風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

憐れみにすがっていいのだそうです。ダビデのように

憐れんでください、
神よ、私を憐れんでください。
私の魂はあなたを避けどころとします。
詩編57:2
 
 
あなたがたは悪い者でありながらも、...
自分の子どもには良い物を与えることを知っている。
まして、あなたがたの天の父は、
求める者に良い物をくださるにちがいない。
マタイ7:11
 
      (ローズンゲン日々の聖句2/5;木)
 
 
 
 イスラエルの王サウルに命ねらわれ、
荒野を逃げまわっているダビデの
天の神、主への叫びなのですね。
 
 ダビデは、自分のまじめさや誠実さ、
善行や功績を足掛かりにしてではなく、
ただ、主である方の憐れみに訴えているのですね。
 
 私たち、少しでもいい人間になって、きれいな人間になって、
それを足掛かりにして天の神、主の前に出ようとする者ですが、
それはイエスのたとえにもある、
王子の婚礼の席に、王の出してくれた礼服を着ないで、
自分の服のままで出席した人のようで、
王子の婚礼の宴にはふさわしくなくて、
外に放り出さた人のようですね(マタイ22:1~14)。
 
 婚礼に招待されていた人たちは、皆、断ったので、
大通りに出て行って、出会った人を集めたので、
みんな、礼服の用意などしていない人たちだったのですね。
それで、みんなが着ている礼服は、王が用意したものだったようです。
 
 天の神、主は、私たち人間のすべてが、
天国の宴会にふさわしい礼服(正しさ)を持っていないのをご存じで、
私たち人間に対する憐れみから
御自身の側で私たち人間が着る礼服(正しさ)を用意して
差し出していて下さるのだそうです。
 
 天の神、主は、
御子である方を人間として、人の世に生れさせ、
およそ33歳の頃、この方を私たち人間の身代わりとして
十字架刑で処刑し、私たち人間を処罰が終った者とする手続きを
完了して下さったのだそうです。
 
 そのうえで、さらに、もう一人の方、
聖である霊と呼ばれる方を私たちの内に派遣して、
この方によって、人間一人一人、各自に関わる御自身の御思いを
書き付け、この方の定め(御思い)を歩むようにすると
おっしゃるのですね(エゼキエル36:26)。
 
 聖である霊と呼ばれる方については、
「求めるなら受け、探す者は見つけ出し、
門をたたくなら開けてもらえる」ようになっているのだそうです。
「天の父が、求める人たちに、
どうして聖霊をくださらないことがありましょう」と
イエスは仰ったのだそうですから(ルカ11:13)。
 
 私たち、努力して、自分の義の衣を少しでもよくして、
天国の宴会にふさわしい晴れ着にしようとする道もありますが、
天の神、主は、
御子イエスの命をかけて
御自身が用意した礼服、
聖である霊と呼ばれる方をお迎えして、
この方によって、心の思いを一新してもらって(ロマ12:1~2)、
この方から来る「思い」によって生きていく生き方を
受け取って欲しいのだそうですね。
今日も。
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