風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

今いまし、昔いまし、後に来られる方が

 主の御名は力の塔、
神に従う人はそこに走り寄り、
高く上げられる。
箴言18:10

 神である主、
今おられ、かつておられ、
やがて来られる方、
全能者こう言われる。
「わたしはアルファであり、オメガである。」
黙示録1:8

 ヨハネ8:3~11

 ヨハネ10:31~42(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句8/15;水)

 

 天の神、主、
「『わたしはある(IAM)」という者」と名乗られる方は、
今おられ、
かつておられ(ヨハネ8:58)、

やがて、

号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに

天から下って来られる方(Ⅰテサロニケ4:16)。

 

 「初めであり、終わり」であられる方(黙示録22:13)。

 

 力の塔、堅固なやぐらのように、

御名を呼ぶ者を安全に守ってくださる方。

 

 姦淫の現場で捕まえられ、引き立てられて来た人に対しても、

「わたしもあなたを罪に定めない。

行きなさい。

今からは決して罪を犯してはなりません」

と仰ってくださった方(ヨハネ8:11)。

 

 「『わたしは神の子である』とわたしが言ったからといって、

どうしてあなたがたは、

父が、聖であることを示して世に遣わした者について、

『神を冒涜している』と言うのですか。

 

 もしわたしが、

わたしの父のみわざを行なっていないのなら、

わたしを信じないでいなさい。

しかし、もし行っているなら、

たといわたしの言うことが信じられなくても、

わざを信用しなさい。

それは、父がわたしにおられ、

わたしが父にいることを、

あなたがたが悟り、また知るためです」(ヨハネ10:36~38)、

「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)とおっしゃる方なのですね。

 

 そして、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、

〔父である神〕の御思いを私たちの心に置いてくださって、

私たちの心に〔父である神〕の御思いがあるようにしてくださって、

私たち一人一人を通して〔父〕がしようと思われるみわざを行ってくださり、

この方にあって、

私たちも〔父と一つ〕であることを実現してくださる方。

 

 天地が造られる前から計画され、

世の終わりには完全に実現する計画を実行してくださる方、

なのだそうです。

今日も。

 

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自分の頭の回転を止めて、心に来る御思いに聞く者に

 私の魂は沈黙して、
ただ神に向かう。
神に私の救いはある。
詩62:2

 イエスの言葉:
わたしは世の終わりまで、
いつもあなたがたと共にいる。
マタイ28:20

 サムエル記上17:38~51
 ヨハネ10:22~30(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句8/14;火)

 

 イエスは言われました。

「しかし、わたしは真実を言います。

わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。

それは、もしわたしが去って行かなければ、
助け主があなたがたのところに来ないからです。
しかし、もし行けば、
わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします」(ヨハネ16:7新改訳)。

 「わたしは父にお願いします。
そうすれば、父は
もうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。
その助け主がいつまでも
あなたがたと、ともにおられるためにです」(ヨハネ14:16)。

 だから、厳密に言うならば、
今、私たちとともにいてくださるのは、
このもう一人の助け主と言われる
〔聖である霊〕と呼ばれる方ということなのでしょうね。

 〔父である神〕は、
私たち人間を、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)
と願って創造されたのだそうです。

 「われわれ」、
〔父である神〕、
〔御子である神〕、
〔聖である霊〕と呼ばれる神が、
愛と尊敬において、
自由意思で、自発的に、一つになっておられる(ヨハネ10:30)、
その「ひとつ」を表すもの、
その「ひとつ」の関係に、
愛と尊敬において、
自由意思で、自発的に、加わる者をと願って。

 けれども、アダムとエバは、
その、神との「ひとつ」の場にとどまることを善しとせず、
もっと善い者に、偉い者になろうとして、
「神のひとりのようになり、
善悪を知る」ようになる道を選び(創世記3:5、22)、
造り主である天の神、主にそむき、対立、対抗する、
創造の目的からずれた、
「的外れ」の者になったのだそうです。

 そして、アダムの子孫である私たちは、
この「的外れ」の性質をもって生まれて来ているのだそうです。

 天の神、主は、
この「的外れ」、出来そこないになった私たち人間を
なお愛して、
ゲヘナの谷でエルサレム生ごみが焼却処分されているように、
処分してしまうことを惜しんで、
最初の目的、
「われわれのかたち、われわれに似せた」者、
「わたしたちが一つであるように、
(わたしたちと)一つ」になる(ヨハネ17:21~22)ように、
回復しようとしていてくださるのだそうです。

