよう。
わたしは、彼を長いいのちで満ち足らせ、
わたしの救いを彼に見せよう」(詩篇91:14~16新改訳)。

 イエスも言われます。
「父がわたしを愛されように、
わたしもあなたがたを愛しました。」
だから、「わたしの愛を受け続け、止まり続けていなさい」、と。

 「的外れ」になってしまっている人間の愛は、
相手を自分の思うようにしたい、支配したいもののようです。

 けれども、イエスを通して来てくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方が
受け入れる者の心に置いてくださる、
〔父である神〕の愛の御思いは、
愛する相手と心を一つにしたい、
相手の思うことを自分も思っていたい、
相手の思うようにしてあげたい、
相手が思っているような存在になりたい、ものなのだそうです。
そして存在を一つにしたい、
相手といつも一緒にいたい、と。

 それで、私たちの心にも、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
自分のありのままの思いも知っていただきたい、
見ていていただきたい思いと共に、

 〔父である神〕の御思いも知りたい、
〔父である神〕が思っておられるとおりにしていきたい、
と願う思いも来るのだそうです。

 〔父である神〕が愛されている者を、
自分も愛したいという思いも(ヨハネ15:9~12)。

 ペテロとヨハネが、エルサレム神殿に上ったとき、
40歳余りの、生まれつき足のなえた人が運ばれて来たのだそうです。
宮に入る人たちから施しを求めるために。

 彼は、ペテロとヨハネが宮に入るのを見て、ほどこしを求めた。
ペテロは、ヨハネとともに、その男を見つめて、
「私たちを見なさい」と言った。
男は何かもらえると思って、二人に目を注いだ。
すると、ペテロは、
「金銀は私にはない。
しかし、私にあるものを上げよう。
ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、
彼の右手を取って立たせた。
するとたちまち、彼の足とくるぶしが強くなり、
おどり上がってまっすぐに立ち、歩き出した。
そして歩いたり、はねたりしながら、
神を賛美しつつ、宮に入って行った。
人々はこれを見て、驚き、あきれ、
いっせいに彼らのところに集まって来た。

 それで、ペテロは人々に言った。
「あなたがたが殺したこのイエスを、
神は死者の中からよみがえらせました。
私たちはそのことの証人です。
そして、このイエスの御名が、
あなたがたがいま見ており知っているこの人を強くしたのです。
そういうわけですから、
あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、
方向転換して、神に立ち返りなさい。
この方があなたがたを祝福して、
ひとりひとりを
その邪悪な生活から立ち返らせてくださるために」(使徒3:1~26)、と。

 それで、祭司たち、宮の守衛長たちは、彼らを捕らえたのですが、
ペテロは大胆に、
「この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、
あなたがたが十字架につけ、
神が死者の中からよみがえらせた
ナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。
この方以外には、だれによっても救いはありません。
天の下でこの御名のほかに、
私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです」と語り、
いやされた人が二人と一緒に立っているのを見ては、
ふたりを罰することもできず、
「今後、いっさい
エスの名によって語ったり教えたりしてはならない」と命じて
二人を釈放したのだそうです(使徒4:1~21)。

 このように、神は、ご自身を慕う者、ご自身の愛にとどまる者を
災いから逃れさせ、救ってくださる方、
ご自身がしようと思われる、愛とあわれみの御わざを現してくださる方。

 私たちも、語っておられる方を、
自分の考えと違うからと、拒まないようにしたいですね。

この地は揺り動かされるのだそうです。
けれども、天の神、主は、
私たちに揺り動かされない御国を与えようと
していてくださるのだそうですから(ヘブル12:25~29)。
今日も。

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人生の光である言葉に、よく、耳を傾けて

あなたがたに耳を傾ける者は、
わたしに耳を傾け、
あなたがたを拒む者は、
わたしを拒むのである。
ルカ10:16(6/3の週の聖句)

 まっすぐな人には闇の中にも光が昇る。
憐れみに富み、
情け深く、
正しい光が。
詩112:4

 喜びをもって、
光の中にある聖なる者たちの相続分に、
あなたがたがあずかれるようにしてくださった
御父に感謝するように。
コロサイ書1:12

 ルカ16:19~31
 詩76(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句6/3;Ⅰ日曜)

 イエスは、弟子たちをイスラエルの村々に派遣されるとき、
このように言って送り出されたのだそうです。

 弟子たちにご自分の御名の権威を与え、
ご自分と一体になっている者として。
 弟子たちの語ることに耳を傾ける者は、
ご自身に耳を傾けているのだと。

 そして、このようにストレートに
ご自身に、ご自身のことばに心を向ける人たちのためには、
闇の中にも光を輝かせてくださるのだそうです。
情け深く、憐みに富み、正しい光を。

 〔父である神〕は、
御子イエスによって、
また、イエスを通して派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、
ご自身の側の一方的な御業によって、
私たちを光の中にある聖なる者たちの相続分にあずかれるように
していてくださるのだそうです。

