目を注いで。私たちに夜も昼も。
主よ、
夜も昼もこの神殿に、
この所に御目を注いでください。
ここはあなたが、
「わたしの名をとどめる」と仰せになった所です。列王記8:29
あなたがたはもはや、
外国人でも寄留者でもなく、
聖なる民に属する者、
神の家族です。エフェソ書2:19
Ⅰコリント3:9~15
イザヤ書5:8~24(通読箇所)
(ローズンゲン日々聖句11/28;水)
天の神、主、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方は、
私たちも、
ご自身が住まわれるところ、
ご自身の神殿として選び分かち、
私たちに、いつも目を注いでいてくださるのだそうですね。
私たちの祈り、願いを聞こうと。
私たち、
自分の、〔生まれながらの私〕という霊から来る思いの中を生き、
その思いのままを行ない、
生まれながら御怒りを受けるべきものでした。
キリストから離れ、
イスラエルの国籍から除外され、
約束の契約については他国人であり、
この世にあって望みもなく、神もない者でした。
〔父である神〕は、
そのような私たちを、
イエス・キリストの中に居る者とし、
イエスが十字架刑での処刑を受けてささげてくださった血によって、
神の民として取り分けられた者、
神の子、家族としてくださるくださるのだそうです。
〔父である神〕は、これを、
恵みのプレゼントとして、
すべての人に受け取ってほしいとさしだしていてくださるのだそうです。
そして、神は、
これを受け取った人の〔生まれたときからの私〕という霊を、
イエスに合わせられた者とし、
イエスの十字架刑での処刑に合わせて、処刑されたもの、
死んだものと手続きしてくださるのだそうです。
そのうえで、これを受け取った人に、
もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方によって、私たちの心に、
ご自身が私たち一人一人に思っておられる御思いを置き、書きしるして、
受け入れる者がご自身と思いを一つにして生きるようにしてくださるのだそうです。
受け入れる者が、ご自身の御思いを土台とし、
この土台の上に人生という家を建てる者になるようにと(Ⅰコリント3:15)。
〔生まれながらの私〕という霊から出て来る思いを土台として建てた人生は、
火が来るとき燃えてしまいますが、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心に来た
〔父である神〕の御思いを土台として建てた人生は、
火によっても燃えることがなく、
新しい御国にまで持って行けるようです。
神の子の栄光に輝かせて。
天の神、主は、そのような愛と恵みの目で、
私たちに目を注いでくださるのだそうですから。
今日も。
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ご自身と同じ栄光で輝かせようと
主は寄留の民を守り、
みなしごとやもめを励まされる。詩146:9
マリヤの言葉:
主は身分の低い者を高く上げ、
植えた人を良い物で満たし、
そのしもべイスラエルを受け入れて、
憐れみをお忘れになりません。ルカ1:52~54
ヘブル書12:18~25
イザヤ書4:2~6(通読箇所)
(ローズンゲン日々聖句11/26;月)
飢えた人にあなたのパンを分け与えなさい。イザヤ書58:7(口語訳)
善い行いと施しとを忘れないでください。
このようないけにえこそ、神はお喜びになるのです。ヘブル書13:16
Ⅰペテロ1:13~21
イザヤ書5:1~7(通読箇所)
(ローズンゲン日々聖句11/27;火)
天の神、主、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方は、
よその国に寄留している民を守る方、
みなしごとやもめを見守り、励ましてくださる方なのですね。
イエスを身ごもるとの告知を受けたとき、
マリヤがうたった、あのうたにあるように。
神が私たちに与えようと約束していてくださることは、
恐ろしい、震えあがるようなことではなく、
シオンの山、生ける神の都、天にあるエルサレム、
無数の御使いたちの大祝会、
また、天に登録されている長子たちの集会、
万民の審判者である神、
全うされた義人たちの霊、
さらに、新しい契約の仲介者イエス、
それにアベルの血よりもすぐれたことを語る注ぎかけの血、
揺り動かされない御国、なのだそうですから。
その日、主の若枝は、麗しく、栄光に輝き、
地の実はイスラエルの残された者の威光と飾りになるのだそうです(イザヤ4:2~6)。
それで、天の神、主は、
