風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

「聖霊を受けなさい」と

 主がお前に求めておられるのは、

正義を行ない、

慈しみを愛し、

神と共に歩むことである。ミカ書6:8(10/14の週の聖句)

 

 私(モーセ)は、

主が霊を授けて、

主の民のすべてが預言者になればよいと

切望している。民数記11:29

 

 イエスは弟子たちに言われた。

聖霊を受けなさい。」ヨハネ20:22

 

 マルコ10:2~9(10~16)

 詩75(通読箇所)

   (ローズンゲン日々聖句10/14;Ⅱ日曜)

 

 天の神、主、」

「『わたしはある(Iam)』という者」と名乗られる方は、

私たち、人間が、

正義を行ない、慈しみを愛しておられるご自身と

心を一つにして歩むことを望んでおられるようですね。

 

 天の神、主のお心がわかり、

預言者のようにそれをみんなに取り次ぐことができるほどに。

 

 けれども、私たちは、

天の神、主に対立、対抗して、

「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっていて、

天の神、主と思いを一つにする方向ではなく、

天の神、主に背いて、

自分の理性を神とし、

自分の理性の善し悪しの判断のままに、

神のお心と関係なく、自分が善いと思うことをやっていく者になっているようです。

 

 〔父である神〕は、

そのような「的外れ」になっている私たちをなお、愛し、惜しんで、

私たちの「的外れ」を解決するために、

〔御子である神〕を私たちのこの歴史の中に派遣されたのだそうです。

 

 そして、この方を私たちの身代わりとして立て、

私たちの「的外れ」、「背き」の責任のすべてをこの方に負わせて、

神に呪われた者として十字架刑で処刑されたのだそうです。

 

 そして、「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている 

私たちの「生まれたときからの私」という霊を、

この、イエスの十字架刑での処刑に合わせて、

処刑された者、死んだものとしてくださるのだそうです

 

 

 イエスは、死んで墓に葬られたのですが、

〔父である神〕は、

そのイエスを、三日目、日曜日の早朝、

死人の中から新しい霊のからだに復活させ、

40日に渡って何度も弟子たちに現れさせ、

神の国のことを語らせ、

オリーブ山で、弟子たちが見守る中、天に上げられ、

ご自身の右の座に帰らせなさったのだそうです。

 

 そして、このイエスを通して、

もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方を

受け入れる者に派遣してくださる、というのですね。

 

 この〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、

ご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを、

受け入れる者の心に置き、書きつけ、

受け入れる者がご自身と同じ思いを思い、心を一つにするようにと。

 

 だから、復活して弟子たちに現われたイエスが、

まず、言われたことは、

この〔聖である方〕をお迎えしなさいということだったのだそうです。

 

 結婚によって一人の男と一人の女が一体となるように(マルコ10:6~9)、

一人一人の心に神の御思いがあり、

神と一体となって、

預言者のようにそれをみなに取り次げるほどに。

 

 幼子が母親に信頼するように神に信頼し(マルコ10:14~15)、

神が思っていらっしゃる、正義を愛する思い、慈しみの思いの中に。

この新しい週も。

 

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大いなる方に感謝と賛美を

 御前に進み、

感謝をささげ、

楽の音に合わせて喜びの叫びを上げよう。

主は大いなる方。詩95:2~3

 

 忍耐と慰めの源である神が、

あなたがたに、

キリスト・イエスに倣って互いに同じ思いを抱かせ、

心を合わせ、声をそろえて、

私たちの主イエス・キリストの神であり、

父である方を

たたえさせてくださいますように。ロマ書15:5~6

 

 使徒14:8~18

 黙示録2:1~7(通読箇所)

   (ローズンゲン日々聖句10/13;土)

 

  詩篇の作者はうたいます。

さあ、主に向かって、よろこび歌おう。

われらの救いの岩に向かって、喜び叫ぼう。

感謝の歌をもって、御前に進み行き、

賛美の歌をもって、主に喜び叫ぼう。

主は大いなる神であり、

すべての神々にまさって、大いなる王である。

 

 地の深みは主の御手のうちにあり、

山々の頂も主のものである。

海は主のもの、主がそれを造られた。

陸地も主の御手が造られた。

 

