風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

神を見る人たち

私の神よ、
私はあなたが人の心を調べ、
正しいものを喜ばれることを知っています。
歴代誌上29:17
 
 
心の清い人々は、幸いである。
その人たちは神を見る。マタイ5:8
 
          (ローズンゲン日々の聖2/6;金)
 
 
清い(カサロイ)とは、純潔という意味と共に、
純粋、純一、まざりもののない、水で薄められていない、
混合物のないとの意味をもつ言葉だそうです。
 
 普通、心が清いというと、
きれいな心、悪いことを思わない心のことだと思います。
 
しかし、もし、イエスがそのような意味で
この言葉を言われたのであるなら、
誰ひとり、神を見ることができる者はいないことになり、
この言葉は私たちと関係のないものとなるのでしょう。
あるいは、基準を引き下げ、努力目標程度にするとか。
 
 
 もし、この「心が清い」を、善悪の判断を横に置いておいて、
純粋、純一な、混ざりもののない、
現在、只今の本心ととるとどういうことになるでしょうか。
 
 私たち、誰かを憎む心が起きると、大慌てで、
憎む心を抑え込み、憎む心をなくしてから、
神の前に出ようとします。
 
怒りでも、不満でも、あるいは空しさでも、悲しみでも、
自分でそれをなくして、きれいな心になって神の前に出ようとします。
 
あるいは、「そういう心を取り去って下さい」と、
せめても、殊勝な心になっていることを披歴する祈りをするのですね。
 
現在、只今の「本心」と
「こうであるべき」心とが共存しているのですね。
純粋、純一、単一な心ではなく、二心なのですね。
 
ある人が、これを仁王像の美しさにたとえていました。
仁王像は怒りに成り切っているから美しいのだと。
 
 
二心の人たち。心を清く(純一、単一)にしなさい。ヤコブ4:8
 
 
 私たち、正しい、あるべき心だけに成り切ることは難しいですね。
でも、現在、だだ今の本心に成り切ることは、
あるいは、できるでしょうか。
 
 天の神、主は、人の心を見られる方。
この方の前に、ごまかしは利かないのですね。
 
 イエスは、清い(純一、単一)な心になれば、
神を見ると言っておられます。
 
人に対して、単一な心になれば、
喧嘩になり、人を傷つけ、人殺しをすることになります。
 
けれども、天の神、主の前には、
イエスご自身が私たちが受けるべき罪の罰の全てを、
私たちに代わって受けて下さっている今、
私たちは、現在、只今の本心(単一な心)に成り切って
御前に出て行っても大丈夫なのだそうです。
 
その罪の本心は、
イエスの十字架刑で処刑されてしまっているものとの
証明をいただいて、
イエスの贖いによって、親しく御顔を仰ぎ見、
「わたしの愛する子よ」とのお声をいただき、
「わが父」とお答えする親しい関係が深められながら、
新しく、聖である霊と呼ばれる方が私たちの内に派遣されて、
私たちの心に御思いを書き付けて下さって、
思いを一つにしながら歩む、
新しい生き方を始めて下さるのだそうです。
 
イエスがそうであったように。
今日も。
 
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