風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

知恵には、それにふさわしい行いが伴うのだそうですね。

主のために、荒れ野に道を備えよ。
  見よ、主なる神は力を帯びて来られる。イザヤ書40:3、10(12・13日の週の聖句)
 
主を畏れることは諭しと知恵。箴言15:33
 
あなたがたの中で、知恵があり分別あるのはだれか。
 
その人は、知恵にふさわしい柔和な行いを、
   立派な生き方によって示しなさい。ヤコブ書3:13  
 
                        (ローズンゲン日々の聖句12/13;日)
 
 知恵が頭の中の出来事、ただ、知っているだけで終わってははだめなのだそうです。
行動が、知恵にふさわしい柔和な行いになり、その良い生き方によって知恵ある者と呼ばれるのでしょうね。
 
生き方、行動は、心の思いの現れであり、
そして、心の思いは、内なる「霊」から出て来るものなのですね。
 
 天の神、主との「思いを一つにしていく」生き方をやめ、
自分が、「神のひとりのようになり、善悪を知る者となった」、
生まれたときからの私という霊から来る思いは、
苦いねたみや敵対心であり、
そこから秩序の乱れやあらゆる邪悪な行いが出て来るのだそうです。
 
 しかし、上から来る知恵、
「聖である霊」と呼ばれる方が私たちの心においてくださる知恵は、
第一に純真であり、
次に平和、寛容、温順であり、
また、あられみと良い実とに満ち、
えこひいきがなく、見せかけのないものなのだそうです。(ヤコブ3:13~17)
 
 「神のひとりのようになり、善悪を知るもの」となっている、生まれたときからの私という霊は、
イエスの十字架刑での処刑に合わせといただき、処刑され、死んでしまっていることにしていただき、
三日目に死人の中から復活し、天に帰られ、
父である神の右の座に着いておられるイエスが派遣してくださる、
「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えするなら、
この方が、父である神の御心、
上からの知恵を私たちの心においてくださるのだそうです。
 
私たちも、この方によって心を一新していただき、
この、上からの知恵を我が思いとして生きていかせていただけるのだそうです。
この新しい週も。
 
イメージ 1
 
 

 

 

 

 

 

<ahref="http://www.blogmura.com/point/00697809.html" ><imgsrc="http://blogparts.blogmura.com/parts_image/user/pv00697809.gif"alt="PVアクセスランキング にほんブログ村"/></a>