風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

人の心に思い浮かびもしなかったことをして下さっているのだそうです。あの方。

まことにあなたは御自分を隠される神。
イスラエルの神よ、あなたは救いを与えられる。
イザヤ書45:15
 イエスの言葉:
「人の子は異邦人に引き渡されて
侮辱され乱暴されてつばきをかけられる。
彼らは人の子を鞭打ってから殺す。
そして人の子は三日目に復活する。」
12人には言葉の意味が隠されていて理解できなかった。
ルカ18:32~34
        (ローズンゲン日々の聖句8/20;木)
 天の神、主は、御自分にそむき、さまよい出た人間を取り戻すために、目が見たこともなく、耳が聞いたことのない、人間の心に思い浮かんだこともない、人間の知恵では考えもつかないことをして下さったのだそうです。
 天の神、主、父である神と呼ばれる方、御子である神と呼ばれる方、聖である霊と呼ばれる方が、それぞれ全知であり、全能であり、永遠不変の方であるにもかかわらず、互いに愛し合っていらっしゃるゆえに、互いに心の思いを明かし合い、御子である神と呼ばれる方、聖である霊と呼ばれる方は、自発的に、ご自分の自由意思において、父である神と呼ばれる方の御思いが成ることを喜びとし、それだけを御自身の存在意義としておられる方、愛のゆえに、自発的に、完全に思いを一つにし、行動を一つにし、存在を一つにしておられる方なのだそうです。
 天の神、主は、その一つに加わるものをと願って人間を造られたのだそうですが、私たちは、始祖アダムとエバが、天の神、主と一つになっているよりも、自分をもっと偉い者にしようとして、天の神、主に対抗する道を選びとり、善悪を知る者、善悪の最終決定を、天の神、主の意見を聞かないで、自分一人の判断で決めてしまう者になって以来、その性質を受け継いで生まれて来た者なのですね。
 御子である方は、父である神の右の座にあって、天使の万軍の礼拝を受け、天使の万軍に号令する方、父である神、聖である霊と呼ばれる方とともに、人間を、そして、人間の住まいとしてこの天地万物、この大宇宙を創造した方であるにも関わらず、そのような、反逆者である私たち人間を御自分と心を一つにする者にと、取り戻すために天の栄光の座を後にして人間として生まれ、私たち人間のそむきの罪、反逆の罪の罰を御自身の身に引き受けて処刑されて下さり、私たち人間を処罰済みの者、刑罰の残っていない者として下さり、私たち一人ひとりの内に聖である霊と呼ばれる神が来て下さっても、私たちが亡びないで済むようにしようとしておられるのだそうです。
 聖である霊と呼ばれる神が、私たち一人ひとりの内に来られるとき、この方は、私たち一人ひとりの心に、父である神の私たち一人ひとりに関わる御思いを来させて下さって、この部分において私たち人間は父である神と同じ思いを思う者にしていただき、一つ思いを持ち、一つ願いを願う者にしていただき、人間創造の目的である、天の神、主と一つになる者にしていただけるのだそうです。
 このご計画は、神の民として選ばれたイスラエルの歴史の中で繰り返し預言され、旧約聖書にしるされていることなのですが、イスラエルの民も、世の指導者たちも、サタンでさえも、このことを理解できなかったのだそうです。
 人間の歴史がくだり、いよいよご計画のときが満ちて、御子である神と呼ばれる方は、人間イエス(主は救い)として生まれ育ち、まさに、これから十字架刑で処刑されるためにエルサレムに向かおうとしておられ、弟子たちに、あからさまにこのことを告げられたのですが、3年半にわたり、イエスと一緒に行動し、寝食を共にした弟子たちにも、理解できなかったのですね。
 イエスは、預言されていたとおりに、エルサレムの門の外で十字架刑にかけられ、過ぎ越しの祭りの小羊が屠られる金曜日のその時刻、午後3時頃に「完了した」と宣言されて息を引き取られ、墓に葬られたのですが、イエスが捕えられる場から逃げ出し、失望、落胆している弟子たちのところに、復活したイエスが身を現して下さって確かに生きていることを見せ、40日にわたって何度も現れ、弟子たちと語り合われ、オリーブ山で弟子たちが見ている前で天に帰って行かれたのだそうです。
 それから10日後、ペンテコステ(5旬節、50日目の祭り)、モーセを通して旧い契約が結ばれたその記念日に、約束の聖である霊と呼ばれる神が、集まっていた120人ばかりの弟子たち一人ひとりの内に来られて、弟子たちの心に天の神、主の御思いを来させて下さったので、弟子たちは、はじめて、この天の神、主のご計画の全貌が理解でき、物音に驚いてエルサレム中から駆け集まって来た人たちに、その御思いのとおりを語りだしたのだそうです。
 「50日前に、あなたがたが十字架につけたあのイエスこそ、神がつかわされた救い主、キリストであり、復活され、天の神の右の座に着き、今、あなたがたが見ているように、聖である霊と呼ばれる神を派遣されたのです」とのメッセージに心刺され、イエスを自分の救い主として受け入れ、バブテスマを受け、聖である霊と呼ばれる神をお迎えして弟子に加わった人たちが、成人男子だけで3000人ほど起こったのだそうです(使徒2章)。
 この神のご計画の事実は、恵みの賜物、プレゼントとして、その後もずっと続き、エルサレムから始まり、ユダヤ、サマリヤへ、地中海世界へ、インド方面へ、そして2000年の時を経て東の果ての日本の私たちのところにまで届けられているのですね。
イエスの十字架刑での処刑を私の処刑と受け入れ、聖である霊と呼ばれる方をお迎えし、この方によって天の父である神と呼ばれる方と思いを一つにしながら生きていく一日が。
今日も。
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