 〔父である神〕は、
〔御子である神〕を
アダムの〔的外れ〕を受け継いでいない
「女の子孫」(創世記3:15)として、
ダビデの子孫であるナザレ村の一処女、マリヤの胎を通して、
人間イエスとして、人の世に派遣し、
この方がおよそ33歳の時、
私たちすべての人間の「そむき」、「的外れ」の責任をこの方の上に負わせて、
「神に呪われた者」(申命記22:23)として、
十字架刑で処刑されたのだっそうです。

 そして、このイエスの十字架刑での処刑を
自分の処刑と受け入れる者の、
「神のひとりのようになり、善悪を知るように」なっている、
〔生まれたときからの私〕という霊を
このイエスの十字架刑での処刑に合わせてくださって、
処刑されたもの、死んだものと手続きしてくださるのだそうです。

 そのうえで、受け入れる者に、
もう一人の助け主、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方の働きで、
ご自身が、私たち一人一人に思っておられる御思いを私たち心に置き、
ご自身の御思いが
受け入れる者の心にあるようにしてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。
受け入れる者が、
御自身と同じ思いを思い、
一つ心になり、
ご自身がしようと思われることをしていく者に(ヨハネ14:12)。
エスがそうであったように(ヨハネ6:38)。

 それで、この生き方を受け取っている者は、
事ごとに、クルクル頭を働かせ、理性を動かして、
事の善悪を判断している、
〔生まれたときからの私〕、
自分の魂を沈黙させ、
天の神、主の御思いに心を向けていくようになるのだそうです。
頭で生きるのではなく、
腹(ヨハネ7:38「その人の内」原語は「腹」)で生きる者に。
天の神、主の御思いが成ることを願って。
今日も。

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謙遜、自分の実体を、そのまま認めて

 神は

高慢な者を敵とし、

謙遜な者に恵みをお与えになる。Ⅰペトロ5:5

 

 神の僕の言葉:

私は
打とうとする者には背中をまかせ、
ひげを抜こうとする者には頬をまかせた。
顔を隠さずに、
嘲りと唾を受けた。
イザヤ書50:6

 イエス
門の外で苦難に遭われたのです。
だから、私たちは、
エスが受けられた辱しめを担い、
宿営の外に出て、
そのみもとに赴こうではありませんか。
ヘブル書13:12~13

 ルカ18:9~14
 詩148(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句8/12;Ⅱ日曜)

 あなたたちは、
あなたたち神、主に従い、
これを畏れ、
その戒めを守り、
御声に聞き従い、
これに仕え、
これにつき従わねばならない。
申命記13:5

 イエスの言葉:
わたしが
あなたがたを愛したように、
互いに愛し合いなさい。
これがわたしたの掟である。
ヨハネ15:12

 マタイ23:1~12
 ヨハネ10:11~21(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句8/13;月)

 イザヤは言います。
「神である主は、私に弟子の舌を与え、
疲れた者をことばで励ますことを教え、

朝ごとに、私を呼び覚まし、
私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。
神である主は、私の耳を開かれた。
私は逆らわず、後ろに退きもせず、
打つ者に私の背中をまかせ、
ひげを抜く者に私の頬をまかせ、
侮辱されても、つばきをかけられても、
私の顔を隠さなかった(イザヤ50:4~6新改訳)。

 そして、それから700年ほど後、
エスは、捕らえられ、
人々が顔につばきをかけ、
こぶしでなぐりつけ、
平手で打ち、
嘲笑するのを(マタイ26:67)、避けようともしないで、
そのまま受けていかれ、

 そして、ついに十字架刑での処刑を、
されるままに受けていかれたのだそうです。
遣わされた方、〔父である神〕の御思いに従って(ヨハネ10:18)。 

 〔父である神〕は、
私たちを、
そのイエスに合わせて、十字架刑で処刑されたものとみなしてくださって、
私たちの「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている(創世記3:5、22)
〔うまれたときからの私〕という霊の
死亡手続きをしたくださるのだそうです。

 そのうえで、
このイエスを通して
もう一人の助け主、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方の働きで、
受け入れる者の心に御自身の御思いを置いてくださり、
受け入れる者の心に
御自身の御思いがあるようにしてくださって(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)、
受け入れる者が、
ご自身の御思いによって生きるようにしてくださるのだそうです。

