風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

富む。経済的にも、精神的、文化的にも、霊的にも

あなたの上には主が輝き出で、
  主の栄光があなたの上に現れる。イザヤ60:2(今週の聖句)

 

 

あなたたちは、
  心変わりして主を離れ、
  他の神々に仕え、それにひれ伏さないよう、
    注意しなさい。申命11:16


 

 

あなたがたは地上に富を積んではならない。
  そこでは、虫が食ったり、さび付いたりするし、
   また、盗人が忍び込んで盗み出したりする。
 富は、天に積みなさい。
  そこでは、虫が食うことも、さび付くこともなく、
   また、盗人が忍び込むことも盗み出すこともない。
あなたの富のあるところに、あなたの心もあるのだ。マタイ6:19〜21

 

     (ローズンゲン日々の聖句1/25;日)

 

 

 

 モーセを通して与えられた十戒。
その最初の部分には、
 「わたしは、
あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、
あなたの神、主である。
あなたには、
わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
あなたは、
 自分のために、偶像を造ってはならない。
 上の天にあるものでも、
 下の地にあるものでも、
 地の下の水の中にあるものでも、
どんな形をも造ってはならない。
それらを拝んではならない。
それらに仕えてはならない。
あなたの神、主であるわたしは、妬む神、……。」
とあります。

 

 

 人の世には、神と呼ばれるものがたくさんありますが、
 宗教の形をとっているそれらは、分かりやすいものですね。


宗教の形をとらないで私たちが神としているもの、
それが、さらに問題なのでしょうね。

 

 

 神でないものを神とする。
その最たるものは、自分の理性を神とすることなのでしょうか。

 

 

 天の神、主は、私たち人間を、
 御自分といつも一緒にいて、
 心の底まで明し合い、
お互いよく分かり合って、
 思いを一つにしていくものとして
創造して下さったのだそうですね。

 

 

 けれども、私たち人間は、
これを嫌い、
 天の神、主を呼ばれる方よりも
自分を上の位置に置いてしまったのだそうです。

 

 

 それで、私たち人間は生まれながらにして、
 天の神、主には背を向け、
この方に相談したり、
 意見を聞いたりすることをしないで、
 自分一人の理性の判断で
 ことを決めて行こうとする者になっているのだそうです。

 

 

 その結果、私たち人間は、
 歯止めのきかない欲望を持つ者になり、
 世界中の富を独り占めにしても
満足することを知らない者になっているのですね。

 

「このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。」(コロサイ3:5)

 

 

 天の神、主との関わりを持とうとしないで、
 富を負い求めていくこと、
それは他の神々に仕えることになるということでしょうか。

 

 富も、そのほかのすべてのものも、
 天の神、主に相談し、
 見ていただき、
 知っていただきながら持っていく、
ということのようですね。

 

 

あなたがたのすることは、
 言葉によると行いによるとを問わず、
すべて主イエスの名によってなし、
 主によって父なる神に感謝しなさい。コロサイ3:17

 

 

 イエスが十字架刑で処刑されて下さったことを通して
私たちに来て下さる聖である霊と呼ばれる方は、
 私たちの心の中に、
このような思いを置いて下さるのですね。
 今日も。

 

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