風にそよぐ葦

プロテスタントのキリスト教会員です。「ローズンゲン日々の聖句」より、その日、その日の聖書の言葉を紹介しています。

「わたしたちのように、彼らも一つに

耳を傾け、目を開き、あなたの僕の祈りをお聞きください。
 あなたの僕であるイスラエルの人々のために、
  今私は昼も夜も祈ります。ネヘミヤ記1:6
 
 イエスの祈り:
聖なる父よ、
わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。
わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。ヨハネ17:11 
 
        (ローズンゲン日々の聖句3/26;土)
 
 ネヘミヤは、捕囚の地、バビロンで、エルサレムから来た者たちから、捕囚をまぬがれエルサレムに残っていて、困難とそしりの中にいるイスラエルの人たちのようすと城壁は崩され、門は火で焼かれたままのエルサレムの状態の報告を受け、イスラエルの人たちとエルサレムのために執り成し、祈ったのだそうです(ネヘミヤ1:1~11)。
 
 2000年ほど前の、この週の木曜日の夜、イエスは、「最後の晩餐」と呼ばれている「過越しの食事」の席で、翌日の、自分の十字架刑での処刑を見据えながら、父である神と呼ばれる方に、残していく弟子たちのことをこのように執り成し祈ったのですね。
「あなたの御名の中に、彼らを保ってください」と。
 
 「御名の中に保たれる」、それは、イエスが神の御子として父である神の中におり、父である神が御子イエスの中にいる、一つになっていらっしゃる、そのように、父である神と御子である神イエスが弟子たち一人一人の中におり、弟子たち一人一人が父である神、御子である神イエスの中にいる、霊において存在を一つにしているということのようです。
 
 それは、もう一人の方、「聖である霊」と呼ばれる方が、弟子たち、一人一人の中に来て下さり、一人一人が「聖である霊」と呼ばれる方の中におるようになって実現することのようです。
 
 イエスは、このことが成るために、弟子たちに実現するために、これから十字架刑での処刑を受ける、ということであり、またそれは、人間のそむきによって的はずれになってしまっている、「さあ、人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて」と計画された(創世記1:26)、その人間創造のj目的を回復させることでもあったようです。
 
 それで、復活したイエスが弟子たちにまず言われたことは、
聖霊を受けなさい」であり(ヨハネ20:22)、
天に帰られる時、弟子たちに言い残されたことも、
エルサレムから離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。
もう間もなく、あなたがたは聖霊のバブテスマを受けるからです」(使徒1:4~5)だったわけですね。
 
 天の神、主は、人間のすべてのそむきの罪を、御子イエスの上に置いて、イエスを処刑することで、すべての人間の処罰が完了したものと手続きしてくださって、受け入れる者に、「聖である霊」と呼ばれる方を派遣し、この方によって、その心に、受け入れる一人一人に関わるご自身の御思いを思わせてくださって、受け入れる者が御自身と同じ思いを思う者にしてくださり、一つ行動をとる者にしてくださるのだそうですね。
 
 天の神、主には、私たち一人一人をとおしてしようと思っていらっしゃることがあり、私たち一人一人が、天の神主への愛と尊敬をもって、そのことをしていく者にしてくださるのだそうです。
今日も。
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