風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

満足しておられるのだそうですね。イエスは。

彼は自らの苦しみの実りを見、
それを知って満足する。イザヤ書53:11
 
 イエス・キリストはへりくだって、死に至るまで、
それも十字架の死に至るまで従順でした。
このため、神はキリストを高く上げ、
あらゆる名にまさる名をお与えになりました。フィリピ書2:8~9
 
        (ローズンゲン日々の聖句8/6;木)
 
 イエスは、さげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていたのですね。
人が顔をそむけるほどさげすまれ、だれも彼を尊ばなかったのだそうです。
まことに、イエスは私たちの病を負い、私たちの痛みを担ったのですね。
けれども私たちは思ったのです。
彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、イエスは私たちのそむきの罪のために刺し通され、
私たちの咎のために砕かれて下さったのだそうです。
 
 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
イエスが受けた打ち傷によって、私たちはいやされたのだそうです。
私たちは、みな、羊のようにさまよい、
自分が思うがままに、おのおの自分勝手な道に向かって行ったのですが、
天の神、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせられたのだそうです。
 イエスは痛めつけられ、苦しんだのですが、抗弁の口を開かなかったのだそうです。
裁判をしているローマ総督ピラトが不思議に思うほどに。
まるで、ほふり場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように。
しいたげと裁きによって、イエスは取り去られたのですね。
 
 このように、イエスを砕いて、痛めることは父である神の御心だったのだそうです。
イエスは、この御心に、十字架の死に至るまで従順に従われたのだそうです。
そして、イエスが、自分の命を、私たちの罪過をつぐなうためのいけにえとしたので、
私たちを取り戻そうと思われた父である方の御心は、イエスによって成し遂げられたのだそうです。
 
 イエスが、私たち人間の咎を担い、自分の命を十字架刑の死に明け渡し、そむいた人たちとともに数えられ、私たち人間の罪を負い、そむいている私たちのためのとりなしを完成させて下さった(イザヤ53:3~12)今は、もう一人の助け主、聖である霊と呼ばれる方が私たち人間の内に来て下さる道が開けたのだそうです。

 それで、聖である霊と呼ばれる方は、ご自身を迎え入れる者の内に来て下さって、
私たちの心に、父である神と呼ばれる方の、私たち一人一人に関わる御思いを書き記して下さって、
私たちが父である神と呼ばれる方と同じ思いを思うようにして下さり、
私たち一人一人が父である方と一つ思いになって、
父である神が私たち一人一人を通してしようと思われることをして行く者にしていただけるのだそうです。
今日の分を今日。
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