そのようなご自身の御思いを、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって
私たちの心にも置いてくださるのだそうですね。
私たちの心にも、
飢えた人に自分のパンを与え、
家のない貧しい人々を家に入れ、
裸の人を見て、これに着せ、
肉親の世話をよくする(イザヤ58:7)思いも来るのだそうです。
天の神、主は、ご自身が聖であるのと同じように、
私たちも聖である者にしようとしていてくださるのだそうですから(Ⅰペテロ1:16)。
食べられない、酸いぶどうのような私たちも、
甘い、良いぶどうにしてくださるのだそうです(イザヤ5:1~7)。
イエスを通して来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方によって。
今日も。
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天の神、主に向かって、新しい歌を歌いながら
腰に帯を締め、
ともし火を灯していなさい。ルカ12:35(11/25の週の聖句)
新しい歌を主に向かって歌え。
全地よ、主に向かって歌え。詩96:1
あらゆる国民、種族、民族、
言葉のちがう民の中から集まった、
だれにも数えきれないほどの大群衆が、
白い衣を身に着け、
手になつめやしの枝を持ち、
玉座の前と小羊の前に立って、
大声でこう叫んだ。
「救いは、
玉座に座っておられる私たちの神と、
小羊とのものである。」黙示録7:9~10
マタイ25:1~13
詩90(通読箇所)
(ローズンゲン日々聖句11/25;Ⅳ日曜)
神の〔御子〕である方が、
人間イエスとなって人の世に来られ、
私たち、すべての人間の、
神の創造の目的から「的外れ」になっている責任をとって、
十字架刑での処刑を受けてくださったのだそうです。
そのイエスは、
死んで墓に葬られ、
三日目、日曜日の早朝、
死者の中から新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って弟子たちに何度も現れ、神の国のことを語り、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、上げられ、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたのだそうです。
〔父である神〕は、
その、〔御子〕イエスの十字架刑での処刑を、
私たち一人一人の処刑と見なしてくださって、
私たち一人一人の〔生まれたときからの私〕という霊を、
処刑が終わったもの、死んだものと手続きしてくださるのだそうです。
そのうえで、これを受け取った者に、
このイエスを通して、
もう一人の方、〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださり、
この方によって私たちの心に、
ご自身が、私たち一人一人に思っておられる御思いを置き、書きしるしてくださって、
私たちの中に御自身の御思いがあるようにしてくださり、
受け入れる者がご自身と思いを一つにして生きるようにしてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。
天では、
イエスによって与えられたこの生き方を受け取り、
神と思いを一つにして生き、
天に帰った数えきれないほどの多くの人たちが、
〔父である神〕と〔御子である神〕イエスの前で
賛美をささげているのだそうですが、
イエスは、その人たちを引き連れて、
二度目に来てくださり、
〔父である神〕と思いを一つにして生きている者たちのからだを、
一瞬にして、「霊のからだ」、「復活のからだ」に変えてくださって、
天に引き上げ、
神の御前で賛美をささげている多くの人たちの中に
加えてくださるのだそうです(Ⅰテサロニケ4:15~17)。
その、イエスが二度目に来られる時がいつであるか、
私たちは知らないのですね。
その日は、盗人が思いがけない時に来るように、
思いがけない時に、突然に来るのだそうです。
だから、主人がいつ帰って来ても
出迎えられるようにしているしもべのように、
腰に帯を締め、ともし火を灯して待っていなさい、
と言われているのですね。
真夜中に帰って来ても、明け方に帰って来てもいいように(ルカ12:35~48)。
花婿を出迎える賢い娘のように、
ともし火の油を用意して(マタイ25:1~13)。
「ともし火の油」、
〔聖である霊〕と呼ばれる方との関係がぼやけてしまわないように。
イエスの十字架刑での処刑によって処刑されたもの、
死んだものと手続きしていただいた、
この、私自身である〔生まれたときからの霊〕から出て来る思いを、
