風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

一人の人、イエスの正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることに

わたしは勝利を告げ、
  大いなる救いをもたらすもの。イザヤ書63:1
 
一人の罪によって
  すべての人に有罪判決が下されたように、
 一人の正しい行為によって、
   すべての人が義とされて命を得ることになったのです。ロマ書5:18 この
 
       (ローズンゲン日々の聖句3/3;木)
 
 天の神、主は、永遠の昔から共におられ、この宇宙、この地球の自然環境の創造を共にされた方、御子である神と呼ばれる方を、女の子孫として、処女マリヤより、人間イエスとして、人の世に生れさせ、このイエスを十字架刑で処刑することで、罪に対する勝利、救いを完成させ、これをイエスによる福音、「良い知らせ」として提供し、これを受け取る者に与える道を開かれたのだそうです。
 
 人間の始祖、アダムは、天の神、主によって、「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」(創世記1:26と願われ、父である神と呼ばれる方、御子である神と呼ばれる方、聖である霊と呼ばれる方が、愛と尊敬において心を一つにし、思いを一つにし、行動を一つにし、存在を一つにしておられる、その一つに加わり、父である神と呼ばれる方と、心を一つにし、思いを一つにし、行動を一つにし、存在を一つにする者として造られたのだそうです。
 
 けれども、彼は、その造られた場にとどまることをいさぎよしとせず、自らが神の一人のようになり、善悪を知るようになろうとし、自分一人の理性の判断のとおりに生きる生き方を選び、造られた場を捨てたのだそうです。
この創造の目的から外れてしまった性質は、そのまま子孫に受け継がれ、私たちにまで及んでいるのだそうです。
まさしく、一人の人の罪(的はずれ)が、そのまま、すべての人の罪(的はずれ)として受け継がれて来たのだそうです。ずっと。
 
 天の神、主は、的はずれになってしまっているものを、なお惜しんでくださって、最初の、創造の目的に取り戻す計画を立てられ、その計画をこの人間の歴史の中で実行されたのだそうです。
 
 御子である神と呼ばれる方が、御思いのとおりに人の世に、人間として生まれられ、ご計画のとおりに、従順に従い、罪人とされて、十字架刑で処刑されて下さったのだそうです。
この一人の人の従順によって、すべての人に、創造の目的のとおりの生き方、永遠の命の生き方が回復されているのだそうです。
 
 天の神、主は、イエスの十字架刑での処刑を、受け取る者一人一人の処刑と見なしてくださって、そむきの罪のすべてを処罰ずみと手続きしてくださって、これを受け取った者に、もう一人の方、聖である霊と呼ばれる方を派遣してくださり、この方によって、そのとき、そのときの、一人一人に対する御思いをそれぞれの心に置いてくださって、受け取る者が御自身と心を一つにし、思いを一つにして生きるようにしてくださるのだそうです(エゼキエル36:26~27、ヨハネ17:21)。
 
 それで、この心に置かれた思いについていく者は、天の神、主が、その人ととおしてしようと思われることをしていく者、行動を一つにする者としていただけるのだそうですね(ヨハネ14:12)。
 
 奴隷の目が主人の手に向けられ、女奴隷の目が女主人のてにむけられているように(詩篇123:2)、私たちも天の御座に着いておられる方に向かって目を上げ、聖である霊と呼ばれる方によって心に来る御思いに心を向けさせていただけるのだそうです。
今日も。
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