風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

ただ、憐れみにより頼んで

主よ、憐れんでください。   私は嘆き悲しんでいます。  主よ、いやしてください。   私の骨は恐れ、    私の魂は恐れおののいています。詩篇6:3、4

 

 

 

 パウロの手紙:  主は、

「わたしの恵みはあなたに十分である。   力は弱さの中でこそ、十分に発揮されるのだ」    と言われました。Ⅱコリント12:9

         (ローズンゲン日々の聖句1/19;月)

 

 

 

 敵が勝ち誇り、圧迫してくる中にあっても、

あるいは、自分自身の罪、弱さ、あるいは失敗などによって恐れおののくときも、

そのように自分が弱い者、ダメなものであればあるほど、頼るのはあの方の憐れみの心なのですね。

あの方の御力は、私たちが弱さのまっただ中にいるとき、発揮されるのだそうですから。

 

そうであるなら、私たちは弱くていい、弱いほどいい。 ダメでいい、ダメなほどいいのですね。

わざわざ、これから弱くなろう、ダメになろうということではなく、  今の自分の弱い実体、ダメな実体のままで  あの方の憐れみを請い求めていっていいということですね。

 

 パウロは、続けて言っています。  「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、 むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。 ですから、私は、キリストのために、  弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。 なぜなら、私が弱い時にこそ、私は強いからです」と。

  「律法の義についてならば非難されるところのない者」(ピリピ3:6)と言い得た、

それほどに努力したパウロだから、

旧い契約の道、自分の力で律法を行って及第点を取る道では、

義とされることがないと断言できたのでしょうね。

  「いや、私は自分の努力で律法を全うできる」と思う人は、

思いっきりやってみればいいのですね。パウロのように。

 

 

 天の神、主は、憐れみによって、御子である方を人間イエスとして人の世に送り、

私たち人類の背きの罪の全てをこの方の上に置いて十字架刑で処刑し、

私たちを処刑済みの者とする手続きを完了して下さって、

恵みのプレゼントとして差し出していて下さるのだそうです。

 

 私たちの生まれたときからの霊は、

イエスの十字架刑での処刑に合わされて処刑された者との手続きを済ませて下さり、

新しい霊、聖である霊と呼ばれる方を私たちのうちに派遣して下さって、

私たちを、この方が私たちの心に書き付けて下さる「思い」によって行動してい行く者にして下さるのだそうです。

あの方はそれを「新しい契約」と呼ばれるのですね(エレミヤ31:31~34)。

    天の神、主は、私たちが、

憐れみにより、

イエスによって締結されたこの新しい契約の生き方を生きるようにと願っていて下さるのだそうです。  今日も。

 

 

 

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