風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

空家になっていませんか

彼が
担ったのは
私たちの病、
 
彼が
負ったのは
私たちの痛み
であったのに、
 
私たちは思っていた、
神の手にかかり、
打たれたから、
 
彼は
苦しんでいるのだ、
と。
イザヤ書53:4
 
 
 この方こそ、
私たちの罪、
 
いや、
私たちの罪ばかりでなく、
全世界の罪を償う
いけにえです
Ⅰヨハネ2:2
 
 
 (ローズンゲン日々の聖句1/16;木)
 
 
イエスが受けた
むち打ち刑と十字架刑による処刑、
 
それを眺めている人々の心境を、
その時よりも700年ほど前の
イザヤが
書きしるしているのですね。
 
「彼は、
神の手にかかり打たれ、
苦しんでいるのだ」と。
 
その時から2000年を経た、
今日でも、
多くの人が
そう思っているのでしょうね。
 
 
けれども、
イエスが
痛めつけられ、苦しんだのは、
私の罪、
私の病を
背負ってのこと
だったのだそうです。
 
まさしく
私たちの、
全人類の
罪を償ういけにえとなって、
痛めつけられ、
命をささげて下さったのだそうですね。
 
まことに、
彼は
私たちの病を負い、
私たちの痛みを
になった。
 
彼は
私たちのそむきの罪のために
刺し通され、
 
私たちの咎のために
砕かれた。
 
彼への懲らしめが
私たちに平安をもたらし、
 
彼の打ち傷によって、
私たちはい
やされた
(イザヤ53;4~6)。
 
 
あの方は、
私たちのすべての咎を
イエスに負わせたのだそうです。
 
私たちの、
「生まれた時からの霊」は、
改良の余地のない、
死ぬしかないものと
見極めて、
 
「聖である霊」と呼ばれる方を
派遣されるにあたって、
 
その「聖さ」に触れて
私たちが滅びないように、
 
まず、
御子である方によって、
私たちの罪、咎の処分を
して下さったようですね。
 
今、
私たちは
「きれいに掃除がされた空家」
(マタイ12:43~45)
にならないよう、
 
いよいよ、
「聖である霊」と呼ばれる方を
お迎えして、
 
その方の
指示を
仰いでいきたいものです。
 
今日も。
 
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