風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

身に覚えのないことで悪口を浴びせられるとき

私の神、主よ、
あなたを避けどころとします。
私を助け、負い迫るものから救ってください。
詩編7:2
 
 わたし(イエス)のためにののしられ、迫害され、
身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、
あなたがたは幸いである。
マタイ5:11
 
              (ローズンゲン日々の聖句7/4 ;土)
 
 イエスは、私たちに代わって、ののしられ、迫害され、
あらゆる悪口を浴びせられて下さり、
それを黙って受け取って下さったのだそうです。
裁判をしているローマ総督ピラトが不思議に思うほどに。
 
 イエスが生まれる700年ほど前に預言されたイザヤ書
その53章に記されているとおりに、
彼は、「痛めつけられた。彼は苦しんだが口を開かない。
ほふり場に引かれて行く羊のように、
毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
しいたげと、裁きによって彼は取り去られた。
彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。
彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、
生ける者の地から絶たれたことを」、
と預言された方だったのですね。
 
 芦の棒を持たされたら持ったまま、
いばらの冠を頭に突き刺されたら突き刺されたまま、
つばきを吐きかけられたら吐きかけられたまま、
身に覚えのない悪しざまな告訴にも、ひと言の抗弁もしないで、
鞭打たれたら鞭打たれるまま、
十字架をかつがされたらそのままかつぎ、
釘で打ち付けられるときも何の抵抗もしないで。
 まさしく、彼は「私たちのそむきの罪のために刺し通され、
私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた」(イザヤ53:4~6)と預言されたその方だったのですね。
 
 天の神、主は、私たちに、
この方を避けどころ、避難所とし、救い主とするよう提供して下さっているのだそうです。
 
 また、私たち、この世の人生で、
身に覚えのない悪口を言われたり、ののしられたり、
いじめにあったりすることがありますが、
それらをぜんぶイエスに持って行って、
聞いていただき、知っていただくとき、
あえて反発し、対立するのではなく、
平和な中でいつしか通り過ぎさせていただくことも出来るのだそうです。
 白黒の決着は、「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする」(ヘブル10:といわれる方にお任せして。
 
「あなたが私の避けどころ。
私を助け、負い迫る者から救ってください」と
叫んで行けるのですね。
この方に。
今日も。
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