 イエスが私たちを愛してくださっている、
その愛の思いが心に来て、
エスと一つ心になって、

その同じ愛で私たちも互いに愛するようにも
してくださるのだそうですから。
この新しい週も。

 

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諸国の民の言葉で、神の偉大な御業を語り、ほめ歌を歌い

 主よ、
諸国の民の中で
私はあなたに感謝し、
国々の中でほめ歌を歌います。
詩57:10

 五旬祭ペンテコステ)の日にイスラエルにいた人々の言葉:
使徒たちが
私たちの言葉で
神の偉大な業を語ってているのを
聞こうとは思わなかった。
使徒2:11

 申命記4:27~35(36~40)
 ヨハネ10:1~10(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句8/11;土)

 BC1500年頃のこと、
エジプトで奴隷状態であったイスラエルの民は、
その夜、
神のことばに従って小羊をほふり
家の2本の門柱とかもいにその血を塗ったのだそうです。

 その夜、主の使いがエジプト中を行き巡り、
血を塗っていない家の長子、
王の長子から奴隷の長子、家畜の長子に至るまでを打たれたので、
エジプト中に激しい泣き叫びが起こり、
エジプト人イスラエルの人々を強制的に追い出した(出エジプト12:1~41)のだそうです。

 その時から1500年ほど後の、
この「過ぎ越しの祭り」の小羊がほふられる日に、
エスは、
エルサレムの門の外で十字架刑での処刑を受けられ、
小羊がほふられる午後3時頃、
息を引き取られたのだそうです。

 その過ぎ越しの祭りから50日目、
旬祭モーセによる律法授与の記念日)に、
弟子たちが一つ所に集まっていると、
激しい風が吹いて来るような響きが起こり、
約束の〔聖である霊〕と呼ばれる方が弟子たちに来られて、
弟子たちは、
この方が話させてくださるとおりに、
他の言葉で話し出したのだそうです。
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いのとおりに(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。

 モーセによって、
神とイスラエルの民との間に古い契約(旧約)が結ばれたその記念日に、
エスによる
新しい契約(新約)が実現したというのですね。

 天下のあらゆる国から来て
エルサレムに住んでいた人々は、
この物音に驚いて集まって来たのだそうですが、
ガリラヤ出の、外国語を知るはずもない弟子たちが、

自分たちの国の国言葉で、
神の偉大なみわざについて話しているのを聞いて、
驚き惑ったのだそうです。

 そして、イエスによるこのうれしい知らせは、
エルサレムから始まって、
ユダヤとサマリヤの全土、
および地の果てにまで伝えられることになり、
あらゆる国の中で、
エスの声を聞いてイエスについて行く人々(ヨハネ10:3~4)、
〔聖である霊〕と呼ばれる方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いに
ついて行く人々が起こり、

 この方だけを私の神とし(申命記4:35)、
感謝し、
ほめ歌を歌うのだそうです。
今日も。

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いつも、私たちと共にいてくださる方に

 見よ、
国々は革袋からこぼれる一滴のしずく、
天秤の上の塵と見なされた。
イザヤ書40:15

 天地の権能を授かったイエスの言葉:
あなたがたは行って
全ての民を私の弟子とし、
父と子と聖霊の名で洗礼を授け、
命じておいた事を全て守るように教えなさい。
私は世の終わりまで
いつもあなたがたと共にいる。
マタイ28:18~20

 哀歌5:1~22
 ヨハネ9:35~41(通読箇所)
   (ローズンゲン日々の聖句8/10;金)

 イザヤは言います。
「だれが、
天の神、主、
「『わたしはある(IAM)』という者」と名乗られる方の霊を推し量り、
主の顧問として教えたのか。
主はだれと相談して悟りを得られたのか。
だれが公正の道筋を主に教えて、知識を授け、
英知の道を知らせたのか。
見よ。国々は、
手おけの一しずく、
はかりの上のごみのように見なされる」(イザヤ書40:13~15新改訳)、と。

 イエスは、
十字架刑による処刑を受けられ、
死んで、墓に葬られ、
三日目、日曜日の早朝、
死人のうちより新しい霊のからだに復活して、
40日に渡って何度も弟子たち現れたのですが、
そのときに言われたのだそうです。
「わたしは天においても、地においても、
いっさいの権威が与えられています。
それゆえ、あなたがたは行って、
あらゆる国の人々を弟子としなさい。
そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、
彼らを教えなさい。
見よ。
わたしは世の終わりまで、
いつも、あなたがたとともにいます」、と。

