風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

打ち砕かれた悔いた心、それが恵みを受け取ることが出来る心なのだそうですね。

わたしは地上から上げられるとき、
全ての人を自分のもとへ引き寄せよう。
ヨハネ12:32(今週の聖句)
  打ち砕かれ悔いる心を、
神よ、あなたは侮られません。
詩編51:19
 
 ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに
「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。
マタイ9:11
              (ローズンゲン日々の聖句5/18;月)
 
 木にかけられる者はすべて呪われた者(申命記21:22~23、)なのだそうです。
 イエスは、私たち人間に代わって十字架に架けられ、天と地との間に高く掲げられ、神に呪われた者となって死んで下さったのだそうです(ガラテヤ3:13)。そして、そのことが成ったなら、全ての人をご自分のもとに引き寄せると仰られるのですね。
 イエスは私たちすべての人間を自分のもとに引き寄せようとしていて下さるのだそうです。けれども、自分の良さに期待している者、自分をなんとかできると思っている者はイエスの十字架のもとには来ようとしないのですね。「私には十字架に架かったイエスなど、必要ない」、「私は自分の責任は自分で取る」と。
 
 打ち砕かれた悔いた心、自分の実体を実体のとおりに認めて、自分は地獄必定の者と認める者にとっては、天の神、主が、イエスの処刑を私の処刑と見なして下さり、私を処刑済みの者、イエスによって処罰はすべて執行され、私に対する罪の罰はひとかけらも残っていないと帳簿付けして下さっていることは、この上もなく、ありがたいことなのですね。
 
 あの当時も、自分を神に熱心な者、律法を守ることに熱心な者、信仰深い者と自他ともに認めているファリサイ派の人たちはイエスの行動に批判的でしたが、徴税人、罪人のやからと世間からのけ者にされていた人たちは、イエスを歓迎したのだそうです。
 
 今、イエスに代わって来て下さっている聖である霊と呼ばれる方は、私たちを、自分の実体のままに、「私はこのような者なのだ」とありのままに認めさせて下さり、その罪の場で、何の資格も働きもないその場所で、「私はイエスの十字架で処刑された者」と受け取らせて下さって、天の神、主を「わが父」と仰がせ、呼ばせて下さり、導き、私たちを通しても働いて、御業を行って下さるのだそうです。
今日も。
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