風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

神がいるなら、なぜ、こういうことが起こるのか。

ギデオンの言葉:神が私たちと共においでになるのなら、
なぜこのことが私たちにふりかかったのですか。
士師記6:13
 
私たちは今は(金属をみがいて作った)鏡におぼろに映ったものを見ている。
だがその時には、顔と顔とを合わせて見ることになる。

 
私は今は一部しか知らなくとも、
その時には、はっきり知られているように
はっきり知ることになる
。Ⅰコリント13:12
 
                (ローズンゲン日々の聖句5/12;火)
 
 私たちが、「天の神、主と心を一つにする者になる」とはいっても、それは私たちがこの方と等しくなるということではなく、部分的なことなのですね。
天の神、主のお心を海の水にたとえると、私たちが一つにしていただいている部分は小さな杯いっぱいの水のようなものでしょうか。
 
  私たちの知るところは、預言にしても知識の言葉にしても、おぼろげであり、ほんの一部分にすぎないわけですけれど、それは、天の神、主が、啓示しようと思われる分、用いようと思われる分に応じてのことなのでしょう.
 
  でも、やがて、御前に出て、顔と顔を合わせて礼拝し、この方がはっきり知って下さっているように、私たちもこの方のことをはっきり知ることができる、その時が来るとおっしゃって下さっているようですね。
 
 ギデオンは、神が共においでになるなら、なぜ、このような隣国から侵入され、略奪されるような国難が起こるのか、それは、神がいらっしゃらないからではないかと思ったようですけれど、神は、そのような苦難を通して民が御自分に立ち返ることを望まれ、御自分の栄光の御業を私たちに見せて下さるようですね。
 
 ちょうど、イエスが生まれつきの盲人について、「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです」とおっしゃられて、その盲人をいやされ、見えるようにして下さったように(ヨハネ9:1~12)。
 あるいは、パウロが捕えられ、投獄されていることによって、それが「キリストのゆえに」であることがローマ皇帝の親衛隊全員とローマにいるそのほかのすべての人にも明らかになり、イエスを信じる者たちが確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神の言葉を語るようになったように(フィリピ1:12~18)
 
 私たち自身の前にも、私たち自身が原因で起こること、なぜこんなことが起こるのかと理不尽に思えるようなことなど、いろいろな困難や苦難が起こりますが、天の神、主は、それらのことも用いて御自身の栄光を現して下さり、御自身が私たちと共にいて下さることを私たちに体験させて下さるために用いられるようですね。
 
 天にの神、主は、調子良く行っていると、すぐ、自分が神であるかのように思い、神がいなくても自分でやっていけるかのように思い上がる私たちに、私たちの知るところ、見るところは、おぼろげであり、一部分であることを分からせ、いよいよ、天の神、主の御思いを求め、体験し、知って行く者にしようとしていて下さるようですね。
今日も。
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