 エレミヤは言います。
「しかし、主よ。
あなたはとこしえに御座に着き、
あなたの御座は代々に続きます。
なぜ、いつまでも、私たちを忘れておられるのですか。
私たちを長い間、捨てられるのですか。
主よ。あなたのみもとに帰らせてください。
私たちは帰りたいのです。
私たちの日を昔のように新しくしてください。
それとも、あなたはほんとうに私たちを退けてられるのですか。
きわみまで私たちを怒られるのですか」(哀歌5:19~22)、と。

 生まれつき目が見えなくて、
道ばたで物乞いをしていた男性。
エスは、
「この人が盲目に生まれついたのは、
この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。
神のわざがこの人に現れるためです」と言われ、
地面につばきをして、そのつばきで泥を作り、
そして、その泥を盲人の目に塗って、
「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われた。
そこで、彼は行って、洗うと見えるようになったのだそうです。

 ユダヤ人の指導者たちは、
エスをキリストであると告白する者は、
会堂から追放すると決めていたのだそうです。

 イエスは、ユダヤ人の指導者たちが、そ
の見えるようになった盲人を追放したことを聞き、
彼を見つけ出して言われた。
「あなたは人の子を信じますか。」
その人は答えた。
「主よ。その方はどなたでしょうか。
私がその方を信じることができますように。」
エスは彼に言われた。
「あなたはその方を見たのです。
あなたと話しているのがそれです。」
彼は言った。
「主よ。私は信じます。」
そして彼はイエスを拝した(ヨハネ9:35~38)。

 私たちは、この方に何と言いましょうか。
それとも、
「主よ。お話しください。
しもべは聞いております」と
お答えしましょうか。
 今日。

 

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言うだけで、実行できない者を、なお、愛し、あわれんで

 主が命じられた道をひたすら歩みなさい。
そうすれば、
あなたたちが得る土地に長く生きる。
申命記5:33

 イエスはファリサイ人に
「律法には何とあるか」と言われた。

 彼は答えた。
「心、精神、力、思いを尽くして、
主なる神を愛し、
隣人を愛しなさい。」

 イエスは言われた。
「正しい答えだ。
実行すれば命が得られる。」
ルカ10:26~28

 ロマ書11:25~32
 ヨハネ9:24~34(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句8/9;木)

 主が命じられた道をひたすら歩む。
知っているだけではなく、
実行する。
自分の力で。

 そのような生き方を
「律法的生き方」と言うのだそうですね。

 けれども、
神が満足なさるレベルまで実行出来た人は
いないのだそうです(ロマ3:10~12)。

 天の神、主、
「『わたしはある(IAM)』という者」と名乗られる方は、
「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)と仰られて、

 「われわれ」、
〔父である神〕、
〔御子である神〕、
〔聖である霊〕と呼ばれる神が、
愛と尊敬において
自分の思いが成ることをではなく、
相手の思いが成ることを願い(ヨハネ6:38)、
自由意思で
自発的に
思いを同じくし、
心を一つにし、
行動を一つにし、
存在を一つにしていらっしゃる、

 その一つに、
愛と尊敬において、
自由意思で
自発的に加わる者が欲しいと願われて
私たち人間を造られたのだそうです。

 けれども、最初の人、アダムとエバは、
その、造られた場にとどますことを善してしないで、
「神のひとりのようになり、
善悪を知る」ようになる道を選んだのだそうです。

 そして、このアダムとエバの子孫である私たち人間は、
この、創造の目的からずれた、
「的外れ」の性質を受け継いで生まれて来ているのだそうです。

 それで、
神のことばを守り、いい人間になることにおいても、
神と心を一つにしていく方向ではなく、
天の神、主と対立、対抗して、
神のようになり、神の上に立つ者になろうとするのだそうです。

 イエスが話された、
「宮に祈りに行ったパリサイ人」のように、
「神よ。
私はほかの人々のようにゆする者、
不正な者、
姦淫する者ではなく、
ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。
私は週に二度断食し、
自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております」(ルカ18:10~12新改訳)と
誇り高く、胸を張って、神に言うことができる者に。

 「イスラエルの人々は、
義の律法を追い求めながら、
その律法に到達しませんでした。
信仰によって追い求めることをしないで、
行いによるかのように追い求めたからです」(ロマ9:31~32)。

