風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

いかに幸いなことでしょう。心を尽くし、主の御思いを尋ね求める、その人は。

いかに幸いなことでしょう。
主の定めを守り、
心を尽くしてそれを尋ね求める人は。
詩編119:2
義に飢え渇く人々は、幸いである、 ...
 その人たちは満たされる。マタイ5:6
      (ローズンゲン日々の聖句10/13;火)
 愛は、相手の心と一つになりたいと願うもののようですね。
心を尽くして、主と思いを一つにしたいと思うほどに、主を愛する人は幸いなのですね。
 義に飢え渇くとは、「生まれたときからの霊」という、自分自身から出て来る思いは、神である主を自分の願いの実現のために使っていこうとする思いばかりで、神である主の御思いを求める気持ちなど、かけらもない者であることに気づき、神である主を愛する者になりたいと飢え渇く気持ち。
その願いは満たされるのだそうですね。
 天の神、主は、ご自身と一つ思いを持つ者の場から、さまよい出、はずれた者になってしまっている私たち人間を、ご自身と一つ思いを持つ者へと取り戻すために、独り子である御子を、人間イエスとして、人の世に生まれさせ、この方を十字架刑で処刑することで、「生まれたときからの霊」という私たち自身を処刑が終わったもの、死んだものとみなしてくださって、私たちの反逆罪を処罰済みの手続きを完了してくださり、「聖である霊」と呼ばれる方が私たちの内に来られても、私たちが滅びてしまわないようにしていてくださっているのだそうです。
 それで、今は、受け入れる者に、この方、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣して下さって、この方によって、ご自身の、私たち一人一人に関する御思いを私たち一人一人の心に置いてくださるのだそうです。
 「聖である霊」と呼ばれる方ご自身が、全知、全能、永遠・不変の方でありながら、「父である神」と呼ばれる方と思いを一つにし、心を一つにし、行動を一つにし、存在を一つにするほどに、「父である神」と呼ばれる方を愛し、尊敬しておられるのだそうです。
 そして、その篤い思いを私たちの心に来させてくださるのだそうです。
 それで、私たちも、この方に似せられて、心を尽くして、御思いを尋ね求める者に、心を一新していただけるのだそうです。
 あのツァラト(ハンセン病)の人が、イエスに、「主よ。お心一つで、私をきよくしていただけます」と、イエスの思いが成ることを求めていったように(ルカ5:12~16)。
今日も。
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