風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

ないがしろにはされないのだそうです。私たちの願いを!

主はすべてを喪失した者の祈りを顧み、
 その祈りを侮られませんでした。
詩編102:18
まして神は、
昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために

裁きを行わずに、
彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。
ルカ18:7
      (ローズンゲン日々の聖句10/10;土)
 叫び求める声を侮られたり、ないがしろにされることはないのだそうですね。このお方は。
 ただ、私たちは何を叫び求めるのでしょうか。
私たち人間を創造された方は、愛し合うゆえに、自発的に「われわれが一つになっているように、われわれと一つになる者を」と願って私たち人間を造って下さり、それゆえに、私たちにも、自発的に「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして」愛して欲しいと、「あなたの隣人をあなた自身のように愛して欲しい」(マルコ12:29~31)と、「正義とあわれみと誠実」を持って欲しい、内側をきよめて欲しい(マタイ23:23~28)とおっしゃっておられるのだそうですが、私たちは何を願っているのでしょうか。
 すべてを喪失した者、窮した者、
自分の生まれたときからの霊は、天の神、主に対抗し、自分を天の神、主の上に置き、自分一人の判断で善悪を裁定しようとする者、自分を神のように高め、神に対抗できる立派なものにしようという思いばかりで、天の神、主と心を一つにしようという思いは出て来ない者であることを認めて助けを求める者の叫び(ロマ7:24)に答えてくださらないことはないのだそうです。
 独り子の御子を人として人の世に生まれさせ、この方に私たち人間のそむきの罪のすべてを背負わせて十字架刑で処刑され、「生まれたときからの霊」という私たち自身を処刑済みとし、死んだものとしてくださった方は、求める者に、必ず、もう一人の方、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣して下さって、この方の働きによってご自身の思いを、私たち一人一人の心に置いて下さり、ご自身と思いを一つにする者にしてくださるのだそうですが(エゼキエル36:26、使徒2:4)。
私は何を求めるのでしょうか。
今日。
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