 けれども、神は御自分の民を退けてしまわれたのではありません。
イスラエル人の一部がかたくなになったのは、
私たち異邦人の完成が成るときまでであり、
イスラエルはみな救われるのだそうです。

 神の賜物と召命とは変わることがありません。
私たちが、かつては不従順であったが、
今は、彼らの不従順のゆえに、憐れみを受けているのと同様に、
彼らも、今は不従順になっていますが、
それは、私たちが受けたあわれみによって、
今や、彼ら自身もあわれみを受けるためなのです(ロマ11:25~31)。

 そして、天の神、主は、
その豊かな憐れみによって、
主の御名を呼び求める者の、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている
〔生まれたときからの私〕という霊を、
エスが受けてくださった十字架刑での処刑に合わせて、
処刑されたもの、死んだものとしてくださるのだそうです。

 そのうえで、受け入れる者に
もう一人の方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方の働きで、
心に、〔父である神〕の御思いを置き、書き付けてくださり、
受け入れる者がご自身と思いを同じくし、
心を一つにして、
〔父である神〕がしようと思われることをしていくようにしてくださるのだそうです。

 「盲目に生まれついた者の目をあけた者があるなどとは、
昔から聞いたこともありません。
もしあの方が神から出ておられるのでなかったら、
何も出来ないはずです」(ヨハネ9:22~23)
と言われるような業を。
今日も。

 

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主は、私たちも、正義と恵みの業を満たすために用いると

 主は、シオンに
正義と恵みの業を満たされる。
主はあなたの時を堅く支えられる。
知恵と知識は救いを豊かに与える。
イザヤ書33:5~6

 イエスの言葉:
行って、
「天の国は近づいた」と
宣べ伝えなさい。
マタイ10:7

 ヨハネ4:19~26
 ヨハネ9:13~23(通読箇所)

   (ローズンゲン日々の聖句8/8;水)

 天の神、主、
「『わたしはある(IAM)」という者」と名乗られる方(出エジプト3:14)は、
いと高き方、
高い所に住み、
シオン(エルサレム)に
公正と正義、恵みの業を満たされる方。
知恵と知識、
主を恐れることが救いを豊かに与えるのだそうですから。

 それで、イエスは、
弟子たちを村々に派遣して、
「天の国」、
この方の統治が近づいたと伝えさせたのですね。

 イエスご自身が、
この方、
「このわたしがそれです」(ヨハネ4:26)と言われる方なのだそうですから。


 イエスが通って行かれる道ばたに、
生まれたときから目が見えない一人の男性が座っていて
物乞いをしていたのだそうです。

 弟子たちは、その人を見て
エスに質問したのですね。
「彼が盲目に生まれついたのは、
だれが罪を犯したからですか。
この人ですか。その両親ですか。」

 イエスは、
この人が罪を犯したのでもなく、
両親でもありません。
神の業がこの人に現れるためです」と答えて、

 地面につばきをして、
そのつばきで泥を作り、
その盲人の目に塗って言われたのだそうです。

 「行って、
シロアムの池で洗いなさい。」

 そこで、彼は行って、洗うと、
目が見えるようになって帰って行ったのだそうです(ヨハネ9:1~7)。

 イエスは、
生まれつきの盲人の目を見えるようにもされる、
力のある方、
人となられた神の御子、キリストなのですね(ヨハネ9:16~17、22)。

 イエスは、
「わたしは、
わたし自身からは何事もせず、
ただ父が教えられたとおりに話している」(ヨハネ8:28)
と言っておられます。

 そして、〔父である神〕は、
私たち一人一人にも、
私たち一人一人を通してしようと思っておられる計画があるのだそうです。

 〔父である神〕は、
私たちの身代わりとなって
十字架刑での処刑を受けて死んでくださり、

 三日目、日曜日の早朝、
死人のうちより新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れ、
神の国のことを語ったのち、

 オリーブ山で、
弟子たちが見守る中、
上げられ、
雲に迎えられ見えなくなったイエス使徒1:3~9)、

 〔父である神〕の右の座に帰られたイエスを通して、
もう一人の方、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を受け入れる者に派遣してくださり、
この方によって、私たちひとりひとりに思っておられる御思いを、
心に置いてくださって、

わたしたちの心に御自身の御思いがあるようにしてくださり、
御自身と一つ心にしてくださって、

 私たちを、
ご自身がしようと思われることをしていく者にしてくださるのだそうです。
恵みの御業を。
エスがそうであったように。
今日も。

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