風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

手を差し伸べ続けていてくださるのだそうですね。私たちに、絶えず

わたしは、反逆の民、思いのままに良くない道を歩く民に
  絶えることなく手を差し伸べて来た。イザヤ65:2
 
まだ遠く離れていたのに、
 父親は息子を見つけて、憐れに思い、
   走り寄って首を抱き、接吻した。ルカ15:20〜21
 
         (ローズンゲン日々の聖句12/23;水)
 
  家出をしたわが子に、帰って来て欲しいと、
その時を待ち続けている父親のようなのだそうです。
天の神、主は。
 
 御父と御子、聖である霊と呼ばれる方が心をひとつにしているように、
心を一つにする者をと願われて造られた私たち人間(創世記1:26)。
 
 それを嫌い、神のひとりのようになり、善悪を知るようになろうとしている私たち。
自分の理性を神とし、その判断を最良のものとして、
その思いのままに生きようとする者(創世記3:22)。
 
「私は天に上ろう。
神の星々のはるか上に私の王座を上げ、
北の果てにある会合の山に座ろう。
密雲の頂に上り、
いと高き方のようになろう」(イザヤ14:13~14)とする性質を持つ者なのですね。
私たち。
 
 自分が他よりもすぐれていなければ気がすまず、
良いものの全部を独り占めしようとする者。
その心に計ることはみな、悪いことに傾き(創世記6:5)、
そこに満ちるのは暴虐(創世記6:11)。
 
 天の神、主は、イスラエルを通した実験で、
私たち人間に期待できないことが明らかになった時点で、
新しい約束を予告してくださったのだそうです。
 
新しい霊、聖である霊と呼ばれる方をわたしたちのうちに派遣して、
この方の働きによって、御自身の御思いを心に書き付け、
御自身と思いを一つにする者にしてくださる(エレミヤ31:31~34、エゼキエル36:25~28)。
 
 そして、その新しい霊、聖である霊と呼ばれる方が来てくださるために、
御子である方が、人となって人間の世に生れられ、
この方がおよそ33歳の頃、十字架刑に架けて処刑され、
私たちすべての人間の、すべての罪を処刑済みとしてくださり、
聖である霊と呼ばれる方が来られても、私たちが滅びないで済むようにしてくださったのだそうです。
 
 イエスが、私たちに代わって十字架に架かってくださり、
墓に葬られ、三日目に死人のうちからよみがえられた今、
私たちが承諾さえすれば、聖である霊と呼ばれる方が私たちのうちに来てくださり(使徒2:38)、
私たちが、御父とひとつ思いを持つようにして、
御父が私たち一人一人を通してしようと思われることをするようにし、
御父の御思いをこの地にもたらす者にしていただけるのだそうですね。
私たちが承諾さえすれば。
今日も。
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