風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

獅子はわが子を谷底に落とすのだそうですが、

主よ、私を懲らしめてください。
しかし、正しい裁きによって。
怒りによらず、私が無に帰することないように。エレミヤ書1024
 
 鍛練というものは、
当座は喜ばしいものではなく、
悲しいものと思われますが、
それで鍛え上げられた人々に、
義という平和に満ちた実を結ばせるのです。ヘブル書1211
 
      (ローズンゲン日々の聖句2/29;月)
 
 人間の道は、その人によるのではなく、歩くことも、その歩みを確かにすることも、人によるのではないのだそうですね(エレミヤ10:23)。
 
 天の神、主によって、愛し合い、御自身と「思いを一つにする者を」と願われて造られた私たち人間。
その方と一つであることよりも、自分がその方のようになり、「善悪を知る」ようになろう(創世記3:5)、その方よりも上の位置にいよう(イザヤ14:13~14)と思って、その方との一つを捨て、そむいている私たちの本体である「生まれたときからの霊」の実体。
 
 イエスの、十字架刑での処刑に合わせていただいて、「生まれたときからの霊」を処刑済みのものとしていただき、新しく来て下さった「聖である霊」と呼ばれる方が心に書き付けてくださる思いによって生きる者に新生したとはいえ、私たちは、古いものの中に新しいものを入れた状態で生きているのですね。
 
 それで、いつしか、死んだはずの古いもの、古い考え方、生き方の中にどっぷり浸かってしまって、古いものと新しいものとの見境がつかないで、古いものをなんとか立派に、聖くしようとしてしまいます。
 
 懲らしめ、試練、困難や自分の限界を感じる出来事に遭遇するとき、私たちは古いもので活きていたことに気づき、新しいものに目を向け、過ぎ去っていくこの世の生き方から、永遠の世界の生き方に切り替わることにもなるようです。
 
 まとわりつき、絡み付いてくる古いものを、死んだものからの思いと認めて、脱ぎ捨て、脱ぎ捨て、「聖である霊」と呼ばれる方から来る思いをいただきながら生きる、義という平和に満ちた実を結んでいく者ともしていただけるのだそうです。
 
 ヘブル書の記者も言います。
「わが子よ。
主の懲らしめを軽んじてはいけない。
主に責められて弱り果ててはならない。
主はその愛する者を懲らしめ、
受け入れるすべての子に、
むちを加えられるからである。」
訓練と思って耐え忍びなさい。
神はあなたがたを子として扱っておられるのです(ヘブル12:5~7)と。
 
今日も。
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