処刑されたもの、死んだものから出て来た思いであると認め、収支計算して、
これをイエスの御前に差し出し、
見ていただき、受け取っていただきながら、
〔聖である霊〕と呼ばれる方によって心に来る、
〔父である神〕の御思いによって生きていく生き方に
立ち返り、立ち返りしながら。
新しい歌を、
「主の栄光を国々の中で語り告げよ。
そのくすしいわざを、すべての国々の中で。
まことに主は大いなる方、
大いに賛美されるべき方。
天は喜び、地は、こおどりし、
海とそれに満ちているものは鳴りとどろけ。
確かに、主は来られる。
確かに、地をさばくために来られる」(詩篇96)と、
地にあっても、天に呼応し、
天の神、主に歌いながら。
この新しい週も。
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神が人と共に住み、神、自らが人と共にいて
主はすべて虐(しいた)げられている人のために、 恵みの御業と裁きを行なわれる。詩103:6
見よ、 神の幕屋が人の間にあって、 神が人と共に住み、 人は神の民となる。 神は自ら人と共にいて、 その神となり、 彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。黙示録21:3~4
黙示録20:11~15 イザヤ書3:1~15(通読箇所) (ローズンゲン日々聖句11/24;土)
しいたげられ、苦しんでいる人のために、
けれども、
しかし、今は、 (近くの教会を知りたい等の方は;shkhknsyg3@yahoo.co.jpへどうぞ。)
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火のような、岩を打ち砕く槌のような、神の、愛の言葉が心に来て
わたしの言葉は火に似ていないか。
岩を打ち砕く槌のようではないか、
と主は言われる。エレミヤ書23:29
祈りが終わると、
一同の集まっていた場所が揺れ動き、
皆、聖霊に満たされて、
大胆に神の言葉を語り出した。使徒4:31
ヘブル書13:17~21
イザヤ書2:6~22(通読箇所)
(ローズンゲン日々聖句11/23;金・祝)
すべてを焼き尽くして灰にしてしまう火のような、
岩を打ち砕く槌のような、天の神、主の言葉。
十字架刑での処刑を受けられ、
死んで葬られ、
三日目の日曜日の朝、
死人の中から新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って弟子たちに何度も現れ、神の国のことを語ったのち、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、上げられ、
天の、〔父である神〕の右の座に帰られたイエス。
そのイエスが、
〔父である神〕の右の座にあって派遣してくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方。
その方が、私たちの心に
〔父である神〕の御思いを置いてくださるのだそうです(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。
それで、私たちも、
〔聖である霊〕と呼ばれる、この方が来られる時、
〔父である神〕が、
私たち一人一人を通して話そうと思っておられる言葉を語るようになるのだそうです。
あの、最初に弟子たちのところに〔聖である霊〕と呼ばれる方が来られた
永遠の契約の血による羊の大牧者、
私たちの主イエスを死者の中から導き出された平和の神は、
イエス・キリストにより、
御前でみこころにかなうことを私たちのうちに行い、
私たちがみこころを行なうことができるために、
すべての良いことについて、
私たちを完全な者としてくださるのだそうですから。
正しい良心をもって、
何事についても正しく行動するようにと。(ヘブル13:17~21)。
天の神、主をあがめながら。
今日も。
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神の、恵みの業をするように、と。私たちにも
稼ぎが多くても正義に反するよりは、
わずかなもので恵みの業をする方が幸い。箴言16:8
兄弟を踏みつけたり、
あざむいたりしてはいけません。
主はこれらすべてのことについて
罰をお与えになるからです。Ⅰテサロニケ4:6
ルカ13:(1~5)6~9
ロマ書2:1~11
イザヤ書1:21~31(通読箇所)
(ローズンゲン日々聖句11/21;水)
正義によって得たわずかなものは、
不正によって得た多くの収穫にまさる、のですね。
だから、人を踏みつけたり、あざむいたりして多くのものを得るよりも、
