風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

羊は、羊飼いの声を知っているので、羊飼いについて行くのだそうです。

モーセは主に言った。
「お願いです。
もしあなたが私に御好意を示してくださるのでしたら、
どうか今、あなたの道をお示しください。」出エジプト33:13
 
 羊飼いは自分の羊の名を呼んで連れ出す。
自分の羊をすべて連れ出すと、先頭に立って行く。
羊はその声を知っているので、ついて行く。ヨハネ10:3~4
 
                (ローズンゲン日々の聖句5/17;日)
 
 モーセに導かれてエジプトを脱出したイスラエルの民は、シナイ山のふもとで律法を示され、「主の仰せられたことはみな行い、聞き従います」と答え、神の民となる契約が成立したのだそうです(出エジプト24:7~8)。
 
 けれども、モーセが神に呼ばれてシナイ山に登り、数日が経ち、山から下りて来るのに手間取っていると、「さあ、私たちに先立って行く神を造ってください。私たちをエジプトの地から連れ上ったあのモーセという者が、どうなったか、私たちには分からないから」とアロンに迫り、自分たちの神として金の子牛を造らせ、これを拝み、すわっては飲み食いし、立っては、戯れたのだそうです(出エジプト32:1~6)。
 
 民はそのように自分の理性の判断で行動していく者でしたが、モーセは、違ったようですね。
自分の理性の判断に頼らず、天の神、主と呼ばれる方がどう思っておられるのか、その方の考えをお聞きして行動しようとしていたようです。
 
 羊は、生まれたときから食べ物をくれ、自分の世話をしてくれる自分の羊飼いの声を聞き分けるのだそうです。それで、水飲み場で、いくつもの羊の群れが入り混じっているときにも、羊飼いが自分の名を呼ぶと、その声を聞き分け、混雑の中から出て来て、羊飼いのところに集まるのだそうです。そうして、羊飼いが羊の群れの先頭に立っていくと羊たちはその後について行くのだそうですね。後ろからむちをもって追い立てるのではないようです。
 
 私たちも、同じように、自分の理性による判断によって行動し、天の神、主に聞こうとしない者、うなじ(首筋)のこわい(固い)者です。けれども、イエスの十字架刑での処刑を私自身の処刑と見なしていただき、処刑済みの者、罪の罰の残っていない者と手続きしていただいて、もう一人の助け主、聖である霊と呼ばれる方をお迎えするなら、この方によって、心に、天の神、主の御思いを置いていただくことができるようになるのだそうですね。旧約聖書でずっと語られていた「父の約束」(使徒1:4~5)なのだそうですから。
 
 この方によって、私たちも天の神、主の思っておられること、考えておられることの私自身に関することを知るようになり、羊が羊飼いの声を聞き分けて、羊飼いについて行くように、この方の御思いについて行くことができるようにしていただけるのだそうです。
 
 私たち、自分の理性が働き、いろいろ判断していますけれど、その判断ですぐ行動するのではなく、その判断も御前に差し出し、見ていただき、知っていただきながら、モーセのように、天の神、主の御思い、お考えもお聞きしていくようにしていただけるのだそうです。
「聖である霊」と呼ばれる方によって。
この新しい週も。
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