死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を
主よ、国もあなたのもの。
あなたはすべてのものの上に
頭として高く立っておられる。歴代誌上29:11
私たちは、
イエスが死の苦しみのゆえに、
栄光と栄誉の冠を授けられたのを見ています。ヘブル書2:9
(ローズンゲン日々の聖句3/22;火)
とこしえからとこしえまでほめたたえられるべき方。
偉大さ、力、栄え、栄光、尊厳はこの方のもの。
偉大さ、力、栄え、栄光、尊厳はこの方のもの。
その方が、栄光の御座をあとにして、御使いよりも低い者とされ、人間イエスとして人の世に下り、すべての人間のそむきの罰を引き受けて反逆者として、十字架刑での処刑を受けられ、その死の苦しみのゆえに、再び、栄光と誉れの冠をお受けになられたのだそうです。
神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者、イエスを多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方にとして、ふさわしいことだったのだそうです。
イエスは、およそ30歳のころ、十字架刑で処刑されたのですが、過ぎ越しの祭りの安息日が始まろうとする(金曜日の日没)直前だったので、急遽、近くにあった、弟子であるアリマタヤのヨセフが自分のために掘っておいた墓に葬られたのですが、日曜日の早朝、新しいからだに復活されたのだそうです。
そして、40日に渡って何度も弟子たちに現れ、ご自分が生きていることを証明したうえで、弟子たちが見ている前で、オリーブ山から天に帰られたのだそうです。
「エルサレムから離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
もう間もなく、あなたがたは聖霊のバブテスマを受けるからです」と弟子たちに言い残して。
それから10日後、ペンテコステの祭り(50日祭)、旧い契約締結(モーセの律法の授与)の記念の日に、がぜん、約束の、もう一人の助け主「聖である霊」と呼ばれる方が待っていた弟子たちに来られて、「見よ。その日が来る。その日、わたしは、新しい契約を結ぶ。――主のみ告げ―― わたしはわたしの律法を彼らの中に置き、彼らの心にこれを書きしるす」(エレミヤ31:31~33)、「あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしの霊をあなたがたのうちに授け、わたしのおきてに従って歩ませ、わたしの定めを守り行わせる」(エゼキエル36:25~27)と預言されていた新しい契約が、私たち人間の歴史の中に実現したのだそうです。
天の神、主は、この新しい契約にすべての人が入って欲しいと願っておられ、受け入れる者に、約束のとおりに「聖である霊」と呼ばれる方を派遣してくださり、この方によって、一人一人に思って下さっている御思いをそれぞれの心の思いに置いてくださって、御自身と思いを一つにし、行動を共にする者にしてくださるのだそうです。
それで、受け入れる者は、天の神、主が、その人を通してしようと思っておられることをするようになり、栄光の御業を共にし、「わたしと一つになっている者」と呼ばれ、天の栄光、栄誉を共にする者ともしていただけるのだそうです。
「聖である霊」と呼ばれる方は、来てくださり、働いてくださるのですね。
今日も。
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