風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

特権を与えてくださるのだそうですね。子としての。

彼らは、
「あなたたちは、ロ・アンミ(わが民でない者)」と、言われるかわりに、
  「生ける神の子ら」と言われるようになる。ホセア書2:1
 
(ことば)は、自分を受け入れた人、その名を信じた人々には神の子となる資格を与えたヨハネ1:12
 
 (ローズンゲン日々の聖句2/12金)ご自分の子にしようとしていて下さる
 
 天の神、主は、「さあ、人と造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26)と思われ、
まず、人の住むべき場所として、この天地宇宙、この自然界を創造され、人が、何一つ不自由の無いように用意され、すべての準備を整えた後、人を造りエデンの園におかれたのだそうです(創世記1:1~2:8、イザヤ45:18)。
 
 イエスは、御自身の十字架刑での処刑を目前にした、捕えられる直前の最後の晩餐の席で、「父である神」に言われたのだそうです。
 
 「それは私たちと同様に、彼らが一つとなるためです。」(ヨハネ17:11)
 
 「それは、父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです。
また、彼らもわたしたちにおるようになるためです。」(同21)
 
 「それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つであるためです。
わたしは彼らにおり、あなたわたしにおられます。それは、彼らが全うされて一つとなるためです。」(同22~23)
 
 父である神、御子である神、聖である霊と呼ばれる神が、互いに愛し合い、相手を大切に思い合い、自分の思いが成るよりも相手の思うことが成ることを願い、思いを一つにし、行動を一つにし、存在を一つにしておられる方、唯一なる神。
 
だから、イエスは、
 「わたしが天から下って来たのは、自分の心を行うためではなく、わたしを遣わした方の御心を行うためです。」(ヨハネ6:38)
 
 「あなたがたが人の子を上げてしまうと(イエスを十字架に架けてしまうと)、その時、あなたがたは、わたしが何であるか、また、わたしがわたし自身からは何事もせず、ただ父がわたしに教えられたとおりに、これらのことを話していることを、知るようになります。」(ヨハネ8:28」
 
 「わたしは、自分から話したのではありません。わたしを遣わした父御自身が、わたしに何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。~~わたしが話していることは、父がわたしに言われたとおりを、そのまま話しているのです」(ヨハネ12:49~50)と言われたのでしょうね。
 
 この、父である神と、人となられた御子である神イエスとの一つになっている関係、その関係の中に加わる者とと望まれて、人を造り、その人のためにこの宇宙、地球の自然界を創造されたということのようです。
 
 けれども、私たち人間は、イエスのように父である神と思いを一つにするよりも、自分が神のひとりのようになり、自分の理性を自分の神とし、自分の判断、思いのとおりに生きる、自分の思いを実現しようとするもの、「善悪を知る者」となって、創造の目的に反抗し、創造の目的から外れた者になって今日に至っているのだそうですね。(創世記3:22)
 
 天の神、主は、その、的外れになってしまっている私たち人間を、なお、家族として迎え、相続権を持つ子にしようと、思いを一つにし、行動を一つにし、存在を一つにし、栄光を共にしようと願い続けていて下さるのだそうです。
 
 それで、御子である方、言(ことば)である神と呼ばれる方を、人間イエスとして人の世に生れさせ、この方が、およそ33歳の頃、この方を私たち人間の身代わりにして十字架刑で処刑し、処罰が済んでいるものとする手続きを済ませていてくださるのだそうです。
 
 そのうえで、受け入れる者に、もう一人の方、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣し、この方によって、受け入れる者の心に、御自身の、私たち一人一人に対する御思いを置いてくださって、受け入れる者の心にご自身の思っていらっしゃる思いが思われるようにしてくださり、一つ心になるようにしてくださるのだそうです。
 
 一つ家族として、子として、すべてを見てもらい、何でも相談しながら、父と思いを一つにしながら生きるようにしてくださるのだそうです。
今日も。
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