風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

あの方の見方で人を見るようにしていただけるのだそうですね。私たちも。

注意深く裁きなさい。

 私たちの神、主のもとには不正も偏見も収賄もない。歴代誌下19:7

イエスがその家で食事をしておられたときのことである。

 徴税人や罪人も大勢やって来て、

  イエスや弟子たちと同席していた。マタイ9:10

      (ローズンゲン日々の聖句2/5;金)

 裁く者は主のために、主の御思いを受け、そのお心のとおりに裁くべきなのだそうです。

紀元前850年頃のこと、ユダの王ヨシャパテは、ユダにあるすべての城壁のある町々にさばきつかさを立て、町ごとにこれを任命し、命じたのだそうです。

「あなたがたは自分のする事に注意しなさい。あなたがたがさばくのは、人のためではなく、主のためだからです。この方は、さばきが行われるとき、あなたがたとともにおられるのです。

今、主への恐れがあなたがたにあるように。忠実に行いなさい。私たちの神、主には、不正も、えこひいきも、わいろを取ることもないからです。」(歴代誌第Ⅱ 19:5~7新改訳)と。

 2000年ほど前のユダヤにおいて、徴税人は支配者ローマ帝国の手先になってローマ帝国のために、自国民から税金を取り立て、しかも、不正に取り立てて私腹を肥やしていたため、自国民からは毛嫌いされ、悪人の代表のように扱われていた人たちなのだそうです。

罪人とは、神の律法を守ろうとしない、ユダヤ人社会からははみ出していた人たち。

律法を守るのに熱心な人たちからは、挨拶もしてもらえない、家に入れてももらえない、まして、一緒に食事をするなど、考えられもしない人たちだったのだそうです。

 けれども、イエスは、その徴税人のマタイを弟子に招生き入れ、マタイや、徴税人の頭ザアカイの家に入って食事まで一緒にしたのですね。大勢の徴税人や罪人と呼ばれる人たちと一緒に。

 私たちの罪を背負って十字架刑で処刑されて下さり、三日目に墓から復活し、天に帰られ、父である神と呼ばれる方の右の座に着いておられるイエスが、私たち一人一人に派遣してくださる「聖である霊」と呼ばれる方が、

父である神の御思いを私たち一人一人の心に置いてくださるので、私たちも、イエスのように、御父が思っていらっしゃるとおりの見方で人を見るようにもしていただけるのだそうです。

私たち自身が持っている先入観や偏見を越えて。

今日も。

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