風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

すべての人に救いをもたらす神の恵みが現れたのだそうです。

主よ、あなたがお造りになった国々はすべて、
 御前に進み出て伏し拝み、御名を尊びます。詩編869
 
実に、すべての人々に救いをもたらす
 神の恵みが現れました。テトス書211
 
      (ローズンゲン日々の聖句1/7;木)
 
 神の御子である方が、人となって人間の世界に来られたとき、彼はご自分がお造りになった、ご自分の民のところに来られたのに、ご自分の民は彼を受け入れず、排除したのでそうです(ヨハネ1:11)。
 
 私たち人間は、天の神、主が、「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」と望まれて造られたものなのだそうです(創世記126)。
天の神、主、御父と御子と聖である霊とよばれる方が、お互いに愛し合い、尊敬し合っておられるゆえに、自由意思で、自発的に、思いを一つにし、行動を一つにし、存在を一つにしておられる方なのだそうですが、そのように、愛と尊敬をもって、自発的にご自分と一つになるものをとの願いによって、私たち人間は造られたのだそうです。
 けれども、人間は、天の神、主と思いを一つにし、行動を一つにし、存在を一つにしているよりも、「神のようになり、善悪を知るようになりたいと願い(創世記35)、天の神、主のひとりのようになり、善悪を知る者になったのだそうです(創世記322)。
 
 天の神、主に対立、対抗し、自分が神の上に位置し、自分一人をすべてのものの上に、最高の位置に置き、自分の理性による善悪の判断に他のすべてのものを従わせようとする者となったようですね。
そのような人間同士が集まる場所には、対立と競争、妬みと殺人、暴虐が満ちることになったようです(創世記6511)。
 
 それで、私たち、人間は、自分の都合のいい神を作り、これを拝むことはするけれど、まことの神、主に対しては、反抗心を持ち、無視し、従うことに嫌悪感を示すのですね。
 
 天の神、主は、そのような人間をなお愛し、惜しんでくださって、すべての人々に救いを与えようと道を拓いてくださったのだそうです。
 御子である方が、人間イエスとして、人の世に生まれてくださり、すべての人間のそむき、的外れの責任を御自身に負ってくださって、十字架刑での処刑を受けてくださって、私たち、人間の、処刑済みの手続きを残りなく済ませてくださっているのだそうです。
 
 そして、受け入れる者に、もう一人の助け主、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣してくださって、この方によって、一人一人の心に、天の神、主の一人一人に思っておられる御思いを書き付けてくださって、受け入れる者が、天の神、主と思いを一つにして生きるようにしてくださるのだそうです(エゼキエル362528)。
これは、すべての人のために拓かれた恵みのプレゼントなので、求める者、受け取る者には誰にでも与えられる新しい生き方なのだそうです。
 
 あの方と思いを一つにし、あの方の御思いをこの世界にもたらすために生きさせてくださるのだそうですね。
今日も。
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