風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

主こそ、わが光!

たとえ闇の中に座っていても、
主こそわが光。
ミカ書7:8
 キリストの言葉:
わたしを信じる者が、

誰も暗闇の中にとどまることのないように、
わたしは光として世に来ました。
ヨハネ12:46
      (ローズンゲン日々の聖句7/23;木)
 
 主が光なのですね。主の御思いが。
主の御思いの中にとどまる時、私たちは光の中にいるのですね。
たとえ、まわりの状況が最悪で、暗闇の中に座っているようであったとしても。
 イエスは、光りとしてこの世に来られた方なのですね。
天の、父である神と呼ばれる方の御思いを世に示し、御思いのとおりに生きるために世に来られた方なのだそうですから。
イエスは、言葉のひと言さえも、自分から話しているのではなく、天の父である神が話そうと思っていらっしゃることだけを話しておられたのだそうです(ヨハネ8:28)。
完全に、100パーセント、御父と思いを一つにし、行動を一つにしておられたのですね。
 それで、「わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです」(ヨハネ12:45)、「わたしと父とは一つです」(ヨハネ10:30)と言い得たのですね。
 イエスが、100パーセント、御父の御思いの中にいることで、光そのものであられらたように、私たちもイエスに合わせられ、イエスと一つになるものとして(Ⅰコリント10:16~17)、イエスがお遣わし下さる聖である霊と呼ばれる方をお迎えし、この方によって、心に、御父の、私たち一人ひとりに関わる御思いを書き記していただいて(エゼキエル36:26~27)、その御思いについて行くとき(ガラテヤ5:25)、私たちも、光りの中を歩んでいることになるということでしょうか。
 天の神、主が願っておられることは、私たちが、お互いに、「何事でも、自分にしてもらいたいことは、ほかの人にもそのようにする」生き方(マタイ7:12)なのだそうですが、聖である霊と呼ばれる方が、私たちの心に、そのうような生き方をしたいなという願いを起こさせて下さり、実現に至らせて下さるのだそうですから(フィリピ2:13)。
今日も。
イメージ 1