風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

栄光の御座におられる方を仰ぎながら

わたしはすべての国、
 すべての言葉の民を集めるために臨む。
彼らは来て、わたしの栄光を見る。
イザヤ書66:18
人の子は、
 栄光に輝いて天使たちを皆従えて来るとき、
  その栄光の座に着く。
そして、
 すべての国の民がその前に集められる。
マタイ25:31~32
      (ローズンゲン日々の聖句11/13;金)
 最初の時、あの方は、低く低く、貧しい姿で、
私たちの罪を御自身の身に負われるために来られたのですね。
 まさしく、
「彼には、私たちが見とれるような姿もなく、
輝きもなく、
私たちが慕うような見ばえもない。
彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、
悲しみの人で病を知っていた。
人が顔をそむけるほどさげすまれ、
私たちも彼を尊ばなかった。
まことに、彼は私たちの病を負い、
私たちの痛みをになった。
だが、私たちは思った。
彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
しかし、彼は、
私たちのそむきの罪のために刺し通され、
私たちの咎のために砕かれた。
彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
私たちはみな、羊のようにさまよい、
おのおの、自分かってな道に向かって行った。
しかし、主は、私たちのすべての咎を
彼に負わせた
彼は痛めつけられた。
彼は苦しんだが、口を開かない。
ほふり場に引かれていく羊のように、
毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、
彼は口を開かない。
しいたげと、さばきによって、彼は取り去られた。
彼の時代の者で、だれが思ったことだろう。
彼がわたしの民のそむきの罪のために打たれ、
生ける者の地から絶たれてことを。
彼の墓は悪者どもとともに設けられ、
彼は富む者のともに葬られた。
彼は暴虐を行わず、その口に欺きはなかったが。(イザヤ53:2~9新改訳)
との、イザヤの預言のとおりだったのだそうです。
しかし、今度、来られるときは、
神の独り子の栄光に包まれ、
天使の万軍を従えて来られるのだそうです。
「父である神」と呼ばれる方の右の座にあって、
すべての民を御前に集め、
御自身のいのちを差し出して完了した救いを無視し、
「自分の責任は自分で取る」生き方にとどまった者を、
正しく、公平に、その生きて来たとおりに、
その行いのとおりに裁かれるのだそうです。
心の奥底までも明らかにされて。
 
 御座に着いておられる方は、
ほふられたと見える小羊、
私たちの罪の罰のすべてを背負って、十字架刑で処刑された方、
なのだそうですから。
この方の贖(あがな)い、救いをいただき、
この方が派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えし、
その導きをいただきながら進みたいですね。
今日も。
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