 来たれ。私たちは伏し拝み、ひれ伏そう。

私たちを造られた方、

主の御前に、ひざまずこう。

主は私たちの神。

私たちは、その牧場の民、

その御手の羊である(詩篇95:1~7新改訳)。

 

 

 〔聖である霊〕と呼ばれる方は、

エスの十字架刑での処刑と

死者の中からの復活を通して私たちに来てくださり、

 

 処刑済み、死んだものとしていただいた、

「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている、

私たちの〔生まれたときからの霊〕に代わって

私たちの新しいいのちとなってくださり、

 

 〔父である神〕の、

私たち一人一人に対する御思いを、

私たちそれぞれの心に置いてくださるのだそうですから。

 

 

 それで、対立するばかりの私たちも、

この方によって同じ思いを心に抱くようになり、

心を合わせ、声をそろえて、〔父である神〕をほめたたえる思いで、

心が満ちるようにしていただけるのだそうです。

 

 天と地と海とそのなかにあるすべてのものをお造りになり、

恵みをもって、天から雨を降らせ、

実りの季節を与え、

食物と喜びで私たちの心を喜ばせてくださる方を(使徒14:15~17)。

 

 

 そして、私たちをとおしても、

〔父である神〕のお心のとおりに、

生まれつき足がなえていて、歩いたことのない人を、

飛びあがって、歩き出すようにもし(使徒14:8~9)、

 

 私たちを初めの愛にとどまり続けさせ、

神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べるようにも(黙示録2:1~7)

してくださるのだそうですから。

 

 賛美の中で、

今日も。

 

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豊かないのちをいただくのですね

 あなたがたは食物に飽き足り、

国のうちで平穏に暮らすことができる。レビ記26:5

 

 イエスの言葉:

わたしが来たのは、

羊が命を受けるため、

しかも豊かに受けるためである。ヨハネ10:10

 

 エレミヤ書17:13~17

 黙示録1:9~20(通読箇所)

   (ローズンゲン日々聖句10/12;金)

 

 天の神、主、

「『わたしはある(Iam)』という者」と名乗られる方と

思いを同じくし、心を一つにして歩む者は、

豊かさと平和の中で暮らすのだそうす。

 

 イエスは、私たちが命を受けるために、

しかも、豊かに受けるために来てくださったのだそうですから。

 

 イエスこそ、私たち望み、いのちの水の泉、

私たちをいやし、救ってくださる方。

私の身の避け所。(エレミヤ17:13~17)。

 

 最初であり、最後であり、生きている者である方。

死んだが、いつまでも生きていて、

死とハデスのかぎを持っている方(黙示録1:17~18)。

 

 この方によって私たちは

豊かな命を受けるのだそうですから。

今日も。

 

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知恵、力、富を、あらかじめ準備していてくださる方を誇りとして

 主はこう言われる。

知恵ある者はその知恵を誇るな。

力ある者はその力を誇るな。

富ある者はその富を誇るな。

むしろわたしを知っていることを誇るがよい。エレミヤ書9:22~23

 

 実際には何者でもないのに、

自分をひとかどの者だと思う人がいるなら、

その人は自分を欺いています。

各自で、

自分の行い吟味してみなさい。ガラテヤ書6:3~4

 

 マタイ8:14~17

 黙示録1:1~8(通読箇所)

   (ローズンゲン日々聖句10/11;木) 

 

 私たちは、

自分を知恵ある者と思い、

力ある者と思い、

自分を誇りたい者なのですね。

自分がひとかどの者だと。

 

 けれども、よく吟味してみると、

知恵も、力も、富も、自分一人の力で得たのではないことに気づきます。

 

 自分の理性が正常に働いていることも、

自分が健康でいられることも、

今朝、目が覚めたことだって、

自分自身で出来たことではない、のですものね。

だから、誇るとしたら、

それらを用意してくださり、

その環境に置いてくださり、

与えていてくださる方を知っていることを誇りなさいと。

 

 

 イエスは、

私たちのわずらいを身に引き受け、

私たちの病を御自身の身に背負って、

私たちをいやしてくださる方(マタイ8:14~17)。

 