わずかであっても恵みの業をするほうが幸いなのだそうです。
天の神、主は、これらすべての事について、裁きをなさり、
私たちに清潔を得させようとしておられるのだそうですから。
イエスは私たちのために、
実が実らないで、切り倒されようとするいちじくの木を、
「もう1年そのままにしてやってください。
木の回りを掘って、肥やしをやってみますから」と
主人に執り成すぶどう園の番人のように(ルカ13:6~9)、
執り成していてくださるのだそうです。
だから、
神の、その豊かな慈愛と忍耐と寛容とを軽んじないように、
と言われるのですね。
神は、忍耐をもって善を行い、
栄光と誉れと不滅のものとを求める者には、
永遠のいのちを与え、
党派心を持ち、真理に従わないで不義に従う者には、
怒りと憤りをくだされるのだそうですから。
それで、
〔神の御子〕である方が、人となって人の世に来られ、
私たち、すべての人間の身代わりとなって十字架刑での処刑を受けて、
私たちの
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている(創世記3:5、22)
〔生まれたときからの私〕という霊を
処刑されたもの、死んだものとしてくださったのだそうです。
そのうえで、受け入れる者に、
〔聖である霊〕と呼ばれる方を派遣してくださって、
この方が受け入れる者の心に
〔父である神〕の御思いを置いてくださり、
受け入れる者が
〔父である神〕と思いを一つにして生きるようにしてくださるのだそうです。
私たちの心を、恵みの業をする、純潔な心に。
今日も。
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私たちと、いつも、一緒にいて
あなたの出で立つのも帰るのも、
主が見守ってくださるように。
今も、
そしてとこしえに。詩121:8
私たちは
この地上に永遠の都を持っておらず、
来るべき都を捜し求めているのです。ヘブル書13:14
ヨハネ3:17~21
イザヤ書1:10~20(通読箇所)
(ローズンゲン日々聖句11/20;火)
天の神、主、
「『わたしはある(I am)』という者」と名乗られる方は、
私たちが出て行くときも、帰るときも、
いつも、一緒にいて見守っていてくださる方なのですね。
この地上を歩むすべての道において。
やがて実現する天の都に帰るその時まで。
〔父である神〕が、
〔御子である神〕を、
人間イエスとして、この人の世に遣わされたのは、
世を裁くためではなく、御子によって世が救われるため、なのだそうです。
イエスを救い主として受け入れた者は、
もう、さばかれることはないのだそうです。
イエスが十字架刑での処刑を受けて成し遂げてくださった、
私たちの〔生まれたときからの私〕という霊の処刑を受け取った者は。
墓に葬られ、
三日目、日曜日の早朝、
死人の中から新しい霊のからだに復活し、
40日に渡って何度も弟子たちに現れて神の国のことを語り、
オリーブ山で弟子たちが見守る中、上げられ、
天の〔父である神〕の右の座に帰られたイエス。
そのイエスが派遣してくださる
〔聖である霊〕と呼ばれる方をお迎えして、
その方が心に置いてくださる
〔父である神〕の御思いと思いを一つにして生きる者は。
けれども、この神からのプレゼントを無視し、受け取らなかった者は、
その、受け取らない行為自体で、
自分を、
「神のひとりのようになり、善悪を知る」ようになっている(創世記3:5、22)、
「的外れ」の状態のままにとどめることになるのだそうです。
それで、その自分の責任を自分で取ろうとして、
アダムとエバがそうしたように、神から隠れ、
自分の「的外れ」を隠し、
自分を神の前の明るみに出そうとはしないのですね。
ありのままの、
「的外れ」のままの自分を神の前に、
光の中に差し出せば、
イエスによって
光の中の出来事にしていただけるのに(ヨハネ3:17~21、エペソ5:13~14)。
神は、
私たちの「緋のように、紅のように、赤い的外れ」を、
イエスによって、
雪のように、羊の毛のように、
白くしようとしていてくださるのだそうですから。
イエスを通して来てくださる〔聖である霊〕と呼ばれる方が、
いつも、いつまでも、私たちと一緒にいて、
私たちを見守り、
私たちの心にも
〔父である神〕の御思い、
善をなすことを習い、
公正を求め、
しいたげる者を正し、
みなしごのために正しいさばきをなし、
やもめのために弁護する思いも置いてくださるのだそうですから。
喜んで聞こうとする思いも(イザヤ1:10~20)。
今日も。
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