風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

一粒の麦として死に、私たちのたすけ、希望となっていて下さる方

一粒の麦は、
  地に落ちて死ななければ、一粒のままである。
 だが、死ねば、多くの実を結ぶ。ヨハネ12:24(3/6の週の聖句)
 
神には力があって、
  助けることも、くじくこともおできになります。歴代誌下25:8
 
イエス・キリストは私たちの希望です。Ⅰテモテ1:1
 
        (ローズンゲン日々の聖句3/6;日)
 
 私たちは、天の神、主を愛する愛もなく、自分の努力では、この方と心を合わせていくことも出来ない者のようです。
 
自らが「神のひとりのようになり、善悪を知るようになろう」とした私たちは(創世記3:5)、自分の理性を神とし、その判断を実現していくことだけを求めている者であり、造り主である天の神、主に対抗し、対立している者なのだそうです。
 
それで、私たちはみな、不従順の子らの中にあって、自分の、「生まれたときからの霊」の欲の中に生き、「生まれたときからの霊」とその心の望むままを行い、生まれながら御怒りを受けるべき子らなのです。
自分の罪過と罪の中に死んでいる者、滅びに向かって突き進んでいる者なのですね。
 
 永遠の初め、父である神とともにおられた御子である神、父である神とともに人間の創造、この天地宇宙、地球の自然環境の創造に当たられた方、御子である神が、一粒の麦として地に落ちて死ぬために、人間イエスとして、この人の世に来られたのだそうです(ヨハネⅠ:1~14)。
 
 父である神は、すべての人間の、すべてのそむきの罪の罰をこの方の上に置き、この方を反逆者として処刑され、すべての人間が処刑されたもの、処罰が済んでいるものと手続きを済ませてくださっているのだそうです。
 
 そのうえで、もう一人の方、「聖である霊」と呼ばれる方を、受け入れる者一人一人に派遣してくださって、この方の働きで、私たちの心にも、天の神、主を愛する愛を起こし、愛する方の思っていらっしゃる通りを実現していきたいという熱い願いを起こし、御思いを求める心を起こしてくださり、私たちを、本当の意味で生きる者にしてくださるのだそうです。
 
 一粒の麦として、地に落ちて死んでくださったイエス。
この方によって、神なく、望みなく生きている私たちも、神を「わが助け」とし、死をもってもつぶれない「わが希望」として生きるようにしてくださるのだそうです。
この新しい週も。
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