 昔いまし、今いまし、後にこられる方。

忠実な証人、

死者の中から最初によみがえった方、

地上の王たち、万物の支配者。

 

 このイエスは、

やがて天の雲に乗って来られるのだそうです。

 

 そのとき、すべての目、

ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見ることになり、

地上の諸族はみな、

彼のゆえに嘆くことになるのだそうです。

 

 この方、イエスは、

私たちを愛して、

ご自身の血によって私たちを罪から解き放ち、

私たちを王国とし、

ご自身の父である神のために祭司としてくださる方、

なのだそうですから(黙示録1:4~8)。

 

 この方を私の誇りとして。

今日も。

 

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新しい創造こそが、大事なのだそうですから

 なぜあなたは神と争おうとするのか。

神はなさることをいちいち説明されず、

一つの事によって、

また二つのことによって語られるが、

人はそれに気づかない。ヨブ記33:13~14

 

 二人の弟子は、

「あの方が道で話しておられるとき、

また聖書を説明してくださったとき、

私たちの心は燃えていたではないか」

と語り合った。ルカ24:32

 

 ルカ13:10~17

 ガラテヤ書6:11~18(通読箇所)

   (ローズンゲン日々聖句10/10;水)

 

 一日にして、財産のすべてを失い、

7人の息子と3人の娘を失ったヨブ。

 

 次には、足の裏から頭の頂まで悪性の腫物が出来、

家の中におられず、灰の中にすわり、

土器のかけらで身を掻いていたいたのだそうです。

 

 そして、自分がどうしてこんなことになるのか、神に叫ぶのですが、

自分のことばに、なぜ、神が答えてくださらないのかと、

神と言い争おうとしたのだそうです。

 

 神はある方法で語られ、

また、ほかの方法で語られます。

 

 しかし、御子イエス

私たちの身代わりとなり、十字架刑での処刑を受けて、

私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を

処刑されたもの、死んだものとしてくださっている今は、

エスを通して来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方によって、

親しく語ってくださるのだそうです。

 

 そのとき、私たちの心は熱く燃えるのですね。

死人の中から復活されたイエスが、

失意の中、エマオ村へ帰る二人の弟子と、道々、話してくださり、

そのとき、ふたりの弟子の心が燃えていたように。

 

 イエスが、ある会堂で教えておられたとき、

そこに18年もの間、病の霊につかれ、

腰が曲がって、全然伸ばすことのできない女性がいたのだそうです。

 

 イエスは、その女性を見て、呼び寄せ、

「あなたの病気はいやされました」と言って、手を置かれると、

その女性はたちどころに腰が伸びて、

神をあがめたのだそうです(ルカ13:10~17)。

 

 神は、私たちの心を燃やしてくださるだけでなく、

この女性にされたように、

思われたとおりのことをなさってくださる方なのですね。

 

 イエスが受けてくださった十字架刑での処刑によって、

世界は私たちに対して十字架につけられ、

私たちも世界に対して十字架につけられた、

死んだ関係にもしてくださるのだそうです。

 

 もう、自分の努力で神の基準に到達しようとする生き方に死んで、

〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、

この方が心に置いてくださる〔父である神〕の御思いによって生きる者、

新しく創造された者の生き方を生きる者に(ガラテヤ6:11~15)。

今日も。

 

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目に見えない方を、見ているように見ながら 

 主は右にいまし、

私は揺らぐことがありません。詩16:8

 

 信仰によって、

モーセは王の怒りをも恐れず、

エジプトを立ち去りました。

目に見えない方を見ているようにして、

耐え忍んでいたからです。ヘブル書11:27

 

 ルカ5:12~16

 ガラテヤ書6:1~10(通読箇所)

  (ローズンゲン日々聖句10/9;火) 

  

 天の神、主、

「『わたしはある(Iam)』という者」と名乗られる方が

私たちの右にいて、

支え、守ってくださるのだそうです。

私たちが揺らぐことがないようにと。

 

 この方は私たちの目には見えませんけれど、

確かに、居てくださる方なのですね。

 

 モーセも、この方を見ているようにして、

エジプトを立ち去ったのだそうです。

 

