風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

神は唯一。神と人との間の仲介者もイエスただおひとり

聞け、イスラエルよ。  我らの神、主は唯一の主である。申命記6:4

 

 

神は唯一であり、  神と人との間の仲介者も、...   人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。

この方はすべての人の贖(あがな)いとして  ご自身を献げられました。Ⅰテモテ2:5〜6

 

        (ローズンゲン日々の聖句1/10;土)

 

 

 唯一の神、唯一の救い主、贖い主。

 

 申命記は、このように続きます。 心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

わたしがきょう、あなたに命じるこれらの言葉を、あなたの心に刻みなさい。

これを子どもたちによく教え込みなさい。

あなたが家に座っているときも、道を歩くときも、寝るときも、起きるときも、これを唱えなさい。

これをしるしとしてあなたの手に結び付け、記章として額の上に置きなさい。

これをあなたの家の門柱と門に書きしるしなさい。(申命記6:5~9)

 

 

 新しい契約ではこうおっしゃられるのですね。 彼らの時代の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうだ。

――主のみ告げ――

わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす。

わたしは彼らの神となり、彼らは私の民となる。

そのようにして、人々はもはや、「主を知れ」と言って、おのおの互いに教えない。

それは、彼らがみな、身分の低い者から高い者まで、わたしを知るからだ。

――主のみ告げ――

わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。(エレミヤ32:33~34)

 

 

 この二つの言葉の違いは何なのでしょう。 私たち人間、これを教え、覚え、努力しても、その結果として、反逆に次ぐ反逆。

ついには、バビロン軍を用いて、エルサレムの町も、

また、ここにわたしの名を置くと言われた神殿も滅ぼすしかなかったのだそうです。

 

 人間の側の努力では、

「義人はいない。ひとりもいない。すべての人が迷い出て、

みな、ともに無益なものと」なっている(ロマ3:10、12)ことが明らかになった時点で、

天の神、主は、神と人との間の唯一の仲介者、人となられたキリストによって、

この方が人の贖いとして、御自身の命を、十字架刑による処刑で献げられたことによって、

もう一人の助け主、「聖である霊」と呼ばれる方を私たち人間のうちに派遣する道を開かれたのだそうです。

 

 この聖である霊と呼ばれる方が、天の神、主の御思いの、私たちに関わる部分を、私たちの心に置き、書きしるして下さるのだそうです。 その思いについて行くとき、

私たちは、聖である霊と呼ばれる方に導かれて進むようになるのだそうです(ガラテヤ5:25)。

今日も。

 

 

 

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