 それで、受け入れる者にうちに来られた〔聖である霊〕と呼ばれる方は、
私たちの心を、
喜びをもって御父に感謝する思いで満たしてくださるのだそうです。

 この世にいる間、毎日、ぜいたくに遊び暮らしていた金持ちと、
その門前で寝ていた、ラザロという、全身おできが出来ている貧しい人。
この貧しい人は、
金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていて、
犬もやって来ては彼のおできをなめていたのだそうです。

 この貧しい人は死んで、
御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれました。
その金持ちも死んで葬られ、
ハデス(陰府:よみ)で苦しみながら目を上げてみると、
はるかかなたに、アブラハムと、
そのふところにいるあのラザロが見えたのだそうです。

 それで、彼は叫んで言ったのだそうです。
「父アブラハムさま。私をあわれんでください。
ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、
ラザロをよこしてください。
私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。」

 するとアブラハムは言ったのだそうです。
「子よ。思いだしてみなさい。
おまえは生きている間、良い物を受け、
ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。
しかし、今ここで彼は慰められ、
おまえは悔いるしみもだえているのです」、と。

 そして、「ラザロを私の父の家に送って、
5人いる兄弟がこんな苦しみの場所に来ることのないように、
よく言い聞かせてください。
だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、
彼らは悔い改めるに違いありません」、という金持ちだった人に、

 アブラハムは、
「もし、モーセと預言者の教え、聖書の言葉に耳を傾けないのなら、
たといだれかが死人の中から生き返っても、
彼らは、聞き入れはしない」と答えたのだそうです(ルカ16:19~31新改訳)。

 だから、耳を傾け、聞くことが大切なのでしょうね。
いろいろ思う思いも、
御前に差し出し、聞いていただき、見ていただきながら。
この新しい週も。

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今はまだ、目に見えないものを待ち望んで

 あなたは私を救ってくださる神。
絶えることなくあなたに望みを置いています。
詩25:5

 私たちは、
目に見えないものを望んでいるなら、
忍耐して待ち望むのです。
ロマ書8:25

 ヨハネ14:7~14
 ヘブル書12:18~24(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句6/2;土)

 天の神、主、
「『わたしはある(I AM)』という者である」と名乗られる方は、
私たちを救ってくださる方。
私たちの望みはこの方にあるのですね。

 私たちは、目に見えないもの、
この方ご自身、
この方の御思いが、地に、
私自身になることを待ち望むようにしていただいている者、なのです。

 十字架刑での処刑を受けて、死んで葬られ、
私たちの、私たち自身である
「神のひとりのようになり、善悪を知る者」になっている(創世記3:5、22)
〔生まれたときからの私〕という霊を、
処刑済みのもの、死んだものとする手続きを完了してくださって、

 三日目に死人のうちより新しい霊のからだに復活し、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエス

 そのイエスが、〔父である神〕の右の座にあって
私たちに派遣してくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方。
その方によって、私たち自身も、
心の中でうめきながら、
神の子としていただくこと、
すなわち、私たちのからだが贖(あがな)われることを待ち望む
希望を与えていただいているのですから。

 神は、あらかじめ知っておられる人々を、
御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定めてくださっているのだそうです。

 そして、あらかじめ定めた人々をさらに召し、
召した人々をさらに義と認め、
義と認めた人々には
さらに栄光をお与えになっているのだそうですから(ロマ8:23~30)。

 イエスは、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)
造られた者の在り方、
「わたしが父におり、父がわたしにおられる」、
「わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられる」(ヨハネ14:10~11)、
その在り方を私たちに見せて(14:9)くださったのですね。

 〔父である神〕は、受け入れる者に、
このイエスを通して
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
ご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを心に置いてくださり、
私たちが、ご自身と同じ思いを思うように、
心を一つにする者にしようとしていてくださるのだそうです。

 イエスに似たものとして、イエスのように、
「自分からは何事もせず」、
〔生まれたときからの私〕という霊から来る思いは、実行せず、
「処刑された者」、「死んだもの」から来た思いであると認めて、
神の前に差し出し、横にながめながら、

 「ただ父がわたしに教えられたとおりに、
これらのことをしている」(ヨハネ8:28、12:50)、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いのとおりをしていく者に。
「わたし(イエス)の行うわざを行う」(ヨハネ14:12)者にしようと。

 そして、イエスと同じ栄光に輝く者にしようと。
シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム
無数の、千の幾千倍、万の幾万倍の御使いたち(黙示録5:11)の大祝会、
天に登録されている長子たちの集会、
万民の審判者である神、
全うされている義人たちの霊、
さらに、新しい契約の仲介者イエス
そのイエスが流してくださった罪をきよめる注ぎかけの血に
あずからせようと(ヘブル12:22~24)。

 私たち、まだ見ていないもの、
それらが私の身に実現することを待ち望んでいくのですね。
絶えることなく。
このイエスが派遣してくださる〔聖である霊〕によって。
今日も。

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