風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

新しい生き方を喜びたいですね。

悲しんではならない。
 主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。ネヘミヤ記8:10

 主において常に喜びなさい。
 重ねて言います。喜びなさい。フィリピ書4:4
...

       (ローズンゲン日々の聖句7/9;木)

 


 喜びの日なのですね。喜び祝う日。
 常に、いつも喜んでいていいのだそうです。
もう、衣を裂き、灰をかぶって悲しむ必要はなくなったのですね。
天の神、主ご自身が、私たち人間が善悪を知る者、そむく者であることをよくご存じで、いくら預言者を遣わし、立ち返るよう呼びかけても、これを無視し、羊のようにさまよい、自分の思う通りに自分勝手な道に向かって行く者であることを承知しておられるのだそうですから。

 


 それで、私たち人間に、負いきれない重荷を負わせることをせず(使徒15:10)、私たち人間が自分の力で律法を全うしようと努力するよりももっと質の違った、心の中から主を愛し、思いを一つにしていく道を拓かれたのだそうですから。

 


 天の神、主は、ご自身の側で、私たち人間に対する熱心において、私たち人間が、愛において、ご自身と思いを一つにしていく道を拓かれたのだそうです。

 


 永遠の昔から共におられた、独り子である神と呼ばれる方を人間イエスとして人の世に生まれさせ、この方を十字架刑で処刑することで私たち人間のそむきを処罰して、私たちの「生まれたときからの霊」を処刑されたものとし、死亡手続きを完了していて下さるのだそうです。

 


 そのうえで、もう一人の方、「聖である霊」と呼ばれる方を私たちの内に派遣して下さって、この方の働きで、私たちの心の思いにご自身の、私たち一人一人に関わる御思いを置いて下さって、私たちがご自身と思いを一つにし、思いを共有しながら生きる者にして下さるのだそうですから。

 私たちは、「罪に対しては死んだものであり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者」だと思って(認めて、計算して)いいのだそうです(ロマ6:11)。

 


 それで、このことが成っている今は、自分の至らなさを、自分の力のなさを見つめて悲しんでいるよりも、聖である霊と呼ばれる方をお迎えし、この新しい生き方を受け取って喜びなさい。喜び祝いなさい。いつも、常に喜びなさいと勧めてくださっているのだそうですね。
 今日も。

 

 

 

 

 


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