 この方は思われたとおりにすることができる方。

この方のことばは、そのとおりに成るのだそうです。

 

 全身ツァラート(ハンセン病)におかされていた人が、

エスの前にひれ伏し、お願いしたのだそうです。

「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます」と。

 

 それで、イエスは手を伸ばして、彼にさわり、

「わたしの心だ。きよくなれ」と言われると、

すぐに、そのひとからツァラートが消えたのだそうです。

 

 そして、イエスご自身は、

よく荒野に退いて

〔父である神〕との

二人だけの時を大切にしておられたのだそうです(ルカ5:12~16)。

 

 〔父である神〕は、

「神のひとりのようになり、

善悪を知る」ようになっている(創世記3:5、22)、

私たちの〔生まれたときからの私〕という霊を、

エスの十字架刑での処刑に合わせてくださって、

処刑されたもの、死んだものとしてくださるのだそうです。

 

 そして、三日目に死人の中から復活し、

天の父である神の右の座に帰られたイエスを通して、

〔聖である霊〕と呼ばれる方を

受け入れる者に派遣してくださって、

ご自身の御思いを、

受け入れる者の心に書き付けてくださるのだそうです。

 

 それで、私たちも、

使徒パウロが言うような心にもしていただけるのだそうです。

 

 兄弟たちよ。

もしだれかがあやまちに陥ったなら、

御霊の人であるあなたがたは、

柔和な心でその人を正してあげなさい。

 また、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい。

 

 互いに重荷を負い合い、

そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。

 

 だれでも、りっぱでもない自分を

何かりっぱでもあるかのように思うなら、

自分を欺いているのです。

 

 おのおの自分の行いをよく調べてみなさい。

そうすれば、誇れると思ったことも、

ただ自分だけの誇りで、

ほかの人に対して誇れることではないでしょう。

 

 人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。

 

 みことばを教えられる人は、

教える人とすべての良いものを分け合いなさい。

思い違いをしてはいけません。

神は侮られるようなお方ではありません。

人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。

自分の肉のために蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、

御霊のために蒔く者は、

御霊から永遠のいのちを刈り取るのです。

 

 善を行うのに飽いてはいけません。

失望せずにいれば、時期が来て、刈り取ることになります。

ですから、私たちは、機会のあるたびに、

すべての人に対して、

特に信仰の家族の人たちに善を行いましょう。(ガラテヤ6:1~10新改訳)

と言われているような。

 

 〔聖である霊〕と呼ばれる方によって。

今日も。

 

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御霊なる神により、一つの中に入れていただいて

 ヨナタン

神に頼るようにと

ダビデを励ました。サムエル記上23:16

 

 平和のきずなで結ばれて、

霊による一致を保つよう

努めなさい。エフェソ書4:3

 

 出エジプト15:22~27

 ガラテヤ書5:16~26(通読箇所)

   (ローズンゲン日々聖句10/8;月・祝)

 

 天の神、主、

「『わたしはある(Iam)』という者」と名乗られる方を信頼し、頼るなら、

〔聖である霊〕と呼ばれる方から来る平和で包まれ、

一つ思いにしていただけるのだそうです。

 

 私たちが召されたとき、その召しのもたらした望みは一つ、

キリストのからだは一つ、

御霊は一つ、

主は一つ、

信仰は一つ、

バプテスマは一つ、

すべてのものの上にあり、

すべてのものを貫き、

すべてのもののうちにおられる、

すべてのものの父なる神は一つ、

なのだそうですから。

 

 そして、ご自身と思いを一つにする者に言われるのですね。

「わたしは主、あなたをいやす者である」(出エジプト15:26)と。

 

 使徒パウロは言います。

「御霊、〔聖である霊〕と呼ばれる方によって歩みなさい。

そうすれば、決してにくの欲望を満足させることはありません。

 

 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、

親切、善意、誠実、柔和、自制です。

キリスト・イエスにつく者は、

自分の肉を、

さまざまの情欲や欲望とともに、

十字架につけてしまったのです。

 

 もし私たちが御霊によって生きるのなら、

御霊に導かれて、進もうではありませんか」(ガラテヤ5:16、22~25新改訳)と。

 

 私たちも、

今日も。

 

(近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)