風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

もし、生きるなら、あの方のために生き、もし死ぬのなら、あの方のために死ぬ

主が私を愛さない(わたしの心にかなわない)と言われるときには、
 どうかその良いと思われることを私に対してなさるように。サムエル記下15:26
私たちは、生きるとすれば主のために生き、
 死ぬとすれば主のために死ぬのです。
従って、生きるにしても、死ぬにしても、
 私たちは主のものです。ロマ書14:8

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      (ローズンゲン日々の聖句10/3;土)
 「天の神、主の、お心のままに、思ったとおりにしてくださるように。」
これは、息子アブシャロムの反乱に遭い、エルサレムから急いで逃れる時のダビデ王のことばなのだそうです。
生きるのも主のために、死ぬのも主のために。
自分が王であるのも、王の座から追われ、エルサレムにいられなくなるのも。
そして、主がそう思ってくだされば、また、王としてエルサレムに帰って来ることも出来る。
主が、良いと思われることを私にしてくださいますように、と。
 だれも、自分のために生きる者はなく、だれも自分のために死ぬ者もいない。
生きているのも主の御心によって、死ぬのも主のみこころによって、という生き方なのでしょうか。
 宮本武蔵のところに、だれだったかが訪ねて行って、「**の極意は」、と問うたとき、武蔵は高弟のひとりを呼んで、「〇〇よ、主命である。ただちに切腹せよ」と命じたところ、その弟子はすぐ自分の切腹の準備を始めた。武蔵は「これが**の極意です」と答えたという話を聞いたことがありますが、相通じる境地なのでしょうか。
 ペテロが、ヘロデによって捕えられ、明日は、民の前に引き出されて処刑されるというとき、天使がペテロを牢から連れ出し、解放したのも(使徒12:1~11)、ローマで、逆さ十字架にかけられて殉教したのも、主が良いと思われることを私にしてくださるように、という関係の中での出来事だったようですね。
 私たちは、自分でこの世に生まれて来て、自分で生きているかのように思っていて、イエスの、ぶどう園の農夫のたとえにあるように(マタイ21:44)、借りているぶどう園なのに、自分の物のように思い違いをして、ぶどう園の持ち主を無視する、そういう生き方をしています。
 私たちの造り主、主は、私たちが「われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)という創造の目的に立ち返り、ご自分のもとに立ち返って、ご自分と心を、思いを一つにしながら生きていってほしいのだそうです。
私たち一人一人を通してしたいことがあるのだそうですから。
今日も。
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