風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

脱出の道も用意していてくださるのだそうですね。あの方。

私たちは、神から幸福をいただいたのだから、  
  不幸もいただこうではないか。ヨブ記2:10
 
神は真実な方です。
あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、
  試練と共に、それに耐えられるよう、
    逃れる道をも備えてくださいます。Ⅰコリント10:13
 
      (ローズンゲン日々の聖句2/15;火)
 
 東の人々の中で一番の富豪といわれていたヨブ。
一日のうちに、7人の息子と3人の娘、全部を失い、隣国から攻め込んできた略奪隊に全財産を奪われてしまったのだそうです。
その時、ヨブは、
「私は裸で母の胎を出て来た。
また、裸で私はかしこに帰ろう。
主は与え、主は録られる。
主の御名はほむべきかな」(ヨブ1章)
と言ったのだそうです。
 
 さらに、今度は、足の裏から頭の頂まで、悪性の腫物ができたので、ヨブは灰の中に座り、土器のかけらで身をかくようになってしまいました。
その時、彼の妻は、ヨブに言ったのだそうです。
「それでもなお、あなたは自分の誠実を堅く保つのですか。
神を呪って死になさい」と。
 
 けれども、ヨブは答えたのですね。
「あなたは愚かな女が言うようなことを言っている。
私たちは幸いを神から受けるのだから、
わざわいうをも受けなければならないのではないか」と(ヨブⅡ:1~10新改訳)。
 
 私たち、自分の何かが原因で困難に遭うことが多いのですが、ヨブのように身に覚えのない困難に出遭うこともあるのでしょうね。
けれども、神は、私たちを耐えられないような試練に遭わせられるような方ではないのだそうです。
試練と共に、逃れる道をも、前もって用意していて下さる方なのだそうですから。
 
 「足跡」という詩があります。
振り返ると砂浜にずーっと二人分の足跡がついていた。
でも、ところどころ、足跡が一人分しかついていなかった。
思い出してみると、それは、大きな困難にあったときだった。
それで、主に申し上げた。
「なぜ、あなたは私が困難に遭ったとき、一緒にいてくださらなかったのですか」と。
そのとき、主は仰られた。
「あの時の、足跡がひとり分なのは、わたしがあなたを抱いて歩いたからだ」
という内容なのですが。
 
 せんかた尽きたように思えるときでも、ともかく一歩踏み出してみれば、神は運んで下さり、いつしか通り過ぎさせてくださる方なのだそうですね。
今日も。
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