風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

多くの人の益を求める思いを、

今日、あなたたちが神の声を聞くなら、
  心をかたくなにしてはならない。ヘブル書3:15(1/31の週の聖句)
 
身分の低い者から高い者にいたるまで、
  皆、利をむさぼり、
 預言者から祭司にいたるまで皆、欺く。
 彼らは、わが民の破滅を手軽に治療して 、
 平和がないのに、「平和、平和」と言う。エレミヤ書61314
 
 パウロの手紙:私も、人々を救うために、
  自分の益ではなく多くの人の益を求めています。Ⅰコリント1033
 
        (ローズンゲン日々の聖句1/31;日) 
 
 神の一人のようになろうとし、善悪を知る者となった私たち人間(創世記322)の理性は、天の神、主に対抗し、敵対する理性なのだそうです。それで、神の声を聞いても、自分の理性のふるいにかけ、納得のいくところは受け入れるが、そうでない部分は切り捨ててしまうのですね。
ですから、自分の理性の判断を、死んでしまっている者からの(あるいは死に定められたものからの)判断であることを認めて、これを横に置き、聖である霊と呼ばれる方からの思いを受け取って行くことが必要なのだそうです。
 心をかたくなにして、自分の理性の判断に固執していくなら、良いことを願っていったとしても、結果として自分の利をむさぼり、自分の益を求めていくことになるようですね。
 かつて、平和を求めて始まったはずの学生運動が、内部対立をし、総括、内部で殺し合うようになったり、共産主義が、自由と平等を掲げて革命まで起こしておきながら、新しく貴族階級を産み、弾圧と粛清を産んでいったように。
 
 私たち、順境にあっては、自分の理性から手を放すことができませんが、苦境や自分の手に余ることに出会うことによって、自分の理性の限界を知り、天の神、主を求めるようにもさせていただけるようです。
 
 「生まれたときからの私」という霊は、心、かたくなで、神に逆らう者、死ぬべき者と認め、
イエスの十字架刑での処刑に合わせていただいて、自分は処刑された者と受け取り、天の父の右の座にあってイエスが遣わして下さる「聖である霊」と呼ばれる方をお迎えし、この方によって、天の父と呼ばれる方の、私に関わる御思いを心に置いていただきながら、この御思いに聞いて行く、ついて行く日々でありたいですね。
このパウロのように。
新しい週も。
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