風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

のどもと過ぎれば熱さを忘れる、私たちですから

ファラオは、雨も雹も雷もやんだのを見て、
 またもや過ちを重ね、彼も彼の家臣も心を頑迷にした。

     出エジプト記9:34
神の恵みから除かれることのないように、
 気をつけなさい。ヘブル書12:15
      (ローズンゲン日々の聖句10/12;月)
 エジプトでは、ヨセフのことを知らない王朝が起こり、イスラエル人を奴隷として使役するようになったのだそうです。
それで、民が神に向かって叫んだので、天の神、主は、モーセを送って、イスラエルの民を解放するよう、エジプトの王ファラオと交渉させたのだそうです。
 心をかたくなにして、イスラエルの民を去らせようとしないファラオに対して、天の神、主は、モーセを通して、
モーセの杖を蛇に変え(出エジプト7:8~13)、
ナイル川の水を血に変え(7:14~25)、
かえるが地に満ちるようにし(8:1~15)、
地のちりをぶよに変え(8:16~19)、
あぶの群れで満たし(8:20~32)、
エジプト中の家畜を疫病で打ち(9:1~7)、
うみの出る腫物を起こさせ(9:8~12)、
エジプト建国以来、今までになかったような雹で打たれた(9:18~35)のですが、そのときは、去らせると言いながら、モーセが執り成しの祈りをして、わざわいが去ると、心をかたくなにして、イスラエルの民を去らせようとはしなかったのだそうです。
のどもと過ぎれば、熱さを忘れる私たちなのですね。
 天の神、主は、私たちが、恵みに慣れ、それを自分で得たかにように思い上がって、恵みをあなどり、軽く見てしまうとき、自分の「切り出された岩、掘り出された穴」(イザヤ51:1)を、自分がどういうところから救われて来たのかを思い起こし、恵みを受け続けていってほしいと願ってくださっているのだそうですね。
今日も。
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